37.一人と一頭がひた走る先に、待ち受けるのは


 これも悪夢のつづきなのだろうか。



 だけど、これまで見つづけた、いつもの悪夢と同じではなかった。



 全身がずぶ濡れで、外套も、着込んだ革の装備も、下着までもがたっぷりと水を含み、革のブーツにも大量の水が入っている。雨は降っている様子がないのにどうしてなのか、それに、なんだろうこれは…………自分の身体の下に、毛むくじゃらの生き物がいる。



 全身にその生き物の鼓動を感じて、唐突に夢じゃないと気づいた。そういえば鼻をつまみたくなるような獣臭がする。わたしは、毛むくじゃらの生き物の上にうつ伏せの状態で、荷物のように括りつけられ移動していた。



 自分の下にいる生き物は、飛び、跳ね、駆けている。おそらく俊敏な四足歩行の魔物か獣。地面を踏みしめる足音さえほとんどさせていないが、上下の動きによる揺れのたびに、全身に痛みが走った。



 視界は依然として闇に閉ざされたままで、現状で把握できるのはそこまでが限界だった。いまどこにいて、なぜこんな状況になっているのか、どうして誰も周りにいないのか、さっぱりわからない。



 ファーギーはどこにいるのだろう。相変わらず手足にうまく力を込めることさえ叶わないほど衰弱しているのもあって、ひどく心細かった。泣き叫んで助けを呼びたい。でも、それはだめ。必死に自分自身に言い聞かせた。



 敵がどこにいるかもわからない。落ち着け、落ち着かないと。



 思い出して――こんな状況になる前の、最後の記憶。わたしは何をしていた。




 しばらくして蘇ってきたのは追手との戦闘と、その衝突より少し前に交わされた会話だった。



「数の上で圧倒的に不利な俺らは、囲まれるような戦闘だけは絶対に避けなければならん。狭い地形に誘い込むという意味では、あそこしかないだろう」

「そうはいっても分隊長、カテガル渓谷は険しすぎる。道だって崖を削って作っただけの曲がりくねった細い道で、馬車がギリギリ通れる道幅だ。外側は断崖絶壁、落石一つで崖下まで真っ逆さま。あんな場所で戦闘をするのは、マトモじゃない」

「それは向こうも同じだろうが。制限がかかればかかるほど、こちらには有利に働くはずだ。馬車自体を立ち往生しているふうに見せかけて囮にし、小娘にはそれよりもずっと後方にいてもらって護衛を一人はりつかせておく。支援要員のお前らは事前に敵の斥候だけは確実に潰しておいてくれ」



 身体は動かなくても、魔法をぶっ放すぐらいできると伝えたはずなのに、誰一人としてわたしを戦力としては数えてくれない。そのことに多少の不満というか落ち着きの悪さを覚えながらも、ゲルガー・ヴォイエンの指示に従った。



 恐怖で震えたり顔面を蒼白にしたりするような者は一人もいないだろうから、わたしが戦闘に加わらずとも難なく乗り切れるのかもしれないと思い込むことにする。



 戦端は、縦に伸びきった敵隊列に、シャドウウルフの群れが傾斜のキツイ山側斜面を猛烈な勢いで駆け下ってくるという驚くべき攻撃、いやむしろ見た目的には魔物が落下してくるような有様で、魔物使いの強制的な指示がなければありえない状態だったらしい。そんな、わたしがされたら絶対に腰を抜かすような不意打ちによって戦闘は開始された。



 視力を失っているわたしにその様子は見えないが、どう猛な唸り声と怒号、馬の悲鳴などから敵の混乱ぶりが伝わってくる。



 そこに、ファーギーの最上級広域攻撃魔法。天から流星のように聖なる光の塊が大量に降り注ぐ魔法が襲った。凄まじい轟音と揺れが辺り一帯に響きわたる。



「相殺を狙った風魔法による突風と魔力障壁によって四分の一には無傷で防がれましたが、三分の一に傷を負わせ、それ以外は確実に削りきれたと思います」



 落ち着いた響きの声で、隣の護衛役の男が報告してくれた。



 もしかすると、すごく順調じゃないだろうか。それとも、こちらの奇襲が成功し、魔法攻撃が凄まじかったにしては、残った敵の数は多いと考えるべきなのか。尋ねようとしたところに緊迫した声が上がる。



「無傷だった敵が怯むことなく殺到してきます!」

「ちっ、迎え撃つぞ!」



 このあと作戦では、近接戦闘に長けた元近衛兵の騎士三人と傭兵二人が突撃し、後方から弓手二人と植物を操る魔法の使い手が、援護射撃を加える予定になっていたはず。



 ゲルガー・ヴォイエンによれば、殲滅しなくても指揮官さえ討ち取れば必ず逃げに転じるはずだから全員無理はするな。ファーギーにも、最初の攻撃以外は魔力を温存し回復に専念するようにと指示していた。



 なにもかも作戦通りにいくとは思っていない。だけど、敵の突進は予想よりも遥かに苛烈だったのだろう。加えて、敵の指揮官も討ち取れなかった。



 事実、このあと後方まで一気に押し込まれ、罵声、剣戟の音、飛来音などが近づき、次第に血の臭いも濃くなって、目が見えないので闇雲に魔法を投げつけるわけにもいかず、右往左往していたような気がする。そして、裂けるような破裂音と同時、全身に叩きつけるような衝撃を受けて身体が完全に宙に浮いた――。



「くそがっ! 諦めるなっ! 辺境伯領だ! 辺境伯領を目指せ! こんなところで死んでたまるかっ!」



 ゲルガー・ヴォイエンの怒鳴り声、あれが意識を途切れさせる直前に聞いた最後の音だったはず。




「あのとき、いったい何があったんだろう……」



 状況から考えれば、何が起きたにしろ、わたしが谷底側に向かって落下したのは間違いないだろう。だとしたら、いまこうして無事でいられるのは、ほとんど奇跡だ。



 でも、全員にそんな幸運が訪れたとは考えにくい……みんなは無事だろうか。あれからどれぐらいの時間が経過したのだろう。



 わたしの身体の下にいる生き物は、危害を加える気配がないので、魔物使いの男が身体を縛って固定し、逃げるように指示してくれたのかもしれない。でも、それはいつなのか、本人はどうして傍にいないのだろう。



 考えを巡らせていると、わたしを乗せて疾走していた毛むくじゃらの足が、突然の急停止をした。



 不意の行動に、敵にでも見つかったのかと、緊張と不安で息をつめるわたしの耳に届いてきたのは聞き馴染んだ声。



「見つけた……ティナ」

「ふ、ファーギー!? よ、よかったぁ。す、すごく心配していたんだよ、どこも怪我してない? 他のみんなはどうなったの?」

「…………」



 よく聞こえなかったのか、それともどこか苦しいのか、返事がない。



「ガルルルルルルゥゥ」

「こ、こらっ、ファーギーは味方だよ、唸らないで!」



 姿勢を下げ、いまにも飛びかかりそうになったので必死に声をかけて宥めようとするわたしに、ひどく陰気な声が漏れ聞こえた。



「ティナを殺せば、わたしは……」

「………えっ!?」



 総毛立った。どうして……。



「そんなわけない。そんなことしたくない。わたしはティナを無事送りとどけて約束を……嗚呼アアアああああ…………頭が痛い。頭が何倍にも膨れ上がってしまいそう、もうやめて、助けて……あぁ、そうだった。わたしは、幸せになるためじゃなく、不幸になるために、ティナを殺す。そうすればきっと欠片が育ちきって、聖女になって……あれ、うそ……ちがう、わたしはそんなモノにならない。この記憶は、アああ嗚呼ああ、だとしたらなぜ女神はアハハハハハ、そんなのどうだっていいわ。わたしはティナ、あなたが羨ましい、だから」



 完全に正気じゃない。



 このままでは、取り返しがつかないことになる――。



 サイラスに渡されていたものを使うべき時かもしれない。



「ファーギーに異変を感じたら迷わず使え。これにはファーギーが最も大切にしてきた者の声と魔力が入っている。その声と魔力の波動を感じれば、本来の意識が一時的ではあっても必ず戻ってくるはずだ。精神的に弱っていると誤解を与えるかもしれん。それでもまずは正気にさせることが大事だ」



 本来は音の鳴る警報用の小型魔道具だったものを、改良させておいたという。



 括りつけられたままで自由の利かない身体を必死にねじって、渡されていた魔道具を首元から震えながら引きずり出し、なんとか作動させた。たちまち魔力の波動が周囲に広がり、それとともに幼さの残る声が聞こえてくる。



「お姉ちゃん、目を覚まして! 本当にそれでいいの? 後悔しない? レティはお姉ちゃんに助けられてばかりだったけど、もう十分だから。だから、お願い、目を覚まして! お姉ちゃん今までありがとう」

「あぁぁぁ…………レティ……」


 

 効果は、あったのだろうか。しょ、正気に戻って、お願い。



「なにが、十分なの……ばかみたい」

「ふ、ファーギー?」

「そう……あなたを守るために、わざわざ妹のところに出向いて、こんなものまで用意していたとは。頼りにしていると…………言ったくせに。せめて、大切な仲間にはなりたかった。でも、それ以前の問題だった。これっぽっちも信用されていなかったわけね。でも当然か――実際、信じなくて正解だったわけだし」



 胸騒ぎがした。そして、ようやく気づいた。わたし、もしかするとこれまで、ひどく無神経だったのかもしれない。



「馬鹿……馬鹿……ちがうよ……サイラスは、わたしを守ろうとしてくれただけじゃない。ファーギーが自分の意思すら自由に制御出来なくなって、囚われたままになってしまうのを望んでいないから、だから」

「もういい……おかげで目が覚めたから。そして、わたしの未来も理解した。あなたの目がいま見えていなくて良かったと、心から思うわ」



 ひどく悲しげな声に、耐えきれなくなって涙が溢れる。



 頭がくらくらする。ファーギーを抱きしめたくて仕方ないのに、いまのわたしは毛むくじゃらの生き物の上に括りつけられたままで身動きが取れず、どれだけもがいても、もがいても、少しも距離を縮めることができなかった。

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