6-6 ブリズベン河

 ポケットに入れていたデバイスが振動した。

 暗闇の中からほとんど無意識のうちにその光を掴み出す。手元の小さな空間だけが切り取られ、ぼうっと明るく浮かび上がった。

 二件の着信と、一件のメッセージ。発信者の名はどれもカシムだった。滑らかな褐色の肌と澄んだ水色の目が脳裏をよぎり、ぼくは縋るような思いでメッセージを開いた。冷静に書こうとした努力だけは見て取れる文章に目を走らせ、意味もなくその上に指をうろつかせ――結局諦めて、そのまま返信はせずに端末を眠らせる。

 青年から送られてきていたのは、驚くべき推測だった。いつものぼくであれば、飛び上がって訳のわからないことをわめき散らすくらいのことはしていただろう。

 しばらくその推測を左手に握りしめていたけれど心は微動だにせず、ぼくは車の天井部分をぼんやりと眺めていた。日も沈み切ったブリズベンを走る車内は、足先が見えない程度には薄暗かった。けれど、安寧を得るには暗さが足りない。夜のブリズベン河くらい真っ黒な中でなら、きっと安堵のため息もつける。

「お前の幼なじみからさっそく連絡か?」

 ぼくの隣で黒い塊がそうぼくに声をかけた。ブライアンと同じくらいの背の高さだと思っていたけれど、こうして横に並んでみると隣の塊の方が質量は少しばかり大きいようだった。

 ぼくはなんとか気力をかき集めて、ため息をこらえる。

「……違うよ。別の知り合いからの連絡だった」

「ふうん」

 間延びした相づちで答え、勝手に車を呼んでぼくを押し込めた黒い塊――レオがのそりと身じろぎをした。なかなか背もたれの定位置を定められない男の様子に、ぼくは居心地の悪さと理不尽ないらだちを感じる。

「別に、わざわざ一緒に帰る必要なんてないのに」

「別に、わざわざ別に帰る必要もなかろうよ。おれん家もお前さん家も同じ方角だ」

「まだ飲み足りないんじゃないの」

 ぼくの言葉に、レオはため息と共に肩をすくめた。

「まあ、あのまま奴さんを肴に飲むのも悪くはなさそうだがねえ」

 沈黙で答えた。意図したわけじゃない。喉に引っかかって、言葉が何も出てこなかっただけだ。

 その沈黙をどう解釈したのか、レオがぼくの様子をちらりと横目で窺う。

「……お前さんはあいつの最後の言葉を気にしているかもしれないが――あの大男は、本気でお前さんのことを嫌っているわけじゃあないと思うぜ」

 またしてもぼくは沈黙で答えた。今度は意図的だ。そんなことはわかっている。あんたに言われなくても、ブライアンのことは世界中の誰よりも、場合によっては母親であるハンナよりもよく知っているんだから。

 男の苦しげな声を思い出し、ぼくの胸に鋭い痛みが走った。あの時、あいつはどんな顔をしていたんだろう。背を向けていたぼくは想像することしかできなかったけれど、あの時の彼の顔を想像しようとするだけで胸が潰れそうだった。

 ――お前なんて大嫌いだ

 優しい幼ななじみに、あんな言葉を言わせてしまった。

 ぼくを信じずに自分勝手なことをしたブライアンを責める気持ちはある。言葉が通じない彼に対して、うんざりする気持ちだってある。

 けれどやつが、ただぼくを守ろうとして空回っているのだということくらい、ぼくだってよくわかっていた。

 ぼくとは違う。

 五年前、彼に振られた時に、本当は気づいていた。ぼくのブライアンへの想いは不純だ。ブライアンがぼく以外の全ての人を遠ざけることに、あの時どれほど深く満足していたことか。ブライアンのためだなんて気持ちは少しも優しいものではなかった。ぼくはただ、自分が彼を独り占めできる立場にいられることを喜んでいたんだ。……そんなぼくの思いなんて、ブライアンが不快に思って当然なんだ。

 浅ましい過去の自分を淡々と思い出していたその時、存在を忘れかけていた端末がぼくの手の中で強く振動した。隣を気にしながらのろのろと手を持ち上げる。表面に浮かんでいたのは見覚えのない数字の羅列だった。

 レオが興味なさそうに肩をすくめるのを確認して、ぼくは通話ボタンを押す。

「……ハロー?」

 ぼくのあまり気のない声に、張りのある男性の声が答えた。

「こんにちは。ルーカス・ポッターさんでお間違いありませんか。インテリアデザイナーの?」

 深みのある、誠実そうな声だ。やや芝居がかかったような言葉の端々には揺るぎない自信が溢れんばかりに満ちていて、なんだか胃もたれしそうだった。

 その誠実そうな声と、仕事に関する用事であったことに少し気を取り直した。ぼくはできるだけ落ち着いた、仕事用の声で答える。

「その通りです。失礼ですが、あなたは?」

「ポール・マクスウェルです」

 男性がそこで言葉を切った。名前だけでわかるだろうと言いたげだ。

 彼の名前を聞くのは初めてだった。けれど、ぼくの疲労に喘ぐ頭でも彼が誰であるのかはすぐに見当がついた。アラン、マリアに続く三人目のマクスウェル。

「……初めまして、マクスウェルさん」

「お忙しいところ失礼、ミスター・ポッター。あなたには息子と妻が大変お世話になったようだ。お礼をお伝えしたいと思っていたんですよ」

 その笑みを含んだ誠実そうな声と、アランからたびたび聞かされていた彼の父親の姿との乖離に、ぼくの頭はそれぞれが逆方向に動こうとする歯車のように強い緊張を湛えたまま固まってしまった。アランの父親は、ぼくの想像の真逆の声の持ち主だった。穏やかで優しげで、そして礼儀正しい。彼が自分の息子に暴言を投げつけ、大切なものを奪い、監視していたなんてにわかには信じられなかった。

 マリアが『男らしい男』と称した彼女の夫。彼女があの背伸びしたインテリアでアランから遠ざけようとしていた存在――彼のセンスを反映させたというマリアの家の外観を思い出し、ようやくぼくの中で乖離していた彼のイメージが、少しだけ同じ方向に噛み合う。

 やや冷静さを取り戻し、ぼくは息子を亡くした父親に心からのお悔やみの言葉をかけた。

「いえ、とんでもない。……アランのことは心から残念に思います。本当に、残念です」

「ありがとう」

 ポール・マクスウェルの声が悲しげに陰った。息子を亡くして悲しみに暮れる父親の声そのものだった。

「あなたが生前、息子と交流を持っていてくれたことは二人から聞きましたよ。なんと感謝していいかわかりません、ポッターさん。あなたはきっと、息子にいい影響を与えてくれたでしょうからね……」

「……そう、ありたいと思ってはいました」

 疑問符がつくかつかないかの微妙な語尾に自然と促され、ぼくは小さく唸るように答える。ぼくの答えの何に満足したのか、電波の向こうでアランの父親が微かに微笑む気配がした。

「ところで、わたしの妻があなたにインテリアデザインの依頼をしたそうですね」

「え、ええ」

 優しげな声色を保ったままの突然の話題転換に驚いて、ぼくは少し口篭ってしまった。ポールの声がさらに満足げに緩む。

「あなたのことを少し調べさせて頂いたんですが――あなたは素晴らしいセンスをお持ちのようだ、ポッターさん。ずいぶんと成功されているようですね」

「いえ、それほどでもありません」

「ご謙遜の必要はないでしょう。あなたはデザイナーとして独立し、仕事の評判も良く、名のある建築家とのコラボレーションでも活躍されたようだ。家具やテキスタイルのデザインでも認知されつつある。何より出資者に恵まれている」

「本当に、よくお調べになられたようですね……」

 穏やかで淀みないポールの言葉に、ぼくは気圧されたままただそう口にすることしかできなかった。そういえば、彼は弁護士だとぼマリアが言っていた。ぼくが会話の意図を図りかねて右往左往しているうちに、対話のプロは赤ん坊からキャンディを取り上げるよりも容易に、やすやすと会話の主導権を握ってぼくを踊らせる。

 ぼくの戸惑いに気づいているのかいないのか――いや、間違いなく気づいているのだろうけれど――ポールはほとんど楽しげと表現できそうな声で続けた。

「わたしの事務所もぜひ見ていただきたいものです。ああ、申し遅れましたが弁護士をしておりましてね。あなたが手がけた住宅展示場の書斎のインテリアの、十分の一のセンスでも取り入れられれば、古くさくて見栄えのしないうちの事務所の評判も上がりそうだ」

 また一つ、あの家の外観と彼の印象が噛み合う。この弁護士からの仕事を受けたとしたら、それはひどくつまらないものになるだろう。そんな確信を持ちはしたけれど、彼と、アランの話に出てきた父親像とを重ね合わせるのはそれでもひどく難しかった。アランの父親はもっとわかりやすく粗暴で、人を人とも思わない利己的な人間だと思っていた。少なくともこんなふうに、相手を安心させるような理知的で落ち着いた話し方ができるとは思いもしなかったのだ。

 アランが血を吐くように、膿を出し切るように紡いでいた言葉が、彼の父親本人の言葉によって、薄い油膜で覆われるように徐々にその印象を変えていく。アランの言葉を変質させてしまうのは、彼に対する冒涜のような気がしているのに。一方で、誰かの意見だけで相手の全てを決めつけるのは失礼かもしれないという声が、自分の中から湧き上がる。

 礼儀正しさを失わないようにと内心で葛藤するぼくに、ポールの声が一段と低く語りかける。

「……あなたならば、妻から契約を引き出すのは容易だったでしょう、ルーカス」

 その言葉の持つ悪意に気づくのに、ぼくはたっぷり二拍を必要とした。ぼくが何も反応できずにいるのを確認するようにしばらく沈黙を挟み、そして男はやんわりと続けた。

「いえ、もちろんあなたはただ妻を元気づけるために、ご自身の技術を使おうとしたのでしょうが――けれどたった四日です、妻が息子を亡くしてからあなたを訪ねるまで。子供をなくしたばかりの女性を唆すことに、罪悪感を覚えはしなかったのか……失礼、これも言い方がよくありませんね。ただ、金銭の絡む問題なのだから、もう少し配慮していただきたかったところではあります」

 少しのとげとげしさもない柔らかな口調で言葉を吹き込まれるたびに、ぼくの心臓は徐々に強く脈打ち始める。その鼓動に呼び起こされた頭痛が、いつものようにぼくの脳みそから思考を奪う。

「これは弁護士であるわたしからのちょっとしたアドバイスですが、ルーカス。あなたはこれまで通り、金と暇を持て余した連中を相手にひとときの気分転換を提供していればいい。世の中に本当に役立ちながらまっとうに生きる、我々のような人間に手を出そうなどとは考えないことだ。特に今回のように、相手の弱みにつけ込むような真似は詐欺だ――」

 ポールがわざとらしくそこで言葉を止めた。反論する気力もないぼくに、男はいつの間にかするどく冷たくなっていた口調を再び和らげ、続ける。

「――と、場合によっては判断されるかもしれませんからね」

 そんな、ばかな話があるだろうか。マリアは自分の意思で、ぼくに仕事を依頼したのだ。ぼくが一方的に彼女を騙しただなんて、マリアの意思や判断力をあまりにないがしろにし過ぎじゃないか。

 それなのに、どうしてぼくの口からは反論のひとつも出てこないのだろう。部屋を整えることはぼくの人生の喜びそのものなのに、インテリアデザインの奥深さにいつだって魅せられてきたのに、どうして金持ちの道楽呼ばわりされたままそれを受け入れているんだろう。

 ぼくが呆然と端末を握りしめている間に、ポールが優しいながらも断固とした口調で宣言した。

「取り急ぎ、妻があなたと交わした契約は白紙に戻していただきたい。まあ、見たところ契約と呼べるようなものはまだ何も交わしてはいないようですが」

 今度こそ本当に、全ての気力が自分の中から流れ落ちていった。ブライアンがあの日の夜の男だと知った瞬間のことすら懐かしく思えた。今はもう、何かに驚く力すら残されていない。

 ポールが最後にぼくに何かを言い、そのままぼくの返答を待たずに通話を切った。もうマリアに連絡しないようにとかなんとか、そういうことを言われた気がする。隣でレオが、ぼくの様子を伺う気配がした。

「よお。大丈夫――」

「……河が見たい」

「なんだって?」

「ブリズベン河がみたい。黒い水が流れるのが見たい」

「いや、お前……」唖然と口を開けたレオが、すぐに首を大きくぶんぶんと横に振った。「いやいやいやあんな河、こんな夜更けに見て楽しいもんでもなかろうよ。明るい時間に見に行けよ、濁った河でもちったあ晴れ晴れした気分になるだろうさ」

 ぼくの周りの友人たちもみんな、好んでいるのは昼のブリズベン河だ。明るい日差しが流れゆく水に反射し、その上をたくさんの船が悠々と進んでいく。河を垂直に横切る橋の上には人通りも車通りも絶えず、川の両岸にはそれぞれの地区の特徴を色濃く反映した建造物が建ち並ぶ。どこを切り取っても晴れ晴れとした光景。わくわくと胸を躍らせ鼓動を高鳴らせる、われらが街の美しき象徴。

 けれど、ぼくにとってのブリズベン河はあの夜の黒色だ。まるでそこには何も存在しないかのような、空間をぽっかりと切り取ってしまったかのような黒。澄んだ黒じゃない。何もかもをも飲み込んでしまいそうな、濁った黒色。

「夜じゃなきゃだめだ。ブリズベン河は夜じゃなきゃだめだ。ガラス越しでいいんだ」

 疲れているな、とその時初めて心から思った。

 まあいいや。ちょっと言ってみただけさ。

 そう胸の内でつぶやいて、目をつぶる。一瞬の空白。遠くからぼくを呼ぶ男の声でぼくは再び車内へと意識が戻された。

「――よお。ちゃんと窓の外、見ろよな。お前さんが見たいって言ったんだろうが」

 はっとして窓の外に目を向ける。ぼくが望んだ通りの、夜のブリズベン河がやや遠目に見えた。事務所までの帰り道に、河が見えるルートなんてない。ぼくが意識を手放した一瞬の間に、運転手さんが遠回りをしてくれたのだろう。レオがルート変更を依頼したのだということをどこか遠くの方で理解しながら、ぼくの目は河の黒色に釘付けになっていた。そこに何も存在しないような深い色を湛えながら、何かが蠢く気配だけがただ甚だしい。

 ああ、あの河のそばに行きたいな。

 あの黒のそばで、その深淵を思う存分覗き込みたい。

「通り過ぎるだけだぜ。今日は大人しく家に帰りな」

「わかってるよ。ありがと」

「今日だけだ。お前さんの初めてのわがままだからな。珍しいもんばかり見せられる日だぜ、全く」

 男の言葉をぼんやりと反芻する。よく咀嚼できないまま黙り込んでいるうちに、ぼくたちを乗せた車はブリズベン河を逸れて街の中心部へと向かっていった。ぼくのアパートの、車線を挟んだ反対側の歩道に停車する。

「じゃあな、ルーク。とっとと家に入るんだぞ」

 窓の中からそう言い残して、レオはそのまま自分の家へと走り去った。彼を乗せた車が視界から消えた瞬間、今度こそぼくはため息と共に体から全ての力を抜いた。その瞬間ばあちゃんの声が、アランの声が、マリアの声が、そしてブライアンの声が次々と頭の中に溢れかえり、ぼくはたまらず両手で顔を覆った。

「なあ、お前は一体何がしたいんだよ」

 荒い息の隙間から、ひとりでに言葉が漏れ出していく。

 あれもこれもと欲しがって、手に入らないことを人のせいにして、偉そうに人を励ますくせに自分は何一つ満足に成し遂げられない。あんなに望んだ好意から逃げて、散々振り回しておいて逃げて――傷つけて、傷つけて、傷つけて。

「これで満足なのかよ……!」

 三年かけてようやく振り切ったと思ったぼくの闇。もう二度と囚われないように必死に逃げてきたあの時の自分に、ぼくは捕まってしまった。

「ばあちゃんごめん。ぼくはやっぱり、ぼく自身のことが大嫌いだ」

 黒く底光するブリズベン河の水面がぼくを見つめ返してきた。ぞっとするような、うつろで醜い黒い影がぼくに微笑む。

 ――なあに。ただ心が電池切れを起こしただけさ

 懐かしいばあちゃんの声が遠くから聞こえる。

 ――自分が本当に好きなものを身の回りに置いて、自分が本当にしたいことをすればいい。自分を大切にすることを覚えたら、すぐにまた心も柔らかさを取り戻せる

 そうか。ぼくは家に、帰らなくちゃ。

 ぼくの好きなものだけを集めたあの部屋に帰って、ぼくが今一番したいことをしなくちゃいけない。そうすれば、この暗闇からもきっと抜け出せる。――だって、ばーちゃんがそう言ったから。

 自分の中の祖母の声に従って明るい光が漏れるエントランスへ向かって足を踏み出そうとしたぼくは、自分の足がほんの一ミリたりとも動かせそうにないことに気がついて途方に暮れた。心が冷える。言いようのない焦燥に脂汗を滲ませながらなんとか動こうとしたけれど、ぼくの足はすくんだように地面に張り付いたままだった。

 もう一度明るいエントランスに目を向ける。

 自分の心が喜ぶ物だけを集めたはずの、ぼくの部屋。かつては光り輝いて見えたその全てが、今この瞬間、何の価値もないものに思えた。

 ぼくは一体今まで何を必死になって得ようとしていたのだろう。一生懸命にがんばって手にしたものは、こんなにも虚しいものだったのか。幸せになるために重ねてきた、努力の全て。

 そんなものよりも今この瞬間、ばーちゃんの作ったムサカが食べたかった。ばーちゃんにもう大丈夫だと言って欲しかった。世界で一番愛しているのはぼくだと言って欲しかった。

 そしてアラン。君と、もう一度話がしたいよ。

 その望みは叶うだろうか。ぼくが手にしてきた全てのものを放り投げて、この世界からすら逃げだしたなら。

 あまりにも甘美な想像に、ぼくはようやく自分の心が緩んでいくのを感じた。幼い頃から探し求めていた、これこそが『安らぎ』というものじゃないだろうか。

 美しい幻想に浸りながらいつの間にかぼんやりと手のひらを見つめていたぼくの耳に、規則正しい足音が近づいてくるのが聞こえてきた。そのままぼくのそばを通り過ぎるかと思ったその足音は、けれどぼくの足先から約二メートルほどの場所で立ち止まる。

 心地よい幻想の世界から現実に戻されたぼくは、やや不快に思いながら頭をのろのろと上げた。そしてそこに佇む意外な人物に、少し驚いて口を開ける。

 一九〇センチメートルを超える長身に、筋肉質の体。いつもはよく目立っている赤髪は、夜の闇に紛れてほとんど色の区別がつかない。夕方、カシムとの帰り道で見かけた時とは違う服を身につけた、赤毛同盟の寡黙な方。

 ――あなたに手紙を出した人物について、ヴィクトールと、クロエとわたしの三人の推測を照らし合わせて、わたしたちは一つの推論を出しました。

 先ほど車の中で流し見た、カシムからのメッセージが蘇る。

 ――この推測が外れてくれていたらと願います。けれどルーク、状況がはっきりするまでは気をつけてほしい。おそらく、あなたに手紙を出したのは――

「……イーサン?」

 青年が、嵐の前の雲のような不穏な表情で頷いた。そのあまりに昏い目に、ぼくは強い既視感を覚える。まるで鏡の前の中の自分に対峙しているような奇妙な感覚。

 思わず、自分でも笑ってしまうくらいの優しい声で、ぼくは彼に話しかけた。

「どうして、ぼくの家に? 何か困りごとかい」

 何が『困りごとかい』だ。他の人間にかまう余裕なんてないくせに。

 イーサンが口を開いた。深い海の底で、水ごしに対面しているかのような錯覚を覚えるほどに、ゆっくりと。

「ぼくの話に付き合ってくれませんか、ルーク。どうしても今夜、あなたと話がしたい」

 目の端に、マンションのエントランスが映った。内側から溢れる光はひどく優しげで、ぼくにひと時の安らぎを保証してくれているように思えた。

 その光が作り出した影のように、目の前には青年が暗闇に囚われたまま佇んでいる。

 見るからに面倒そうな彼のお願いなんて放っておいて、さっさと自分の家に逃げ帰ればいいのに。瞬間的によぎった絶望だって、さっさとベッドに収まりさえすれば、きっとなかったことにできるさ。

 そもそもぼくは、人の話を聞いてあげられるような大層な人間じゃない。そんなことはこの数週間の間に嫌というほど理解したはずだ。

 どれも紛れもないぼくの本心だった。それなのに、どうしてだろう。

 ぼくは自分が光と陰のどちらを選ぶのか、どこかでわかっていた。

「――いいよ」

 ばかなやつ。

 自分の中に、そんな声がこだまする。

 ばーちゃんのいう、人に手を差し伸べられる時が今だとは思えなかった。けれどいつだって、自分自身のことですら、ぼくの思い通りにならない。――いや、いつだってこの心だけが、ぼくの本当の望みを抉り出して、問答無用でぼくにそれを突きつけてくるのだ。おそらくそれが逃れられないぼくの人生、または運命。

 彼に向かって足を踏み出そうとした時、ぼくの背後からやってきた車のスポットライトが青年の顔を照らし出し、そのまま通り過ぎていった。光の中に浮かび上がった一対の目に、思わず目が引き寄せられる。

 ――ああ、そういえばこの子の瞳はヘーゼルだったな。

 ぼくと同じ、よくあるオリーブの目。

 そんなことにすら気づけずにいた。今は夜に紛れてしまっている彼の赤髪が、あまりに印象的だったから。

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