16,旅立ちの朝

 旅のはじまりは、ちょっとゆっくりと。


 せっかく舞ちゃんが温泉旅行に誘ってくれたので小型時刻表をぺらぺらめくり、無理せず起床してから出発する旅程を立てた。休日が被ったので、今回の旅には美奈ちゃんも参加することになった。


 冬の低い朝陽が射し込む8時台の茅ケ崎駅は、まもなくラッシュアワーの終盤。雑踏ざわめく中で『希望の轍』のイントロが流れ、目の前に停まっている満員の普通列車はドアを閉め、東へと走っていった。


 わたしはというと、少し大きなバッグを肩に掛け、左手には駅のコンビニで買ったホットコーヒーを持って列に並び、次の電車を待っている。コーヒーカップは中身をこぼさないように蓋をしている。


 しばらく待ってホームに入ってきたのは、白地にマリンブルーを塗装した特急列車、湘南しょうなん号。全車指定席で自由席はない。


 客室に入ると、内装もマリンブルーの座席と化粧板で、海辺の特急らしく爽やかな印象。スマホで座席番号を確認し、右肩に掛けていたバッグを棚に上げて着席。テーブルは展開せずドリンクホルダーにコーヒーカップを置いた。続いてリクライニングシートの背もたれを少しばかり傾け、座面を前へスライド。


 ふひ~、やっぱり旅はゆったり快適でなきゃ。


 後ろの席に人はおらず、いまのところそこに予約は入っていないようだ。湘南号では座席上の荷物棚下に青、黄色、赤のランプが埋め込まれていて、座席の予約状況によって点灯するランプの色が変わる。青は予約済みで既に利用者がいる席、黄色は予約済みで、この先の駅から利用者が乗ってくる席、赤は空席。


 湘南号はこの先、辻堂つじどう藤沢ふじさわ大船おおふなと湘南地区の各駅に停まり、湘南地区ではない大都市の横浜よこはま川崎かわさきを通過して、次は都内の品川しながわ、終点、東京の順に停車する。


 大船を出ても前後の席は埋まらなかった。わたしも一応鉄道会社の社員なので座席が売れないと経営的に苦しいのは承知しているけれど、隣や前後に人がいないと快適なのは確か。お一人様も多い時代、鉄道会社はわたしたちのような者に合わせた座席も用意してほしいと切に願う。松平所長には提言しているけれど、決定権があるのは経営陣。


 通勤でイヤというほど見ている車窓も、ゆったりしたシートに身を委ね、脚を伸ばしてコーヒーを飲みながら眺めれば、あら不思議、ちょっぴり新鮮な気分。

 

 幸いイヤホンの音漏れや通信アプリのメッセージ送受信時のピコン! という音、パソコンのキーを叩く音も聞こえず、快適な移動空間で東京駅までの48分を過ごした。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る