4-3 (カリーナのマリア)

『やあ、カシム。元気? 刑事さんがアランのことで、君に話を聞きたいんだって。もしよければ付き合ってあげてくれないかな。刑事さんの連絡先は以下の通り……』

 青年にテキストを送りつけて、ぼくは車を発進させた。その次の瞬間には着信を受けたデバイスが、うるさく鳴りわめき始める。

「思ったより早かったな……」

 ぼそりとつぶやいて、ぼくはスピードを上げた。紫外線を九十九パーセントカットしてくれるサングラス越しでも、ブリズベンの空は眩しい。

 しばらくは気分良く車を走らせていたけれど、想像よりもしつこい着信音についに根を上げて、ぼくはついに車を脇に止めた。

『今、運転中』

 再度テキストを送りつけると、すぐに今度はメッセージを受信する音が立て続けに鳴り響く。

『刑事って一体どういうことですか、ルーク』

『一方的に用件だけ送るのは感心しません』

『電話とって、ばか!』

 次々と画面に浮かび上がる青年の言葉に、ぼくは思わず吹き出した。あまりに素直な反応に、少しだけ放っておこうかなといういたずら心がくすぐられたが、すぐに思い直してロック画面に表示されたメッセージをタップする。いたいけな若者をいたぶって愉悦に浸るような人にはなりたくない。少なくとも、まだ。……ほんのちょっとだけ、気持ちは分かってしまったけれど。

 とはいえ電話をするほどの余裕はなさそうので、声を文字に変換させてメッセージを飛ばした。

『今から仕事だから、また後で電話する。ごめんね』

『刑事さんは、たぶんアランの交友関係を知りたいんじゃないかな』

『連絡先は、サミュエル・ロビンソン警部補だ。ロビンソン警部補って呼んでやってよ』

『嫌なやつだけど、そうひどく悪いやつというわけでもない。信頼して大丈夫だと思う』

 今度は少しだけ間を置いて、『わかりました』『ありがとうございます』とメッセージが送られてくる。それを確認して、今度こそぼくは目的地を目指して走り出した。

 カリーナはブリズベン中心街から南へ、車で約二十分の郊外にある。主に住宅地で構成されていて、時間帯によってやや混雑することを除けば住みやすそうな地域だ。人口の増加が始まったのが五十年代・六十年代にかけてだからか、全体的にまだ新しい印象だった。

 アプリの案内に従って車を進め、住宅地の一角にたどり着く。指定された住所に駐車をして、ぼくは改めてその家の外観に目を走らせた。続いて周辺の家にも、ぐるりと目を向ける。おそらくひとつの業者が、このあたりの土地一体をまとめて買い上げて、住宅地として売りに出したのだろう。となると建設を請け負ったのも、せいぜい二つか三つの会社だろう。どの家も多少の個性は出しつつも、だいたい似たり寄ったりの構造をしていた。

 そんな地域の中にあって、それでもマリアの家はよく目をひいた。こんな家は初めてだった。こんな――値段が高いと一目でわかること、ただそれだけを基準に飾り立てられた家は。

 明らかに使われていないバルコネットの装飾過多な手すりを見上げ、思わず暗澹としたため息を落とす。マリアは、家の外装については彼女の夫の趣味なのだと言っていた。朗報だ。こんな趣味をした人物との仕事は間違いなく、ひどく容易でつまらないものになるだろうし。何より、ちょっとセンスがひどすぎる。

 玄関へと歩み寄りながら、今度はさりげなく横目で前庭を観察する。外から見た部分については、まめにきちんと整えられている印象だった。けれど、外から死角になった場所には壊れた鉢植えと枯れた植物が積み上げられている。大きなリビングの窓がすぐ正面にあるということは、これが家の中から見た前庭の光景なんだろう。

 気を取り直してデバイスを手に取り、この家の住人に電話を掛ける。一回目のコールには反応なし。二回目のコールを聞きながら、もう少し時間をおいて様子をみるかと考え始めたその時、電話と扉の向こうから同時にマリアの声が聞こえてきた。

『こんにちは、ルーク』

「やあ、マリ――」

 玄関のドアが控えめな速度で開くのに合わせて満面の笑顔で片手をあげたぼくだったが、スクリーンドア越しに彼女の顔を見た瞬間あぜんと口を開いてしまった。

 マリアは、前回初めて会った時と別人のようだった。たった一週間と少しの間に、一体何があったというのだろう。ぼくの事務所に来た時だって顔色は悪かったけれど、それでもここまで血の気を失ってはいなかったはずだ。弱々しい外見に反して強い意思が垣間見えていた黒い目からはおおよそ「意思」と呼べるような光は一切失われていて、ぼくの背中がひとりでに震えた。

「なんてこった、マリア……こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、その、気を悪くしたらごめんね? あのさ、もしあんまり体調が芳しくないようなら、打ち合わせは別の日に変更するよ」

 スクリーンドアを開けながら、マリアがぼんやりとぼくを見上げた。その不思議そうな、途方にくれた顔を見下ろして、ぼくは返答を諦めて笑顔を浮かべる。

「……入っていいの? ご招待ありがとう」

 二人そろって途方に暮れているわけにもいかないだろう。ぼくの言葉に、マリアはなんの感情も読み取れない笑顔で頷き、ぼくを家の中に招き入れた。

 玄関を入ると、横三メートル、奥行きが二メートルほどのエントランスがあった。大きなベージュのタイルでできたその空間の右手には部屋につながるドアがあり、奥にはダイニングにつながる廊下が伸びていた。外観に比べたらずいぶんとシンプルな作りの廊下を、マリアの先導に従って進んでいく。ぼくの来訪前に掃除をしてくれたようだ。それは間違いない。けれど、廊下の隅にはうっすらと埃が積もっていて、ぼくの心はまたしても少し陰った。この埃がもっと年季の入ったものだったなら、これほどマリアのことが心配になりはしないのだけれど。

 そのまま廊下を通り抜け、マリアはぼくをダイニングテーブルへと促した。赤褐色のアンティークも華やかなマリアの世界。写真で見るよりもややくすんではいるけれど、同じ色の木でできた家具で統一してある様は見事だった。ここに暮らす住人の数に見合わない大きなダイニングテーブルも、下手な床板なら中に物を入れなくてもへこんでしまいそうな重厚な食器棚も、有名画のレプリカが飾られた額縁まで。良く見ると床板も同じ色のワックスで塗られており、この空間をデザインした人の強い意志が感じられた。

 窓から吹き込んできた草花の香りが、木材と少しのスパイスの香りを巻き上げて、家の香りを良くある一般家庭のものに近づけた。オーストラリアの日差しでも床や家具はあまり色褪せてはいないようだから、もしかしたら普段はあまりカーテンを開けないか、窓に紫外線を遮断するシートでも貼っているのかもしれない。

 ぼくが観察している間にも、マリアが何かに操られてでもいるような機械的な動きでぼくにお茶を淹れてくれている。ウェッジウッドだ。ぼくの好きなジャスパー。紅茶はおそらく、アーマッドティのバニラフレーバーじゃないかな。同じフレーバーのものを、ぼくも自分用にいくつか置いていた。

「最近の調子はどう?」

「調子、調子……そうねえ」

 ぼくの良くある質問に、マリアが突然ふわりと微笑んだ。そして油を挿されたロボットのように滑らかに動き始める。

「ありがとう。万全とは言えないけれど、特に変わりのない日々を送っているわ」

「そっか」無難な相槌を打つと、ぼくは急いでカップに口をつけた。そのままちらりと視線をリビングに向ける。「――ここが、マリアの家なんだね」

「ちょっと背伸びした格調高さのね」

「あれは、その、本当にごめん。センスはいいなって思うんだ、本当に」

 慌てるぼくに、マリアがさらに口角を上げて首を振った。

「いいの。わたしもそう思う」

「ぼくがコーディネートするのはマリアの寝室だよね。いちおう改めて確認させてもらうけど、その部屋に出入りするのは基本的にマリアだけ?」

 マリアがやや神経質そうに表情を硬らせて頷いた。ぼくが、夫婦のベッドが別れていることについて、何か口を挟むと思ったのかもしれない。

 その不安を払拭するために、ぼくはにっこりと大きく笑う。

「了解。先に部屋を見学させてもらおうかと思っていたけれど、先にデザイン案をお見せしようかな。三つ作ったんだ。どれも元のイメージは同じなんだけど、色やデザインを変えてる」

 説明しながら、プリントアウトしていたデザインをマリアの前に並べた。

「マリアの感覚を一番大切にしたいんだ。この三つを見て、どんな気持ちが浮かぶか教えてくれるかな」

「……あなた、本当にプロなのね。どの案も夢のようだわ」

「ありがとう。この三つの中で、なんとなく気になるのはどれかな。絵全体でなくても、例えば好きな色や家具のひとつでもあれば教えてほしい」

「選べるかしら……どれもとても素敵すぎて」

「ぼくがあなたに感じたのはシャープな知性だったから、どの案もややモダン寄りにまとめてる。でも、あなたの今の家具はどれも伝統的な色が強いし、そこに違和感があれば調整できるよ」

「そうね、今までの部屋とは全てが変わるわね。なんだか不思議な気分だわ」

「――あのね、マリア」

 意味のない相槌を続けるマリアに、ぼくは言葉を選びながらできるだけ優しく声をかける。

「ぼくは今日、あなたを喜ばせるためにここにきたんだ。だから、もしまだ心の準備ができていなければ、デザイン案を見るのは後でも大丈夫」

 そもそも今はまだ、計画を練っていく段階だ。今日の一番の目的はぼく自身の目で部屋を確認することだったし、日程にも余裕がある。無理にこの中から希望を選んでもらうよりも、もう少し彼女の好きなことや大切にしていること、本人も気づいていないような生活習慣を聞き出す方が、今の段階では適切な気がした。

 マリアの緊張をほぐそうと、ぼくはデザイン案を脇に退けて両腕を小さく広げてみせた。

「あなたをわくわくさせるために、ぼくに何かできることはないかな。例えば今まで好きだったものを一緒に振り返ったり、ちょっと試しに今の家具を動かしてみたり」

「そんな、申し訳ないこと……」

 困ったように微笑みを浮かべたマリアが、次の瞬間ふっとその表情を消した。まるで彼女の顔から感情のかけらの全てが一瞬にして、ブラックホールのような黒い目に吸い込まれたかのようだった。

 ぼくの腕がひとりでにうっすらと泡立った。笑顔のまま固まるぼくの目の前で、マリアの目がきょろきょろと落ち着きなく動き、その骨張った白い手がかたかたと震え出す。

「マリア……?」

「……違う、そんなことを頼むために呼んだのではないわ」

 その狼狽し切った声に、ぼくは気づいたらマリアの手に自分の手を重ねていた。いったいぼくは何をやっているんだろう。自分の行動に仰天するぼくは、さらに自分を仰天させる言葉を口にしていた。

「その、ぼくにできることがあれば、させてもらうけど……」

 あの純粋で傷ついた大学生達と付き合うことで、ぼくは少し節操というものを失ってしまったのかもしれなかった。考えなしにそんなことを口にして、自分の手に負えない頼みだったらどうするつもりなんだ。

 固唾を飲んでマリアの次の言葉を待つぼくに、マリアは――なんというか、ひどく苦しみながらその口を開いた。

「――わたしの、息子の部屋を見てもらえないかしら」

 口にした瞬間に、彼女はまたしてもぎゅっと縮こまってしまう。逆にぼくの方は、なんだそんなことかと元気を取り戻した。

「ぼくは問題ないけれど、息子さんは他人が勝手に部屋を見てしまって問題ないかな?」

「……それは、大丈夫。あの子はもう家を出てしまっていて、わたしはあの部屋を整理するように言われているの」

 息子さん本人から、整理をお願いされたのだろうか。だったら大丈夫だろうか。世の息子が世界で一番部屋を見てほしくない相手は、すべからく母親だろうから。

「わかった、ちょっと家具の配置を見るだけで大丈夫だよね」

 そう言って席を立つぼくに続いて、マリアもうなだれながら立ち上がる。

 少しも罪悪感が目減りしているように見えないマリアの様子に、どうしてだかぼくの方が申し訳なくなった。本当は、あまり頼まれた仕事以外のサービスを、気軽に提供するべきではないのかもしれない。それでも、こんなに参ってしまっている人の頼みを無視するのは、ぼくにはちょっとばかり難易度が高い。

 廊下へと引き返し、玄関を入ってすぐ右手にある扉の前でマリアが立ち止まった。ドアに手をかけて、ぼくを見上げる。その黒目には、隠しようがない葛藤が滲んでいた。

「……入って。ほとんど何もない部屋だけれど、もし、何か思いつくことがあったら教えてほしい」

「オーケイ」

 極力お気楽に聞こえるように返事をして、ぼくは彼女に言われるままにその部屋へ足を踏み入れた。一体どんな部屋かと身構えていたけれど、その百五十平方フィートほどの空間は拍子抜けするほど閑散としていた。タイルの床にはラグがおざなりに敷かれ、白い天井には白熱電球がぽつりと設置してあった。置かれた家具は机とベッドと本棚だけのようだ。机もベッドも、サイズから見ておそらく五、六歳頃から使い続けているのだろう。質はとてもいいものだし、年齢に合わせて高さの調節はできるようではあったけれど、それでも使用者の実際の年齢にはそぐわないように思えた。本棚は――言い方は悪いけど安物の粗悪品だ。たぶん二十五ドルくらいのやつ。ぼくだったら同じ値段でも、絶対に違う棚を選ぶ。

 あまりインテリアに興味がなくて、ミニマリストで、そして必要なものは全てこの部屋からすでに持ち出してしまった男の子といったところだろうか。

 この部屋を別の用途に使うのか、それとも部屋の持ち主のために取っておくのかマリアに尋ねようとしたぼくは、奇妙なことに自分の体が動かなくなっていることに気がついた。開こうとした口が震えて言葉が出てこなかった。足元から嫌な予感と、そして恐怖がゆっくりゆっくりと這い上がってくる。――人は皮膚でも物を見ているのだ、といつだったか専門学校の教師が言っていた。目をつむっていても、目隠しをしていても、人の心は部屋の色に影響を受けるのだと。

 あの時の先生の言葉が、今ちょっと理解できた気がした。ぼくの意識はただ驚いて目を白黒させているだけだというのに、皮膚の方はすでに何かに気がついて、ざわざわと大騒ぎしている。――脳裏に、ほうきを握りしめた子供の影がよぎり、ぼくは慌ててそれを頭から追い出した。いつの間にか早鐘を打ち始めた心臓に向かって深く息を送り込むと、改めて注意深く部屋に目を向ける。

 入り口から見て正面の壁には、控えめな大きさの窓が設置されていた。窓のすぐ側は灰色のブロック塀で、カーテンはない。日の光や人目を遮るためという用途であれば、確かにカーテンは不要だろうけれど。

 薄い薄い合板でできた本棚へと目を戻す。厚みの分を縦横に引き伸ばしたかのように、容量だけはたっぷりあった。質ではなく容量で選んだ本棚なのかもしれない。それではなぜ棚の中身はこんなにがらんとしているんだろう。古ぼけたいくつかの教科書とノート、そして難しそうな専門書が一冊。

 徐々に悪寒がひどくなってくる。この部屋からは奇妙なほど、部屋の持ち主の個性が何も見えてこない。それなのにこの、喜びと呼べる全てを諦めてしまった空っぽの空間に、ぼくは強烈な懐かしさを覚え始めていた。

 机に目を向ける。子供の安全性を第一に考えて作られた、丸みを帯びたフォルム。天板部分の端の部分だってきれいに角が削られている。その緩やかな線を描く部分に滲んだ、茶色く濁ったしみ。全身がぞっと慄き、その戦慄に数秒遅れて、ぼくはそれが血の跡だと気がついた。

「……この部屋で、幸せそうな笑顔を浮かべるとしたら、あなたはどういう時なのだと思う?」

 ぼくの背後で、マリアが静かな声で問いかける。

「あの子は幸せだったのか、それとも……ルーク、あなたになら、あの子の笑顔の意味が分かるのではないかと思ったの」

 その時、初対面の時のまだ畏まったサミュエル・ロビンソン警部補の声が耳の奥で再生された。

 ――忙しいところ申し訳ありません、ポッターさん。ご友人のことで、あなたにお聞ききしたいことがありましてな。

 そう、あの時ぼくは初めて彼のフルネームを聞いたのだ。

 ――アラン・マクスウェル。彼のことはご存知ですね?

 刑事の声に、白い紙のイメージが重なる。契約書ほどの拘束力はないけれど、サービスへの承諾サインと連絡先を記載してもらった電子ファイル。名前の記載欄には流麗な筆記体で『マリア・マクスウェル』と確かに書いてあった。

 頭の隅から追い払ったはずのほうきを握りしめた少年が、再び僕の目の前に現れる。その少年と目が合いそうになった瞬間、ぼくは床に敷いてあったラグに思い切り叩きつけられていた。

 ブラックアウトする直前の意識の片隅で、思った。

 ……ところでこのラグ、最後に洗われたのはいつだろう。

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