25. 衰弱していく身体で、ラスタード公爵領内へ


 見るたびに増殖していた赤黒い染みが、ついに床や壁や天井の八割がたを埋め尽くすと、蠢動し始めた。



 もぞもぞ。うねうね。ぎしぎし。



 染みだったはずのものが蠢いて、文字を形づくっていく。部屋全体に書きなぐられた不揃いな呪文のようになったソレは得体のしれない圧迫感を放ち、脳や心臓を強烈に揺さぶった。



 視界が乱れ、立っていられなくなる。



 床に手をついて必死に耐えていると、ヌルっとしたモノが手に触れ、驚いて自分の手を顔に近づけてみる。粘ついた赤黒い液体が手の平にべっとりとついて、不快感と怖気で叫び出そうとした瞬間。



 呼び戻された。



「ティナ、そろそろ起きておいたほうがいいわ。もうすぐ国境だけど、どうやら馬車では通過できそうにないのよ」



 ファーギーに揺り起こされ、目覚めた瞬間に大きく息を吐く。身体が震え、冷たい汗で全身が濡れ、頭の芯が痺れてひどい倦怠感に襲われていた。



「また、夢の内容が悪化したのね」

「あ、赤黒い染みが、呪文みたいになって、すごく不気味で、こ、怖くて。気持ち悪くて、もうどうしたらいいか――」



 かすれた声で訴えると、ファーギーがわたしをぎゅっと引き寄せ、力強く抱きしめてくれた。



「サイラスじゃなくて悪いけど、震えが止まるまで抱きついてなさい」

「…………うん……ハグっていいね。すごく安心する。ファーギーがいてくれてよかった。ありがとう」



 あたたかい。繰り返される悪夢で衰弱し、暗くなりがちな心に灯がともる。しばらくファーギーの胸に身体を預けさせてもらい、震えが治まるのを待った。


 

 そうして、何とか削られた気力が回復してくると、揺り起こされたときの言葉について考える余裕が戻ってくる。



「あれ、そういえばファーギー、馬車では通過できないって言った?」

「この先、国境を越えてすぐにラスタード公爵領の砦があるのよ。そこに、わたしとティナの手配書が届いているそうよ。絶対に国境を越えさせるな。見つけ次第捕縛せよだって。だから、街道は使えない。そのうえ国境を抜けられそうな場所は街道以外もそれなりの戦力を配置して哨戒しているみたい」

「うわぁ、それは厳しいね」



 わたしの体力が呪詛の影響でどんどん衰弱していくのがわかっていたので、ここまでの八日間は、馬車で移動してきた。



 幌馬車を操ってくれた御者も、馬車を包囲するような陣形で同行してくれていた護衛の六名も、サイラスが手配してくれた人間だ。彼らがいてくれたおかげで、身の危険を感じるようなことは一切なく、盗賊の襲撃にすら一度も遭遇せずに旅を続けてこられたのだけど……。



 これから先はきっと、そうはいかないという事だろう。



「早速、戦いになる?」

「なるでしょうね」



 簡潔な言葉が返ってきて、身が引き締まる。



 辺境伯領を目指すためには、サイラスにとって敵対陣営となるラスタード公爵領をどうしても抜けなければならないのだ。そのことがどれだけ大変な事なのか、さっそく思い知らされたような気分だ。



 だけど、身を竦ませるわけにはいかない。



 以前護衛任務の途中で盗賊に襲われたときは、身体が委縮して全く動けず、足手まといでしかなかった。護衛対象のはずの商人たちと一緒になって馬車の中で震え、ただ守られていた。



 あんな不様な失敗は決して繰り返してはいけない。



 ここにくるまでの八日間ずっと考えていた。サイラスと話し合った時、サイラスと共に生きるつもりなら「あらゆる手を使って命を狙われ続ける」ことになると言われたのは、決して脅しではないはずだ。



 それでも、ずっと一緒に生きていきたいと望んだのだから。



 あの時のように、サイラスがいないと何もできない。そんな存在のままじゃ、きっとこれから先あの人と肩を並べて一緒に歩いてはいけなくなる。



 積極的に人を殺したいとは思わない。それでも――戦わなければいけない場面で攻撃魔法を放つのを、躊躇ったりはしない。



 覚悟を決めて荷物を整え、馬車を降りると、辺りはまだ夜が明けておらず、闇に包まれていた。



 すぐさま、幌馬車を操っていた御者が、音もなく近づいて来る。



「私と、あと二人が夜陰に乗じて哨戒線を突破し、背後から斬り込みます。混乱している隙に残りの者たちが前方をさらに突き崩しますので、その間にお二人は駆け抜けてください。目指す地点は事前にお伝えしていたとおりです。そこまでいけば元近衛騎士団の一部が待っています」



 作戦は彼らに任せようと思っていたので頷こうとしたら、ファーギーが待ったをかけた。



「それって何人か犠牲を出す覚悟での作戦よね」

「想定以上に敵の数が多いのです」

「わたしが切り札の一つを切るわ。無駄な犠牲を出さなくてもいいはず。ホーリー・エンジェルという魔法を使って空から派手に攻撃し、注意をわたしに向ける」

「え? ファーギーって、空を飛べるの?」

「翼を模る魔法よ。わたしはそれで砦を攻撃する。派手な魔法を使ってみせるから、哨戒線にも必ず穴が出来るはず。そこを抜けなさい」

「えっ、待って、それじゃファーギーだけが危険に晒されるんじゃ」

「そんなことないわ。わたしは空にいるわけだから、一番安全ともいえる。わたしの心配より、ふらついてるんだから、躓いたりしないでちゃんと走りなさいよ。あんたたちも、ティナを頼んだわよ」

「……わかりました。そんな魔法まで使えるのなら、ファーギー殿にお任せします。どうか、お気をつけて」



 御者に扮した男が了承したのを確認すると、ファーギーが目を瞑って集中し始める。しばらくすると、光り輝く粒子がファーギーの周囲に降り注ぎ始め、その粒子が、みるみるうちに翼を模っていく。



 右側には黒い翼。左側には白い翼。身の丈を上回るような大きさの一対の翼が光の粒子を振りまきながら羽ばたき、ふわりと浮き上がった。



 その光景はファーギーの美貌と相まって神秘的で、得も言われぬ美しさに見惚れてしまい、目が釘付けになる。



 護衛達も含めてわたしたち全員が呆然と見守るなか、高く舞い上がり、砦の方へと飛翔していく。あ、あれだと、飛んでいるだけで相当目立ちそう。



「おい、あれはなんだ」「魔物か?」「いや、め、女神じゃないのか」

「バカが、そんなはずがあるか」「なんでもいい、撃ち落とせ!」



 思った通り、すぐさま方々で声が上がり始めた。



「テ、ティナ殿。今のうちに、抜けやすそうな位置に。ファーギー殿が攻撃をはじめたら、すぐさま先導しますので、ついて来てください」



 離れたところで、凄まじい音が鳴り響き、騒ぎが大きくなっていく。



「哨戒線の人数が減りました」



 仲間の誰かが声を潜めて報告する。確かに減ってはいるのだろうけど、篝火の近くにまだ少なくない人数の兵が残っているのが見えた。



 それでも、地面が揺れるほどの攻撃魔法の余波が連続して届きはじめると、前方の兵たちの間にも、動揺が起こる。



「おい、応援に迎え」「砦が落とされるぞ」

「攻撃魔法を放てる者は集中砲火だ」「急げ!」



 傍にいた男が、外套を引っ張って合図をくれた。篝火の炎が明るい分、そこから外れた場所の闇は深い。騒ぎに気を取られているあいだに、闇に紛れて兵たちの間をすり抜けていく。



 結局、守られるだけになってしまった自分が歯がゆい。ファーギーは無事だろうか。不安で振り返りそうになるのを何とかこらえながら、歩を進め続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る