2-4 (ドリンク・スパイキング)

「二杯……」

 つぶやいて、さすがのぼくも何かがおかしいと気がついた。

 二杯目の途中から、すでにぼくの記憶はあやふやになっている。

 仕事で疲れていた? もちろん、自分が思っていた以上に体調を崩していた可能性だってあるけれど、それにしても。

 首を捻るぼくをじっと見つめていたブライアンが、ウィスキーに軽く口をつけてから、低くぼくを促した。

「どうした。言ってみろ」

「あのさあ、ブライアン。もしかしたらぼく、思ってたよりずいぶん早い段階で酔っ払ったのかも」

「つまり?」

「二杯目の途中から、急に記憶があやふやになってるんだ」

 ブライアンの顔が、目に見えて険しくなる。ちらりと辺りを見渡し、自分に送られている視線を青灰色の視線で静かに薙ぎ払った。

「その時、何を飲んでいた」

「モヒート」

「……アルコール度数が低すぎるというわけでもないな」

「それでも記憶をなくすほどじゃないよ。ぎりぎり運転できる範囲だ」

 ブライアンはそれに対して、何か言いたそうにぼくを見やった後、首を振って質問を続ける。

「いつもなら、アルコールが回り始めるのはどのくらいだ?」

「モヒートなら、四杯くらい。ビールならもうちょっといけるよ。それでも、酔っ払うってほどじゃない」

「二杯目のグラスから離れたか?」

「んん、どういう意味?」

 質問の意味を測りかねてぽかんとするぼくに、やつはどこまでも真剣な様子でゆっくりと言葉を重ねた。

「二杯目のカップを置いたまま、お前は席を離れたか?」

「いや……あ、イエスだ! どうしてわかったんだよ。やっぱり相手はお前だったの?」

「真面目に聞け、ルーク」

 男の声が、ぼくを諌めるように少し鋭くなる。

「その二杯目のカップに、何かを混入された可能性を聞いているんだ」

「混入って」

 ようやく質問の意図に気がついて、ぼくは愕然と顎を落とした。

「え、もしかしてスパイキング……?! そんなことって、現実に本当にあるの?」

「あるな。財布は大丈夫か」

「ぼくのカード!」

 慌てて財布を覗き込んだぼくは、そこにきちんとあるべきカードが全て並んでいるのを見て、ひとまず胸をなでおろす。そして同時に、なんだか自分がひどい被害者妄想を抱いていたように思えきて恥ずかしくなった。

「なあ、ブライアン。酒に何か入れるドリンクスパイキングって、よくあることなのかな」

「よくある、の基準がよくわからんが、お前が思っているよりかは、多いだろうな」

「これがそうとは限らないかも」

 自分が犯罪に巻き込まれそうになったという可能性にびっくりして、ぼくはボソボソとそう主張した。

「単にぼくが早々に酔っ払って、その人が介抱してくれただけかもしれないよ」

 口に出したら、ますます自分でもなんだかそんな気がしてくる。酒に何かを入れられたなんて非現実的な考えより、二杯で潰れたという方がまだありそうに感じた。

 けれどそんなぼくの意見に、どうやらブライアンは賛成しかねるようだった。

 難しい顔で腕を組み、またもやすっかり刑事の顔になってぼくに質問を重ねてくる。

「お前はどう思う、ルーク。そんなことをされるような、何か身に覚えはないか?」

「ないよ! あるわけがない」元刑事の質問に、ぼくは強く首を横に振る。「そもそも、飲み物に何かを混ぜる目的っていったら……」

「窃盗かレイプだな」

 その言葉の不穏さにぐっと一瞬詰まってから、ぼくは続けた。

「あんな、まだ早い時間に? ぼくが犯人なら、あの時間帯やあの店は選ばないと思う」

「同感だ。お前にしてはなかなか鋭いじゃないか」

 感心したように失礼なことを口にして、男が目を細める。

「つまりだ、もし本当に何かを混入されていたのだとしたら、そいつの狙いは初めからお前だったのかもしれない」

「……ますます見当違いな気がしてきた。やっぱり疲れてたってことにしてもいい?」

 ついでにこの話題から今すぐ逃げ出したい。

 なんだか居たたまれなくなって目を伏せるぼくを見て、ブライアンはため息と共にその強靭な肩から力を抜いた。

「まあどちらにせよ、そいつを見つけて問いただせば分かる話だ」

「そうだね。まいったな。アリバイ証明のはずが、とんでもないことになってきた」

「まあな。——ほら、飲めよ。怖がらせて悪かった」

「誰が何に、怖がってるって?」

 口を尖らせて反論したものの、手元のジントニックがカラになる頃にはこいつの言う通り、自分が犯罪に巻き込まれた可能性について、少なくともショックは受けたみたいだとうことを認めざるを得なくなっていた。

 それ隠そうとして、ぼくは慌てて残りのアルコールをぐいっと喉に流し込む。

 つい数日前まで、友人と普通の大学生活を送っていたアランだって殺された。

 犯罪なんてものは、思いがけず自分のすぐそばに息を潜めているものなのかもしれない。ただその存在に気付かずに、ぎりぎりのラインをのんきに歩けているというだけで。

 ブライアンは、けれどそのラインの向こう側を、睨みつけながら生きていたんだ。

 ちらりと顔を上げて幼馴染の目を盗み見る。ぼくは、自分が思っているほどこいつのことをよくわかってはいないのかもしれない。

 その思いつきは、自分でも不思議に思うくらい、ぼく自身を深く動揺させた。

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