喜劇の幕開け

 これはほとんど母から聞いた話ですので、所々があやふやになってしまっています。

 二○○一年の夏に、新潟県のとある場所で私は産み落とされました。それから私が産まれてから数ヶ月頃だったか、母が癌を患い病院に入院することになりました。その間私は父方の祖父母の元に預けられていました。

 しかし、それが恐らく間違いだったのでしょう。産まれてまだ間もない私は育児放棄をされていたらしく、母が一時帰宅をしていなければ私はその灯火を消して死神に抱かれ連れていかれていたらしいのです。母が見つけた時にはほぼ虫の息だったと聞きました。ミルクも与えなければ風呂にも入れてもらえてない。おしめも変えてもらってなかったとも聞きました。そしてこれは私の憶測なのですが、その当時私がいた場所は押し入れだったんじゃないか、と思ったのです。これは私の癖のようなものでしょう。物心ついた時には夜眠る時に暗い状況だとどうにも寝つきが悪く、寝ようとすればするほど暗闇が眼下に迫ってくるように見えているせいで眠りにつくのにとても時間がかかっていました。

 最近になって気がついたことなのですが私は幼少の頃、遊ぶ場所や嫌な事があれば、すぐに隠れる癖がありました。学習机や押入れ、狭くて暗い場所に隠れるのが多かったと言われました。最初はそういう場所が好きなのだと思っていましたが眠る時に決まって圧迫感を持っている事にふと違和感を覚えたのです。

 眠る時は普通ならそういったものを感じるという事はそうそうなかったはずだと思い、そこから疑問へとすりかわっていきました。私の後輩達は恐怖症や精神疾患を持った人が数人居ました。「集合体恐怖症」、「急性パニック障害」、「解離性同一性障害」といった症状を持った人が周りにいて、部活動ではそんな似たような人が集まっていました。その中に「暗所恐怖症」を持つ人がいました。その人の症状はだいぶ落ち着いているらしいけれども暗い場所にいると圧迫感を感じるのだとカラカラ笑って言いました。その話を相槌あいづちを打ちながら聞いていたのですが、帰路を歩いている時にふと、ひょっとしたらと思い調べると当てはまるのなんの。ここで今までの疑問がカチリとジグソーパズルのように当て嵌ってあぁ、そういうことかと自然と胸の内がすぅ、とスッキリしていました。

 おっと、話が盛大に逸れましたね。憶測の前から話を続けましょうか。母に発見されてから私は暫く母が入院している病院にお世話になっていたようです。そこから先の話は聞いていないので私も知りません。

 そして、癌の手術の途中で母は退院しました。その後に私と何故か離婚することのなかった父と共に長崎県へと渡ったようです。

 それから私が二歳になる少し前に長男が産まれました。そこでも一波乱あったらしく、母方の祖父母が預かると言っていたのですが、

 預かるのは私だけで長男を預かるつもりは無いと言っていたようです。それに母が噛み付いて、離れ離れにするのなら施設に入れると言い本当に入れたようです。この時期はまだ自我は芽生えていないので私は覚えていません。

 それから数年後、癌の手術に成功し退院した母、元父、私、長男の四人で暮らしていました。

 元父、私はその人を父親とも思いたくありません。それでも今も母を通して私達に連絡をしてこようとします。私も長男も拒否しているのですけれどね。

 私が四、五歳で長男が二、三歳くらいの時でしょうか。今も目蓋を閉じればその日の記憶が鮮明に真っ赤に塗れて見えます。何が原因だったかは今となってはもう聞く気もありません。それでも母とその男が夫婦喧嘩をしたという事は今も覚えています。そしてその男が家を出る際に台所辺りの窓を殴り付けて出て行きました。えぇ、素手で。ひび割れた窓に赤い液体がべったりと付着している幼い私はそれを目の前で見てしまい、今でも頭にこびり付いて剥がす事が出来ません。そこからはたしか、警察も出てきて二人は離婚を成立させました。親権は母に渡り、母、私、長男はそこから引っ越しました。当時の私は何故父と離れるのか全く知りませんでした。でも、今なら離れてよかったと思っています。何故そう思ったのか、ですか。一度だけ私と長男は父の元にお泊まりに行きました。その時の部屋の状況はゴミや色んなモノが散乱していました。ご飯もちゃんと食べたかなんてことは今となっては奥の奥の方に沈みきってしまって覚えていません。その翌日だったでしょうか。サンドウィッチを食べたのですけれど、マスタードだったのか何かよく分からないものが挟まっていて二、三口食べて残しました。それは長男も一緒でした。朝のうちに母が迎えに来て当時住んでいた家に帰ってからそれ以降その男とは会っていません。強いて言うと一度電話をした程度ですかね。

 それからは割と普通に過ごしていました。時々バレエの様にクルクル回ってみたり、干支は自分の先祖だと思い込んで話していたこともありましたけれど、比較的普通に過ごしていました。

 そこからは、何事もなく小学校に入学しました。周りの友達にも恵まれ、今思うとそれが「幸せ」というものだったのでしょうけれど、当時の私はあまりにも幼すぎてそれが「当たり前」だと思っていました。ただ、今も心残りなのは、学校行事に母が来ないことが多かったことでしょうか。例えば運動会のお昼休みは周りの友人達は両親と楽しそうに食事をしているのを尻目に私は自分の教室で一人ポツンとただ黙々とお弁当を食べていました。今なら仕方ないとそう思うことができるのですが、甘えた盛りだった私はそれが妙に苦しく思えてなりませんでした。

 そんな入学してどれくらい経ったのかは分かりませんし、そこまでの記憶も曖昧ですが、寝て、その翌日に全く見知らぬ男性が居るのですから最初は驚きました。しかし、当時の事を聞くと、私はすぐに懐いたと言うのですからあまり自分の記憶も信用できないなと他人事のように思いました。そして、長男はその男性に警戒心も見せる事なく恐竜の絵本を読んでほしいとせがんだと言うのですから怖いもの知らずなのか、無知故になのかはその時にしか分かり得ない事です。そして、時は経ち、私が二年生になった頃に母に新しい命が宿りました。それが現在の次男です。その報せを受けてもあまり意味は分かっていませんでしたが、その日の夜に二人からある二つの選択を渡されました。簡潔に述べてしまうと引越しを「する」か「しない」か。この時からでしょう。私が「私」じゃなくなるカウントダウンが始まっていたのは。私は「する」という選択肢をしました。その意味も分からないままに。何故あの時、二人が私にこの選択の主導権を持たせたのかは知りません。しかし、それでも未だに後悔しています。何故あの時、「しない」選択を捨てたのかと。悔やみ続ける。過去から今もこれからも、ずっと。どうやったって戻すことはできない時間という「水」は用意した「器」から溢れ、そこから垂れ流しのまま、私はそれを眺めることしか出来ません。時がビデオテープの様に切り取ることができるのでしたらいっそ、そこの部分だけを切り取ってしまえたらいいのですけれど、生憎私にはそれをする術を持ち合わせていないので過ぎた話として処理しなくてはいけません。

 私よりも恵まれていない子供は日本でもかなりの数でしょう。それにこの地球上で恵まれていない子供達は何万人もいるでしょう。育児放棄で何も食べることが出来ず飢えで苦しんでいく人、自分よりも劣っているからと言葉の刃で見えない傷をいくつも斬り付けてその人が自ら死神の手を握れば今度は保身で

 無罪を主張する人。これらは子供も大人も関係なくあります。年齢も様々、幼くて小学生くらいの甘えた盛りの子供達。「保護所」と呼ばれる場所では3歳くらい。嫌、もっと幼い自我すらない子供もいるかもしれません。

 おっと、相当脱線してしまいましたね。続きはまたお会いできた時にでも致しましょう。ほら、早く帰らないと黒衣の人に連れ去られてしまいますよ? えぇ、運が良ければまたお会い出来ましょうとも。それでは、またどこかでお会いいたしましょう。

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