3,波間にとろける夕陽を浴びて
「あー食った食った!」
お腹いっぱい食べてラーメン屋を出たわたしは、まみ子といっしょに南へ歩き出した。ラーメン屋から数十メートル先の交差点、横断歩道を渡るとすぐ、閑静な住宅地になる。ここから人通りが一気に少なくなる。静かでのんびりした空気が漂う、不思議な道。
この『
「カップ麺?」
「いや、フツーにラーメン屋のラーメンだろ。いっしょに食ったじゃねぇか」
「そっか」
「ナメてんのか?」
「ううん。CMのネタかと思っただけ」
「ナメてんな」
「食後のコーヒーが飲みたくなってきた」
「ああ!? なんだ藪から棒に。じゃあ飲むか!」
ちょうど自販機の前に差しかかったので、わたしは瞬時に話題を切り替えた。すると、ななんと! まみ子が五百円硬貨を入れて缶コーヒーのボタンを2回押した! これはもしや
自販機の横で白いシャッターを下ろしているこの店はラーメン屋同様、昭和時代から愛されている老舗のパン屋。現在は閉店しているが、建物は残っている。小さいころ、わたしもときどきここでサンドイッチを買って海で食べていたら、トビに半分持って行かれた。大好きなタマゴサンド。
「ほらよ」
門沢さんは2本のあたたかい缶コーヒーのうち1本を私に差し出した。いずれも同じ商品。
「ありがとう」
「いいってことよ」
古くからの邸宅が多い雄三通りの狭い歩道を、二人一列になって歩く。でないと車道にはみ出てしまう。
古き良き雰囲気の中に突如現れる、近代的な低層マンションの前にぽつり佇むバス停が間近に迫ったとき、背後からヒューッとエンジン音が聞こえた。バスが速度を落として停車しようとしている。やけにゆっくりなのは、わたしたちを追い越してから停車したら、バスから降りて来た客がわたしたちの行く手を阻んでしまうからだと思う。運転士の心遣いに感謝しつつ歩を速め、前を歩く門沢さんを煽った。
「なんだどうした?」
「バスが来てるから」
「そっか、気が利くじゃん」
国道の横断歩道を渡り、松林の間の砂混じりの道を抜けると、海沿いのサイクリングロードに出た。眼下には砂浜と、陽が傾いて白く光る海。空の下方はオレンジで、上方は水色。
東には
半島に囲まれた茅ヶ崎の海。けれどその間隔は広く、開放的。
茅ヶ崎といえば、沖合にひょっこり浮かぶ
多くの人で賑わう江ノ島周辺に対して、茅ヶ崎の海岸は人通りまばらで静か。穏やかに打ち寄せる波の音と、はしゃぐ子どもの声が響いている。
波打ち際ではリードに繋がれたゴールデンレトリバーが飼い主と思われる若い男を引っ張っている。ついて行けなくなった男は多量の砂利が転がる波打ち際に顔面を打ちつけ、なお引きずられている。
べふっ、ゴリゴリゴリ、ズルズルズル、ざぶーん。おっと、やや大きな波が打ち寄せ傷ついた顔を海水で洗われたようだ。男はリードを手放し
「声かけたほうがいいかな。救急車呼ぶとか」
「大丈夫だろ。ああいう胡散臭い輩は苦手だから関わりたくない。助けてくれたお礼に儲かる秘訣をとか言って、投資詐欺なんかを吹っかけてきそうだ」
「そっか、じゃあやめておこう」
わたしたちが歩き出すと、のたうち回る男はカーゴパンツのポケットから慌ててスマートフォンを取り出し、操作し始めた。こんなカオスな出来事も、茅ヶ崎の趣といえば趣。
波打ち際を二人並んで歩いているうちに、みるみる陽が傾いてきた。少し離れたところから救急車のサイレンが聞こえてきて、やがて途絶えた。
ざぷーん、とろとろ。寄せては返す波に、太陽光の粒子が反射してきらめく。空を舞うカラスの声が、黄昏時の情緒を誘う。
「わたし、この時間がけっこう好き」
少し大きめのまるい石が転がる足元。立ち止まってわたしは、鮮やかに染まる空を仰いだ。
「あぁ、そうだな。自販機の下に十円玉落としたくらいのちっちゃい悩みなら、波が溶かして
言ってまみ子は、缶コーヒーのタブを起こした。
「……」
「どうした?」
「なんか、詩人みたいだなって」
「一応現国の教師だからな」
「原告? 裁判?」
「現代国語の教師だよ。そこの
海学。
「あっ、へぇ、そうなんだ……」
「ゼッテー教師なんか似合わねぇって思ってるだろ」
「ううん、そんなことないよ……」
「で、夢叶はなんの仕事してんだ?」
「電車の整備工場で、電車に使う部品をメーカーから仕入れたり、部品不足になった他の工場にあげたりする仕事」
「マニアックだな」
「本当は車掌さんになりたかったんだ。都内の高校に通ってたから電車通学で、わたしと同じような体型の女の車掌さんが、指をピーンって伸ばして、レピーター点灯! 発車! って言ってドアを閉める姿がカッコイイなって思って。それで鉄道会社に入ったはいいけど、乗務員の適性検査に落ちちゃった」
「そっか、そりゃ残念だな」
「うん。だから整備工場に配属されて、電車の制御装置なんかを分解して、ネジとかピンとか色々と悪いところがないか見極めて、異常がなければそのまま、ダメだったら新品に替えて組み立てるっていう仕事を10年やって、いまは現場を退いて車両部品とか、お茶とか紙とか、日用消耗品の調達係。たまにヘルプで現場にも出る」
「のほほんとした顔して何気にすごいことやってんのな」
「ほんとだよぉ、毎日電話取って知らない人と通話して、中には横柄な感じの人もいて、無数の取引先の中には「変な話、外注先の海外メーカーが祝日休みで取り寄せらんないんすよー」とか言って当たり前のように納期遅れする業者もあるから、下手したら万策尽きて電車運休だよ。ほんと胃と頭が痛くなる。そもそもお前ら自社工場持ってる部品メーカーだろ、なに勝手に海外に投げてんだっての。自分らでつくれ」
「あ、そっちのが大変なのか。エンジニアより」
「現場の仕事も大変だよ。大前提として技術力が必要だし、部品納入が遅れたり、上から指示されたスケジュールに無理があると電車が運休にならないようにギリギリで組み立てたりするから。けどわたしはコミュ障だから、メーカーとかほかの職場に電話したり、苦手な人もいる現場を回って進捗状況を聞き取って仕事を回してるいまのほうが大変」
つまりわたしは現場と上との板挟み。対人トラブルも度々発生して、それがいちばんの悩みの種だったりする。
「なんか、やばいな。わたしにゃ無理だ」
「門沢さんは、学校の先生って、どういうことしてるの?」
「わたしか? そうだな、言わば海学の女神だな」
「モテるってこと?」
「いや残念ながらそうじゃねぇ。わたしはな、いつもサーフィンをしてから出勤してるんだけど、時間を忘れてよく遅刻するんだ。そうすると当然減給される。減給された分はほかの職員の給料に上乗せされる。だからわたしがいるだけで、ほかのヤツらの財布が潤うんだ」
「お、おおう……」
よくクビにならないな。
「けどよ、朝の職員会議に間に合っちゃうと、職員室に入った途端白い目で見られるんだ。おかしいだろ? 遅刻しないで真面目に出勤してるだけなのによ」
「ははは、ははははは……」
「そんな感じで理不尽なこともあるけどよ、いじめだけは食い止められてるのが数少ない救いだよ。いじめはつらいもんだ。物理的な暴力も、言葉の暴力も、陰でコソコソしてるのも、殺人に相当する。わたしも小学校ではいじめられたからな」
「そうなの?」
「意外だろ」
「うん、まぁ」
「わたしはな、なんか鼻につく女の輪の中に入るのが苦手で、男子と群れてるほうが気楽だったんだ」
「そうだったね。中学のときは男子グループの中で手裏剣投げてたもんね」
「あぁ。けどよ、クラスの何人かの女子が、門沢さんって、女子なのになんで男子と遊んでるんだろう? とか、ちょっと離れたところでコソコソ言ったり、ときに面と向かって言われたり。うるせー! って言い返したりもしたけどよ、そんなの無意味で、ぶん殴りたい気持ちを抑えながら、結局やられっぱなしだった」
「そんなことが」
気の強い門沢さんは、いじめとは無縁の存在だと思っていた。いじめられるのはいつも大人しい人だと思い込んでいた、浅はかな自分を思い知った。
「あぁ。男子は男子で、女子は女子で固まる小学校の独特な空気は、わたしにとっては「孤立しろ」って言われてるのと同じだった。独りでいたいならそれは構わないが、性別が違うだけで気の合うヤツがいるのに、そこと打ち解けるなっていうのはつらいものだ。実際、男子はわたしを歓迎してくれた」
「最後には、解決したの?」
「まぁな。解決したっていうか、敵は多いが、自分を好いてくれてるヤツを大事にしたって感じだな。歳を重ねる度に、交遊関係に性別も年齢も関係なくなって、あのころと比べりゃだいぶ生きやすくなったな」
「そっか……」
「どうした? 夢叶もいじめられたのか?」
「うん、小中高、会社でいじめられなかった場所はなかったよ。あの、わたしもコーヒー飲んでいい?」
「あぁ、勝手に飲め」
「ありがとう。いただきます」
言ってわたしは、すっかり冷めた缶を開け、一口含んだ。適度な苦味とアセスルファムカリウムのスッとした甘味、そして脱脂粉乳のコク。缶コーヒー独特の味が、わたしはけっこう好き。
「でも不思議でね、小中学校でわたしをいじめてた子たちは、いまは味方になってくれてるんだ」
「ほお、どんな感じに?」
「半年くらい前かな、高校のときにわたしをいじめからかばってくれた子から、SNSのダイレクトメッセージを通じて10年ぶりくらいに連絡があったの。それでね、お互いどんな仕事をしてるとか、結婚して
彼女は誰に対しても当たりが良くて、会話をしているときはいつも笑顔でいる、クラスの人気者だった。
「詐欺だな。ていうか高級住宅街のセレブが茅ヶ崎なんぞの平民にカネを乞うな」
「わたしももしかしたらそうなのかなって、でも本当だったら大変だって思って、どうしたらいいかわからなくなって、小中学校の子たちとつながってるSNSコミュニティーで、当人の名前は伏せてその旨を書き込んだの。そしたらすぐ、小学校のときにわたしをいじめてた子から、それは詐欺だよ! 絶対払っちゃダメ! 夢叶は優しいからつけ込まれたんだよ! って返信があったんだ。だから結局払わなかった」
「正解だな。もし本当に入院していたとしても、カネをせびったら関係は終わりだ」
「うん。それでわたし、思ったんだ。人生って、いろいろだなって。かつて自分の敵だった人がいまは味方で、味方だった人はわたしを蝕んでる。お金は払わなかったけど、心はずっと痛いままだよ」
「夢叶は懐が深いんだな」
「ん? どうして?」
「いじめたヤツを許して、掌返して毒を浴びせてきたヤツに心を痛めて。わたしだったらいじめてきたヤツはずっと嫌いだし、カネせびってきたヤツなんか自分の中では存在してないことにする」
「それはなんかまぁ、気分だよ。高校でいじめてきたヤツはいまでも嫌いだし、二度と会いたくない。クソ死ねマジクズ。死ねっていう言葉は嫌いだけど、アイツに関しては心の底から死ねって思ってる。顔だけ出してコンクリート詰めにされて、海に沈められればいいと思ってるよ」
「お、おう、そうか……。まぁなんだ、許せるヤツと許せないヤツがいるんだな」
「そうそう。それよりね、わたし、小説書いてるんだ」
「お、おお? 突然の告白だな。なんだ、賞でも獲るつもりか?」
「賞、というよりは、アニメとかドラマになったらいいなぁって」
「マジか! そりゃすごいな! 本出したら本屋回って宣伝するから言えよな!」
「あっ、それはどうも、ありがとうございます! ウェブ小説ならもう公開してるよ」
わたしはラインで門沢さんに小説のURLを伝えた。
なんだかドキドキ。小説、知ってる人に読まれちゃうんだ。
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