3-7(アランの家)

 まだまだ日差しは明るいながら、漂う空気にはすでに1日の終わりの気配が混じり始めていた。頭上で木の葉がざわざわとざわめき、横に大きく張り出した力強い枝の腕には、ぼくの片腕ほどもある大きな鳥が、興味深そうにぼく達の様子をうかがっている。

 三人の大学生との話を終え、ぼくとカシムは大学の出口に向かって歩いているところだった。隣の青年が何か考えをまとめようとしているのか、それともぼくに何かを言うタイミングを図っているのか——どちらかと言うと口うるさいはずの青年は沈黙を守ったまま、ぼくの隣で黙々と足をすすめている。

 目の前を、アイボリー寄りの白い鳥が横切る。その勢いに、ぼくはようやく決心を固めて口を開いた。

「なあ、カシム。このあと少し、ぼくに付き合ってくれない?」

 ぼくの誘いに、青年は驚いたようだった。二、三秒ほどまじまじとぼくを見つめ、「わたしは構いませんけれど……」と戸惑いながら頷く。

 彼の返事に頷き返し、ぼくは道からはやや死角になる芝生に青年を誘った。改めてカフェに入るより、こちらの方が肩の力を抜いて話せるだろう。ぼくが芝生の上に腰を下ろすと、青年もまた、すぐに関節の柔らかさを感じさせるようなしなやかな動きでぼくの隣に座り込んだ。何事だろうか、とぼくの様子を伺う青年を、ぼくは淡々と見つめ返した。

「ちょっと、話をしようか」

「話って、何の話をです?」

「アランの」

 そう答えて、ぼくはそのまま芝生の上に仰向けになる。ちくちくと肌を押し返す柔らかな芝生の感触と、揺れる木の葉をすり抜けて瞬く太陽の光がぼくを心地よく刺激した。こうして横になっただけで、見える世界は一変する。人の姿と大学のキャンパスが消え、どこまでも広がる青色と木の葉が視界を取って代わった。

 じっと空を見上げるぼくを控えめな笑顔で見下ろしながら、カシムが口を開いた。

「今日聞いた話について、意見交換でもしますか?」

「いや。ぼくが知っているアランのことを話すよ。ぼくが、君の四人目のインタビュイーになってやる」

 その提案に、カシムはいぶかしげに眉を寄せた。ぼくを見下ろしていたブルーの視線を、戸惑った様子で地面に落とす。彼の動きに合わせて焦茶色の柔らかな巻毛が日の光に照らし出され、毛先が緑がかった黄色ライムイエローにちかちかと輝いた。

「……どういう心境の変化ですか。アランの話を、あなたはあまりしたがらなかったのに」

「あれ? ぼくの事務所に押しかけてきて協力を迫ったやつなら、すぐに飛びつくと思ったんだけどな?」

 ぼくの言葉に少しばつの悪そうな顔で微笑みを落とすと、青年もまたぼくの隣に寝転んだ。大きくて肉厚の手のひらを地面に沿わせ、柔らかく関節を使ってそっと自身の体を横たえる。芝生どころか微生物にまで気を遣っているようなその抑制のきいた動き。

「前から思ってたんだけどさ。君は——この表現が不快だったら申し訳ないんだけど——けっこう良い家で育った?」

 思った通り、ぼくの言葉は少しばかりカシムの気を悪くしたようだった。青年もまたぼくの隣で空を見上げながら、複雑そうな唸り声をあげる。

「どうしてそう思ったんです?」

「まあ、一番は話し方と動作かな」

 特に動作だ。むだがなくて、優雅な——秋の教室、夕日に照らされた十二歳のブライアンの姿がまたしても脳裏をよぎる。慣れ親しんだ胸の痛みに、ぼくはそっと目をつむった。

「……あとは、服装だね。生地の質とバランスがいい。身の丈に合わない高価なものでも、デザインだけの安っぽい生地でもない。値段と質の釣り合いが良すぎるから、ちょっと嫌な言い方すると、大学生にしてはそつがないかな」

 ぼくの解説に、青年が黙り込んだ。ぼくの『アドバイス』を取り入れて、スーパーに売っているようなチープなTシャツの一つでも買うつもりなのかもしれない。絶対に似合わないから、やめたほうがいいと思う。

「誤解のないように言っておきますけれど」ぼくの表情に何を見たのか、青年が少し体を持ち上げてぼくの目を覗き込んだ。「わたしの家は、特別に裕福というわけではありません。不自由なく育ちましたから、恵まれていたことは否定しませんが、収入面で言えばごく普通の一般家庭ですよ」

 そう言って、カシムはぼくから視線を外して少しの間黙り込んだ。気が進まない様子で付け加える。

「……ただ、両親がともに教育者だからか、時々家柄について聞かれます」

「教育者って、学校の先生?」

「母はそうです。父は——ウラマーって分かるかな」

 Uを強調したような独特の発音に、少し反応が遅れた。一拍置いて、その言葉の英語の発音とアルファベットが結びつく。

「あー……たしかイスラム教の知識人?」

 ぼくの言葉に、カシムが彼にしてはやや子供っぽいしぐさで頷く。

「わたしの祖先は代々ウラマーなんですが、曽祖父の代でオーストラリアに流れ着きました。どうも古今東西の思想や哲学を手当たり次第に学び過ぎて、元の場所にいられなかったらしくて」

「わお」

 ぼくの素直な賞賛に、カシムが一瞬だけ照れたような柔らかな笑顔を見せた。

「父も曽祖父と同じようにイスラム以外の思想にも柔軟ですから、オーストラリアに住むムスリムとこの国の文化の、橋渡しのような役割を担っているんです。だから厳格な意味では、父はウラマーとは呼べないのでしょう」

「なるほどなあ」

 ため息まじりに相槌を打った。憧れと、遠い昔に乗り越えたはずの劣等感未満の感情が、懐かしくぼくを揺さぶる。この青年もまた、家庭で必要な教育と教養を身につけさせてもらえた子供なのだ。

 ——彼はさ、完璧なんだ。

 カシムのことを語る、アランの声が再びよみがえった。

 ——全身に光をまとっているような人間だった。キラキラしていて……

 アランが覚えた眩しさを理解できた気がして、ぼくは目を細める。

「……ぼくやアランのようなタイプは、けっこう胸を打たれるよ。君みたいな人には」

「それ、流行ってるんですか? イーサンもあなたも、アランと同じタイプには見えませんよ」

「べつにぼくとアランが似ているとは言わないけど——ただ、ぼく達はほんの少しだけれど、家庭環境が似てるところあってさ」

 その何気ないぼくの一言に、カシムがばねのように勢いよく上半身を起こしてぼくを振り返った。狼狽に見開かれた目、青ざめた顔。

「そうか、君やっぱり……」

 カシムの顔に、一瞬だけ怯えたような表情が走る。聞きたくない——そんな思いを力づくでねじ伏せた強い視線を、ぼくは見つめ返した。

「君は、本当は気づいていたんだな。アランに暴力を振るったのが誰なのか」

「確信はなくて」青年の声が冷たくひび割れる。「……あなたは、アランから何か聞いていたんですね。彼は、アランは——」

 続く言葉を、なかなか口にできないようだった。散々ためらった末に、青年がなんとか続ける。

「——彼の家族から、虐待を受けていたんでしょうか」

 ぼくは目を伏せて、アランから聞いた彼の父親の話を反芻した。友人たちと笑い合っていたからと言う理由で、彼を殴り飛ばしたと言う父親。本棚の本を焼いたり、部屋を荒らしたり、彼の人格を踏み躙るような言葉を日々投げ続けたりしたという。

 暗澹とした気持ちを隠しきれないまま、ぼくは重い口を開く。

「……受けてたみたい。彼が暴力について語ったのは一回だけだったけれど、ぼくがアランから聞いた話だけでも、彼が家で受けている仕打ちはひどいものだった」

「そうですか……」

 ぽつりと呟いて、青年が頭を下げる。

「傷跡は、明らかに古いものが多かった。でも彼があまりにも普通の高校生だったから、自分の憶測が正しいとはどうしても思えなかったんです。葬式で挨拶をする彼の両親も、まともでちゃんとした大人に見えたのに」

「——まさか、アランの両親の姿を確認するために葬式に出席した?」

「声は、かけられませんでした」

 うなだれる青年に、ぼくはなんとも言えない気持ちになった。ばかなことを——という言葉をなんとか飲み込み、ただため息をつく。初対面の時から思っていたけれど、アランが語っていた彼の姿と、目の前の青年から受ける印象に差がありすぎる気がした。アランは、カシムのことを朗らかで穏やかな青年だと言っていたけれど、ぼくの目に映る彼はいつも余裕がなくて、暴走しがちで、今にも『朗らか』のメッキが剥がれそうな危うさがあった。

 この危うさは、やはり同級生の死がきっかけなのだろうか。

 それを確認するために、ぼくはカシムと初めて会った日の話を蒸し返す。

「なあ、カシム。しつこく聞いて申し訳ないんだけどさ。やっぱり君、アランの死に筋違いな罪悪感を抱いてない?」

 それまでもややこわばりがちだった青年の顔が、完全に凍てつくような無表情に固まった。明るいはずのブルーアイズに影が落ち、冷ややかとしか表現のしようのない、感情の削ぎ落とされた昏い光をまとう。

「……本当に、筋違いなんでしょうか」

「カシム」

「高校時代に、アランが虐待を受けている可能性に気づいている人はいませんでした。ヴィクトールもクロエもイーサンも、大学での彼の友人たちですら何も知らなかった。わたしだけだ。彼の状況に気づく、ヒントを与えられたのは」

 君のせいじゃないという陳腐な言葉を、さすがのぼくでもこの状況で言える気がしない。ただ黙って、彼の凍りついた表情を見上げる。

「もしわたしが、あの時与えられた役割をきちんと果たせていたのなら、彼は今も生きていたのではないですか? ルーク、あなたは彼が——」

 そのまま、彼の言葉は消えてしまった。無表情なはずなのに、その顔からは今にも何かが決壊してあふれ出しそうに見えた。

 アランは、なぜぼくに自分が受けていた暴力について語らなかったんだろう。ぼくにはその答えがわかる気がした。暴力があまりに日常的だと、それはわざわざ人に語るような特別なことではなくなってしまうんだ。少なくとも、ぼくはそうだった。

 じゃあ、どうして父親の抑圧には耐えられなくなったのだろう。簡単なことだ。本人だってそう言っていた。——この目の前の青年に恋をしたからだ。『あの光に気づかなければよかったのかもしれない』とアランは言っていたけれど、それでも彼は出会ってしまった。だからきっと、苦しくても自分自身を取り戻そうともがき始めた。

 消えてしまったカシムの質問を掬い上げ、ぼくは口を開く。

「ぼくは、アランは自殺じゃないと思う」

 それは、彼の自殺の可能性を仄めかされた時から心の奥底にあった、ぼくの考えだった。

「当てにしてもらっちゃ困るっていうのは、今でも本音だけどさ。アランは、自分の傷を気にかけてくれた同級生への感謝がきっかけで、自分の感情を取り戻し始めていたよ。人生の舵を取り戻そうともがき始めてた。君は彼の人生を変えたんだ。もし、人に与えられた役割というものがあるのなら、君は誰よりも完璧に、アランの人生の中での役割を果たしたと思う」

 口にしながら、不思議な感覚がぼくの中に湧いてくるのを感じた。もし、アランがカシムと出会うことがなかったら、ぼくは果たしてアランと出会えていただろうか。

「ぼくはアランの友人の一人として、君がアランに出会ってくれてことを神様に感謝したいな」

 その瞬間、カシムが勢いよくぼくに覆い被さってきた。自分よりも重そうな青年を、ぼくは慌てて抱きとめる。受け止めてもらえるのだと信じて疑わない、この真っ直ぐさ。……やはり少し、うらやましいかも知れない。

 目に映る空は変わらず雲ひとつない青色だった。小さなざわめきに気がついて首の角度を変えると、校内の道を通り過ぎていく学生の何人かが、ちらりとぼくたち二人に視線を向けている。さすがに人目に付く芝生の上で抱き合っている姿は目立つのだろう。彼らにひらひらと笑顔で手を振って、ぼくはその手をカシムの背中に回した。想像していたよりも細くて、想像通りにしなやかな筋肉だ。

「……自分が、彼にとって特別な人間だったなんて言うつもりはありません。でも、苦しい……悲しくてどうしようもない。どうしてわたしは、あれほど全身を傷だらけにした優しい同級生を、見て見ぬ振りになんてできたんだ……!」

 そのうわずった声に、ぼくはおずおずと背中に置いた手を上下させた。ぼくにしがみつく青年の手に力が入る。

「もう大丈夫だと思っていた。大丈夫だと自分に言い聞かせていた。もう、彼の傷のこともあまり思い出さなくなっていたんです——アラン、まさか、君が死んでしまうなんて」

 ぼくはそれに答えず、黙って彼の背を撫で続けていた。

 たとえ自殺だったとしても、アランの死がカシムのせいであるはずがなかった。カシム自身だって、そんなことは言われなくたって分かっているだろう。でも人は、自分にできることがあったんじゃないかという思いだけで、自分自身を苛むことができる。

 やがて小さく「すみません」と呟いて、カシムが体を起こした。ポケットから取り出した小さなタオルでごしごしと顔をぬぐい始める。ぼくのシャツにも少しだけ涙の跡があったけれど、ぼくへの被害はそれだけのようだった。器用なことだ。

「……あなたも、ご両親に暴力をふるわれていたんですか」

「まあ、少しね。傷が残らない程度にだけど」

「どうして、そんなことが起こるんだろう」

 どうして、か。昔はその理由が、暴力を振るう側にあるとすら思っていなかった。

 ざわざわと踊る木の葉の音に耳を傾けたまま、ぼくは口を開く。

「エネルギーを、取るため」

「え?」

 予想外の言葉だったのだろう。憂いを帯びた暗い声が、一瞬だけ間抜けな高音に跳ね上がる。ぼくを振り返るその無防備な顔に、同じ表情でぼくを見つめるアランの顔が重なった。そういえばどこかで、同じ話をアランにしたんだっけ。

 そんなことを思い出しながら、ぼくは続けた。

「殴ることで、ちょっと元気になるんだよ。……これは、ぼくのばあちゃんが言っていたんだけど。自分で自分を大事にしない人は、いつもエネルギーが足りないんだ。だから、それを人から取ろうとするんだって。相手に怒りをぶつけたり、言い負かしたり、殴ったりして——相手から、エネルギーを補給するんだ。自分のエネルギーは、枯れ果てているから」

 この子供向けの童話のような話に、けれどカシムはぞっとした様子で素直に身を震わせる。

「なるほど。アランは……食料にされていたんですね」

 あまりに的を射た表現を笑おうとして、ぼくはそのまま黙り込んだ。的確すぎる。的確すぎて一ミリも笑えない。

「——とにかく。少なくともぼくはアランは自殺じゃないと思ってる」

「わかりました。——ありがとうございます、ルーク」

「まあ、ぼくの意見なんて、なんの慰めにも保証にもならないだろうけどさ。それでも、アランと事件の当日に会っていた人間の言うことだと思えば、少しは説得力も増すと——」

「待ってください」

 目の端を赤くしたカシムが、すっと片手をあげてぼくの言葉を遮った。深呼吸をして一拍おき、寝転ぶぼくの方へとぐっと体を寄せる。

「事件の当日に、アランと会っていたんですか?!」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「言ってませんよ! どういうことですか。どこで会っていたんですか。その場所にはここからすぐに行けますか?」

「言っとくけど、今から行くのは無理だからな! ぼくの体力的に!」

「わかりました、あなたへのインタビューはまた後日改めます。そもそもまだ、手紙の話が終わっていませんよ。いったいどういうことなのか、きちんと説明してください」

「……待って。君、もしかしてそっちの方が素なの?」

「なんですって? いったいどう言う意味です」

「だって、君は余裕があって朗らかって——」

 アランが言っていたのに!

 カシムのことを語るアランの言葉が、またしてもぼくの頭でリフレインする。余裕があっていつでも朗らかで、全身に光を纏ってて、全校生徒の人気者で、いつも人の話に耳を傾けている、頼りになるリーダーだったって?

 全く、憧れに目が眩んだ人の言葉を、素直に受け止めちゃいけない。

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