15,車両工場
茅ケ崎駅を出て15分後、大船駅に到着した。
大船駅からは車両がレールにぶら下がる懸垂式モノレールに4区間乗って
自動車も通るため広く設けられた正門。その左側に電話ボックス四つ分程度の小さなプレハブの守衛室があり、窓口に座っている警備員さんに挨拶をしてパスをタッチ。これがタイムカードとなり、この時点で勤務開始となる。始業時間は8時30分で、現在7時51分。着替えに10分かかるとみなして8時20分からの10分間は超過勤務扱いとなる。
着替えで残業代が発生するの?
はい、します。
ただし、制服勤務が義務付けられている職場限定。つまり会社が着替えを義務付けている以上、それは労働となるため、超過勤務扱いとなる。
そんな感じでほどほどの時間に出社した私は、同僚や上司に出会い頭の挨拶をしながら白を基調とした無機質な事務所棟の2階へ上がり、女子更衣室に入った。1階は男子更衣室。
ここ『鎌倉総合車両所』は、2008年4月1日に再発足した車両メンテナンス職場。旧工場は建物の老朽化やアスベストの使用等を理由に2006年に閉鎖、敷地内は一度更地となり、新たに建て直した。また、旧工場の職員は閉鎖を機に散り散りとなり、時は流れ離職者も発生、現在はほとんど残っていない。
「おはようございます。今年もよろしくお願いします」
ペコリ、淡々。
「おはよう夢叶、今年もよろしく!」
無機質なロッカーが並ぶ更衣室。その中に一人、着替える者の姿があった。
なお当職場の男女比は概ね5対1で、日本総合鉄道の社員は男女合わせて百名。その他、グループ会社の社員、日本総合鉄道からグループ会社に出向中の社員も合わせて約2百名。
「それじゃ、また後でな」
素早く着替えを終えた朝比奈さんは、颯爽と更衣室を後にした。わたしはおもむろに着替えを始めた。楽しみなイベントの日は早く着替えられなくもないけど、着替えは基本ゆっくりしたい。
8時半になると、車体等の検査、修繕を行う『車両1科』の縄張りで年初の全員点呼。ほかに、台車、車輪、車軸、
チャイムが鳴ったら点呼と鉄道体操などいくつかの呼び名がある会社オリジナルの準備体操をする。人数が多く、スペースを要するため普段は各部署ごとの点呼。
昔むかし、鉄道車両の工場といえばおびただしい量の塵や埃が舞い、床はそれらや油類、溶断、溶接で焦げた金属等で汚れまくりだったそうだけど、現在は集塵機や高性能の掃除機を配備し、工場内は清潔に保たれている。働きやすい環境は優秀な人材を集め、離職を抑えられると経営者は語る。
「鉄道は人々の暮らしを支えるインフラであり、ときに心に潤いを与えるエンターテインメントでもあります。日常にも非日常にも寄り添う、これ以上ないほど社会に貢献している仕事に、私たちは携わっているのです。その誇りと使命を胸に、今年も存分に頑張っていただきたいと思います」
百人の前、壁際に立つ所長の
さてさてエリートとは程遠い高卒のわたし、平社員、森崎夢叶の初仕事は車両修繕の手伝い。
本来、わたしの担当は部品の発注や管理等の事務だけど、まだ多くの取引先は正月休みが続いていて連絡が取れない。羨ましい。
一方、現場は流行り病や「周りの企業が仕事始める前からやってられるか!」という理由の年休で欠員が多く忙しい。一般的な企業の年間休日数が126日に対し、日本総合鉄道は115日、年休をフルに使うと135日となる。平均年休消化日数は17日。
9時、ピピッ、ピピッと笛の音が響く、乾いた風が吹き込む建屋。全長20メートルの一般型電車(いわゆる通勤電車)のそばで黄色いヘルメットを被った男性社員が、屋根に近いクレーンの操縦室にいる男性社員を誘導している。
電車の車体と足回りを分離。車体を天井クレーンで抱き抱え移動させると足回り(台車)だけが残った。
その足回り、特に人間の赤ちゃんのような形状のブレーキユニットは入り組んだ構造をしているため、事故現場や車庫では除去しきれなかった血痕や毛髪、衣類の破片が微かに付着していた。鉄分を含む刺激臭が漂っている。老若男女美男美女、轢かれてしまえば皆同じ。
こういうのは、もう見慣れた。もはやわたしにはどうもできない人の不幸。
鉄道人身傷害事故、いわゆる人身事故に至る原因は自殺や歩きスマホ、音楽を聴きながら歩いていた等の不注意、泥酔等様々。もしこの衣類の持ち主が自殺したとして、生前に物語を届けられていれば、救えただろうか。
わたしが芥川や直木を受賞するよりも難しい願いだろうけど、これ以上人身事故が起きませんように。
願い虚しく仕事帰りに乗った電車のドア上LEDでは他社線で発生した人身事故の情報がスクロールしていた。
くたくたになって帰宅して、夕食、シャワー、執筆、たまに
ピンコーン!
おや、滅多に使わない通信アプリにメッセージ。送信主は
『近いうちに温泉に行かない?』
温泉かぁ、いいな、行きたい。でも原稿もあるから忙しいし、どうしようかな。行きたい、行きたい、行きたい、温泉、行きたい……。
『日程調整の上、ぜひ行きましょう』
誘惑に弱い三十路女、森崎夢叶であった。
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