6-7 約束
青年に連れてこられたのはぼくの事務所から北に向かってしばらく歩いた場所にある、若者向けのダイニングバーだった。この時間にしては明るめに設定してある照明が、壁のオフホワイトに反射して店全体の雰囲気を柔らかなものにしていた。見るからにフェイクの観葉植物の緑は夜の照明の中にあって一層そらぞらしいけれど、そのチープさが不思議と心地いい。ぼくの好きなセンスだ。明るくて感じが良くて、そして人の心に踏み込みすぎないこの感じ。イーサンの選ぶ店としては完全に予想外だけれど、少なくとも今のぼくには救いだ。
ぼくは青年に不躾な視線を投げないように、意識して視線をメニューに固定した。たいして食欲もないのに疲れ切っている今は、並ぶメニューに何ひとつぴんとこない。ただその値段がかなりお手頃に設定されているということだけはよくわかった。店の内装とこの値段から推測するに、ターゲット層は主に学生なのだろう。実際、客のほとんどはついこの間ティーンエイジャーから卒業したばかりのように見えた。客層の極端な偏り方に一抹の不安を覚えながら、ぼくはダークブラウンをポニーテールにまとめた体格のいい従業員にギムレットをお願いする。程なく運ばれてきたジンベースのカクテルを口にし、ぼくは食べそびれたままの夕飯をこの店で摂取することを諦めた。
「この値段でディナーが取れる店なんて、ブリズベンには他にないでしょう」
いかにも若者が好みそうな炭水化物中心のプレートを前に、イーサンがどこか得意げに言った。吐き出された言葉には淀みなく、声には張りがあった。ボソボソと消え入りそうな声で毒を吐いていた人物と同一人物とはとても思えない。
気合を入れるために一拍を置いて、ぼくは改めて彼に目を向けた。服装や髪型も、大学で会った時とは印象がずいぶんと違っていた。茶色がかった赤髪に、少し緑の混じったヘーゼルの目、しっかりとした造形の鼻とあご。分厚いカーテンのように顔を覆っていた前髪はきれいにセットされ、どこか没個性的な整った顔があらわになっている。
「確かに、かなりお手頃な価格だね」
ぼくの感想に、青年の口角がほんの少しだけ下がる。眉間の間に見えるか見えないかの薄い線が影を落とし、その感想が的確かどうかを吟味するように目がすがめられた。
「……値段に対して、量と質のパフォーマンスが一番高いんですよ」
「コストパフォーマンスってやつ」
「ええ。何か食べなくていいんですか」
「ありがとう。今は満腹なんだ」
相手を真正面から観察することに慣れた二つのヘーゼルがぼくを見る。ぼくの身の回りに、こんな目をした人間はいない。けれど昔々、ぼくがブライアンと共に小学校に通っていた頃に、そういえばこんな目を向けられたことがあった気がする。
青年が何かを考え込むように目を伏せた。そのまま視線を手元のグラスへとスライドさせ、ややごつごつした手でそのグラスを手に取った。ぼくの視線もまたそのグラスへと自然と吸い寄せられる。背の低い台形のタンブラーの中にはグレープフルーツが浮かび、そのふちには白い結晶がまばらに塗りたくられ照明を鈍く反射していた。ガラスの表面にはうっすらと霧のような薄い水滴が浮いていて、そのくもりを取るようにイーサンの親指がその表面をひと撫でする。
三本の指でやすやすとタンブラーを持ち上げてソルティ・ドッグを舐めると、イーサンがやや大ぶりな仕草で首を振った。
「あなたはいったいなぜ、ぼくについてこようという気になったんです?」
「なぜも何も、君じゃないか。どうしても今夜話がしたいと言ったのは」
「頼まれたら断れないなんていう、人となりでもないでしょう」
ぼくはただ肩をすくめて、手元のギムレットを再び手に取った。清涼感のある爽やかなライムとまろやかさの増したジンの風味。レキサンドラの店のギムレットよりもずっと甘みがあって、辛口のアルコールを味わいたかった今のぼくには物足りない。この一杯を取ってみても、この青年にのこのことついてきたことを後悔するには十分だった。
なぜついてこようという気になったのか、か。確かに自分でも不可解だ。ぼくは今、カシムとヴィクトールの言う思考停止状態というやつに陥っているのだろうか。
ため息と共にグラスを置いて、改めて青年に目を向ける。――いや、思考停止とは違う気がした。自分でも説明できないけれど、ここ数日の中で初めて、本当に自分自身で何かを決断したという小さな手応えがあった。この小さい手応えをたぐった先にどのような結果がぶら下がっているのかはわからないけれど、ぼくはその結果を後悔などしないだろう。
答えを得るのを諦めて食事を再開していた青年に、ぼくは口を開く。
「ぼくにも、よく分からない」
残り少なくなった皿の上で忙しなくフォークを動かしながら、青年がばかにしたようにぼくの発言を鼻で笑った。そこに存在する敵意は同じはずなのに、余裕たっぷりの表情とジェスチャーはやはりぼくの知っている彼とは完全に別人のものだ。この目の前の青年は本当に、大学でカシムのインタビューに応じていたあのおどおどしたイーサンなのだろうか。
「ぼくのことより、君の話をしようよ。君がぼくとしたいのは、アランの話かい」
イーサンの左上腕に力がこもった。その手の延長線上に彼のソルティ・ドッグが、そしてその真向かいにぼくのギムレットが配置されていた。ぼくの視線に気がついた青年が腕の強張りを一瞬で解放し、ゆったりと微笑む。
「はい。お互いに、アランの違う一面を見ていたようですからね。あなたの知るあいつの姿を聞いておきたいと思ったんです」
「違う一面か……。そういえば、君からアランの専攻を聞いた時は驚いたんだった」
ぼくの言葉に青年が笑みを深めた。腕を組むような動きで両手が動き、少し太めの左人差し指と中指が、右腕の手首の内側を小さく引っ掻いたのが見えた。
「驚いたのはこちらです。ぼくのことを裏で笑っていたんですって? ぼくの前ではそんな様子、おくびにも出さなかったのに」
「アランが声をあげて笑ったのなんて、君の話題の時くらいだったよ」
答えながら、ぼくの視線はイーサンの手に釘付けになっていた。体格のいい従業員が、イーサンのプレートを下げにやってくる。それに気がついた青年が、テーブルの端にあった汚れた紙ナプキンをつまんで皿に乗せた。
――始めは、ただ高校の時の同級生と同じだな、と気がついただけだったんですよ。
レキサンドラの店から連れ出した、とんでもなくダサい格好をした青年が悲壮を通り越して絶望の表情でそう言った。青年はアランとだけ名乗った。彼との初対面の日のことだった。
――あいつは絶対に嫌なやつだ。ぼくにはわかるんだ。絶対に父と同じ種類の人間だ。
同じ種類ってどういうことかと、確かぼくはアランに尋ねたんだっけ。
アランが、自分の性的指向について知るきっかけとなった男。彼の話を聞きながら、ぼくはその人物を『男らしくて狂信的な神父のようだ』と思ったのだ。
「ルーク、アランが最後に会ったのはあなただって聞きました」
イーサンの言葉に、記憶の淵に沈みかけていたぼくは現実世界に引き戻された。少し考えて、ぼくは小さく首を横に振る。
「……いや。当日にアランと話をしたのは確かだけれど」
最後に彼と話をしたのは、母親であるマリアだ。――カシムが話したのだろうか、ぼくがアランと最後の日に話をしたことを、彼に?
顔を上げたぼくに、赤髪の青年が続ける。
「その時に、どんな話をしたのか聞かせてくれませんか。彼の友人として、ぼくも彼の死に向き合いたいんです」
「君の期待に応えられるような話ではないと思う。アランの話は、彼の父親についての愚痴がほとんどだったから」
「父親……?」怪訝そうに呟き、イーサンは何かに思い当たったような表情で頷いた。「ああ、まあ反抗期は親の愚痴しか出てこなくなりますよね」
「反抗期うんぬんは、ぼくの憶測だよ……」
力の込もらないぼくの言葉に青年が笑った。彼の笑顔を目にしたのは、彼が彼の友人達と初めてぼくの事務所を訪れた時以来だった。受ける印象は真逆だ。ぼくの中の推測がひとつひとつ、徐々に確信へと変わっていく。その確信に促されるままに、ぼくは今まで刑事さんにしか伝えていなかったアランの話を口にする。
「教科書が燃やされたって話は、アランから聞いた?」
「いや……は? 燃やされた? ――まさか父親に?」
「うん」
イーサンは呆気に取られた様子でぼくを凝視し、やがて苦々しく吐き捨てた。
「理解に苦しむね。あんなに高いものを、使い終わってもいないのに燃やすとは。たとえ売ったとしても割に合わないのに」
教科書に対して、どうやら二人は真逆の価値観を持っているようだ。慢性化しつつある胸の痛みを堪えながら、ぼくはあの時のアランの姿を思い出そうとする。
――ぼくは、父のような方法でしか愛する人と繋がれない人生なんて嫌だ。
相変わらずアランの顔はぼやけたままなのに、そのきっぱりとした声だけが鮮やかにぼくの耳に蘇った。
「だからモラルのない人間は嫌いだ」
「君って情報が専門だっけ」
ぼくの突然の話題転換に、イーサンが微かに不機嫌になったのが分かった。
「だから何だというんです」
「VPNがどうとか、サーバーがなんとかとか、そういうの詳しかったりする?」
「そのくらい今時一般人でも知っているものですが……まあ人よりは詳しいですね」
「そっか、ありがとね」
そう言ってぼくはきつく目を瞑った。目の疲れを装うために人差し指と中指の関節を目頭に当てる。深くため息をついて細く目を開けると、ぼくが質問の意味を説明するつもりのないことに気づいたらしい青年の手が、痙攣するように小さく強く動いたのが見えた。左手だ。
――始めは、ただ高校の時の同級生と利き手が同じだな、と気がついただけだったんですよ。
ぼくが見守る前で、青年がその手でソルティ・ドッグのタンブラーに触れた。レモンイエローの液体はまだ三センチほど底に残っていたけれど、あと二口も舐めれば空になるだろう。
青年がぼくを見た。アングロサクソン系のどこか朴訥とした印象の顔、そしてどこまでも落ち着き払った佇まいと、身につけたものや持ち物に垣間見える余裕のなさが不釣り合いで目を引いた。アランの母親のマリアを思い出した。そして、見たこともないはずのポール・マクスウェル氏のイメージが、なぜか目の前に座る青年の姿に重なる。
ああアラン、アラン。
ほとんど無意識のうちに、ぼくは心の内につぶやく。
これは、やっぱりそういうことなのか?
暴走する直感が導き出した答えを頭が処理しきれずに、身体中の痛みは酷さを増すばかりだった。自分の意思で彼についてきておきながら、ここにきて考えることを放棄したくなっている自分がいた。九割を占める義務感で下がりかけていた視線を再び持ち上げる。
感情の麻痺した心で見るイーサンは、それでもどこか得体の知れないものとしてぼくの目に映った。
――約束だよ
アランの優しい声がする。
教えてくれ、アラン。ぼくが今こうしてイーサンの目の前に座っているのは、君の采配ってやつなのか。
君のためにできることが、ぼくにはまだ残されているんだろうか。ぼくはあの日、君とどんな約束をしたんだろう。
ぼくにその約束を果たさせてくれよ。ぼくにはもう、それしか残っていないから。
期待なんて少しもしていなかった。人生が思い通りにならないなんてことは、教えられるまでもなくぼくはよく知っている。
それなのに、まるでぼくの願いなんていつだって叶えてきたとでも言うような何気なさで、彼の声は突然ぼくの中で息を吹き返した。あの日、あの最後の日に交わした彼との約束が、笑ってしまうほどにあっさりと忘却の彼方から甦る。
――ぼくを信じて、見守っていてくれる?
思わず目を見開いた。心臓がゆっくりと、ゆっくりと少しずつペースを上げる。捕まえた言葉が本当に正しいのか精査するために、そしてまたうっかり見失ってしまわないように――感覚の全てを自分の内側に集中させたぼくの脳裏に、彼の言葉が繰り返される。
――あなたの言う優しい方法で、ぼくは人と繋がっていけるだろうか。
――本当に、そう思う? あなたは、ぼくを信頼して見守っていてくれる?
――ありがとう、ルーク。約束だよ
「……思い出した」
あの日、アランと交わした約束を。
いや、こうして思い出してみれば、とても約束と呼べるようなものではなかった。思い出してみれば神聖なものだと思いこんでいた彼との約束は、他愛のない、青年のほんのささやかな甘えのようなものに過ぎなかった。
あまりにささやかで、――そしてなんて愛しい。
涙なんて出るはずがないのに、ぼくはどうしてだか自分が泣きそうだと思った。凍らせ続けた悲しさと、耐え難いほどの後悔と、そしてそれを遥かに上回る愛おしさが溢れ出る。
乾いたままのまぶたを閉じ、ぼくは涙を流す代わりに微笑みを浮かべた。
弾力を失っていた感情の中で、まさか一番に思い出すのが愛おしさだとは。
彩りを取り戻した感情に触発されたさまざまな記憶がぼくの中で、泡沫のように浮かんでは消えていった。そのほとんどが、ぼくをまっすぐに見つめる幼なじみの顔だった。そのいくつかは、アランと自分が交わすささやかな会話のかけらだった。
「……ありがとう、イーサン。君のおかげで思い出せた」
青年の余裕たっぷりな表情に、胡乱げな色が混じる。そんな表情をすると、大学で話をした時の彼の印象にずいぶんと近づいた。どちらの姿も、彼自身の一部ではあるのだろう。そんなことを思いながらぼくは続けた。
「今なら答えられるよ。ぼくが君についてきた目的を」
ぼくの持って回った言い回しが気に入らないのだろう。心底嫌そうに、イーサンが口を開く。
「一応聞いてあげますけど、その目的っていうのは一体何なんです?」
「アランとの約束を果たすためなんだ」
斜に構えていたイーサンが、ぼくの方へと向き直った。ようやく、ぼくと彼のヘーゼルアイズが、しっかりと噛み合った。その視線を逃さないように気をつけながら、ぼくはゆっくりと繰り返す。
「ぼくは今日、ここに、アランとの約束を果たすために来たんだ」
ぼくの言葉が終わらないうちから、青年の目に強い警戒が点滅し始めた。じりじりとその全身から攻撃的なエネルギーが溢れ、ついに激しい波となって勢いよく吹き出す。
まるで凶悪なハリネズミのような姿に、ぼくはふっと口角を上げた。
見届けるよ、アラン。君の下した決断の、その行く末を。――それが君の望みなら。
「イーサン。ぼくと少し、話をしようか」
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