二 邂逅
そして、いつしか人影が他には見られない、うら淋しい住宅街の裏道に入り込んだ時のことだった。
オレンジ色だった世界が今度は薄紫色の夕闇に染まり始める中、ふと見ると向こうからカーキのトレンチコートを着た若い女性がこちらに向かって歩いて来る。
スラッとした痩せ型でスタイルがよく、おそらく僕よりも一回り背が高いだろう。足を踏み出す度にカツ、カツと軽快な音を刻む赤いハイヒールが、そのモデル体型をなおいっそう際立たせている。
長く美しい黒髪を夕風に靡かせ、顔は大きな白いマスクをしていてほとんど見えないが、窺える目元だけでも涼しげ瞳をしたけっこうお綺麗な方だ。
それゆえになおのこと、僕は
それまで同様、僕は顔を見られないようフードの端を引っ張って目深にかぶり直すと、俯き加減にその女性とすれ違おうとする。
……だが、その瞬間。
「ねえ、わたし、きれい?」
体を横にずらし、僕の進路をわざと遮った彼女が不意にそう尋ねてきた。
「……え?」
僕は思わず立ち止まると、彼女の顔を見上げてしまう。
「ねえ、わたし、きれい?」
沈みゆく夕陽を背負っているため、彼女にとって僕は逆光の位置にあたり、深くなった影のおかげで幸い僕の顔は見られなかったようである。
だが、想像していたのとは違うハスキーな声で、彼女はもう一度、まったく同じ質問を投げかける。
「え、ええ、お綺麗だと……思いますよ……」
突然に問い質され、僕はどぎまぎしながら慌てて率直な感想を口にする。
反射的に答えてしまったが、そういえば、こうして人と言葉を交わすのもずいぶんと久しぶりだ。
なぜ唐突にそんなこと訊いてきたのか知らないが、思いがけず外で人とお話をしてしまった……この人には僕がどう見えているのだろう? イントネーションとか、今の話し方は変じゃなかったろうか?
「あらそう? じゃあ、これでも……」
内心、そんな心配をする僕を他所に、彼女は再び口を開くと今度はいきなりマスクを外し始める。
その意図がまるでわからず、いったい何がしたいんだろうかと彼女の顔を見つめていると……。
「……!」
そのマスクの下から現れたのは、真っ赤なルージュを塗った口がパックリ耳もとまで裂け、その隙間からは白い奥歯までもが覗き見える、一般的な人の容貌とは少々異なる女性の顔だった。
「どう? これでもきれい?」
大きく裂けた口をわずかに動かし、彼女はたたみかけるようにして再度、僕に尋ねる。
一連の行動から考えて、それは否定されることを前提にした質問なのだろう。
しかし……。
「綺麗だ……」
僕は心底そう思い、無意識の内にも自然とそう答えていた。
確かに口は大きく裂けているが、全体の顔立ちは鼻筋が通ってとても美しく、先程から見えていたつぶらな瞳もやはり涼やかで吸い込まれてしまいそうである。
その上、首から下もモデルのようにスラッと背が高く、出る所は出てくびれる所はくびれ、まさしく女性らしい良いプロポーションだ。
とにかく、彼女は美しい……僕は心の底から素直にそう思ったのである。
「……え、な、なに言ってんのよ、バカ! これでも綺麗だっていうの? そんなくだらない冗談言ってると、その減らず口をわたしみたいに切り裂くわよ!」
まったく予想外のうれしい答えだったのだろう。わずかにポカンとした顔を覗かせた後、彼女は頬をほんのり赤らめると、それでも照れ隠しに手に持った大きな裁断用のハサミを高々とふりかざし、わざと悪ぶって僕に凄んでみせる。
「い、いや、嘘でも冗談でもないよ。本当にそう思ったんだ。君は一目で恋に落ちてしまうくらい、今までに見た誰よりも美しい女性だ……って、あれ、僕、なんかものすごく恥ずかしいこと言っちゃってるな……」
それが本心であるとわかってもらうためとはいえ、勢いで初めて会ったばかりの女性に告白するようなことを口走ってしまった僕は、急に気恥ずかしくなってくると普段は鼓動すら聞こえない心臓までドキドキさせてしまう。
「あ、いや、別に恋の告白とかナンパ目的とかそんなんじゃ……」
誤解されてもなんなので、今度はあたふたと言い訳を口にする僕だったが、見ると彼女はハサミを振り上げたままの格好で、その両の眼からは静かに涙を流していた。
「……あ、あれ? やだ、わたし、なんで泣いてるんだろう? おかしいな…グスン……もう何年も涙なんか出たことなかったのに……」
頬をつたう自身の涙に気づき、彼女はコートの袖でそれをごしごし拭いながら、その感情を誤魔化すかのように小首を傾げてみせる。
そんな彼女の姿を見て、僕はすべてを悟った。
なぜ、彼女がこんな奇抜な行動をとっているのかを……。
なぜ、彼女があえて裂けた口を見せ、あんな質問を投げかけてきたのかを……。
彼女も僕と同じなのだ。きっと、その
その悲しみを隠し、その傷ついた心を偽り、自分で自分を騙すために、こんな恐ろしい都市伝説の殺人鬼みたいなフリをして回っているのである。
立場や行動は違えど、彼女も僕と一緒なのだ……。
図らずも自分と同じような境遇であることを知った僕は、なんだかとても彼女のことが愛おしいように思えてきた。
それは美しい容姿からだけではない……悲しみをそのマスクに隠して生きる彼女の健気さに触れ、本当に僕は彼女に恋をしてしまったのかもしれない。
「あ、あの……よかったら僕と、これから散歩にでも行きませんか?」
気がつくと、僕はそんな誘いの言葉を彼女に投げかけていた。
口に出してからそれに気づき、僕は再び強烈な恥ずかしさに襲われる。
「…ちょ、な、なに怖がりもしないでナンパなんかしてんのよ! バッカじゃないの!」
「ご、ごめん! 別にナンパするつもりじゃなかったんだけど、なんていうかその……なんだか君と散歩したら楽しいかなあって思って…」
さらにはまたカーっと顔を真っ赤にする彼女に罵られ、もう穴があったら入りたい。
確かにこれでは、ただのチャラいナンパ野郎である。
「で、でも、そこまで言うんなら仕方ないわね。人脅かすのもいい加減飽きたし、今夜は特別に付き合ってあげても別にいいわよ?」
だが、その結果的にしてしまったナンパも速攻撃沈かと思いきや、赤い顔のままそっぽを向いた彼女は、どこかモジモジした様子で予想外にもその誘いをOKしてくれる。
「……え、それって、ひょっとしてOKってこと?」
「そんなこと何度も言わすんじゃないわよ! このわたしとデートできる男なんて滅多にいないんだからね! ありがたく思いなさい!」
念のため確認をとる僕に、彼女はさらに顔を真っ赤にして声を荒げると、何を怒っているのか、ツンツンとした態度でさっさと先に歩き出してしまう。
「あ、ちょっと待ってよ!」
早足に先を行く彼女の背中を追い、僕も慌てて再び歩き始める。
こうして、ずっと引きこもっていた僕は外に足を踏み出したばかりでなく、薄闇に包まれた夕暮れの街で生まれて初めて女性とデートをすることとなった。
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