第9話
ヒザまである水をかき分けて、雲太らは千々となった副屋まで進んでゆく。手に白く塩が吹いていたなら払ってそっと勾玉を拾い上げた。すべらかなその形を天にかざして眺めてみる。勾玉に帯びていた稲妻はもう見られず、雲太はそれを京三に預けた。うやうやしく受け取った京三は、懐の深いところへおさめて上からそっと手をあてがう。
さて、副屋がこんな具合に散壊してしまったのだから寝床はもうない。三人は仕方なく散ったワラ屋根をかき集め、その夜は泥の上に敷いて遥か高天原を屋根とまぶたを閉じた。
明けた朝は昨日の嵐などなかったかのような晴れだ。早くもさんさんと降り注ぐ日はぬかるみを乾かし、それはもう所々を白く変えているほどだった。
その中、祓いの約束が果たされたらしい、と様子をうかがい訪れた長の様子は、まったくもっておっかなびっくりがちょうどとなる。消えてなくなった副屋と、代わりに現れたた水溜りや塩の柱にほとほと驚き、寝ぼけ眼をこすっていた和二をつかまえいきさつを求めた。
和二が要領を得なければ、顔を洗いに離れていた京三が戻ったところで代わりを務める。
聞き入る長は長老と言うよりむしろ船場の頭だ。潮にさらされ日に焼けた顔には独特のシワが刻み込まれ、それでいて晴れ晴れとした面持ちに力仕事へ従事する者の気をみなぎらせていた。京三が懐から勾玉を取り出したときなど、なおさらその面持ちを引き締める。
「あらぶっておられた時はこの地に災いをもたらしておりましたが、建御雷神がその怒りを祓い鎮めて下さりました。今は見ての通りの和魂です。ゆえに、この地に手厚く祀れというのがご神託です」
「へ、ただちに
もったいないと頭を垂れて、差し出す両手でしっかと勾玉を受け取った。
「あ、間違っても、村に現れた蛇を傷つけることなどないように。時には酒や蛇の好むものなど献上してご機嫌を伺えば、末永く村の良き守り神としてこの地を治めて下さることでしょう」
これもまた、その通りに、と答えて一礼し、懐へ勾玉をしまい込む。ようやくほっとしたような面持ちを浮かべてみせた。
「しかし、これもまた建御雷のお力なのでしょうか」
「どうかされたのですか」
「え、昨日まで節々が痛いと伏せっておったうちの女房ですが、病が治るどころか朝、目が覚めるとすくっと立ち上がってみせまして、もう朝げの支度にかまどを吹いております。いえ、うちの女房だけではありません。村中の女どもが、ともかくその様子で、は」
そう言えば、と京三は辺りへ目をやった。どうにもしみついたような侘しさのあった村は、今や浜から微かと聞こえてくる波の音にも、遮って立つ松の木立にも、そして何よりぬかるみが暖めつつある村の風にこそ、賑わう気配を混じらせている。傍らに立つ和二も察したようだ。耳を澄ませたその後で、鼻をクンクン鳴らしていた。
「健やかにあれと、建御雷が言霊を残してゆかれました。病の因果が切れただけでなく、このように元気になられたのもそのせいではないかと」
説けばはたまた深々と長は頭を垂れてゆく。
「なんともったいない。旅の方へも重ね重ね御礼を。つきましては祠建立のいきさつを永く語り継いでゆきたく、失礼ながらお三方のお名前をおうかがいしとうございます」
上げて京三へかしこまった。
「いえ、わたくしどもはただ屋根を借りたお礼にと……」
困り果てて京三は和二と顔を見合わせる。共にうなずき合ったところで改め長へ口を開いていた。
「名乗るような名など持ち合わせておりません」
「でしたら、せめて今日の船代は無用ということにさせていただけんでしょうか」
「えっ、今日、出立できるのですか」
驚く京三を前に、空へと長は目を向ける。持ち上げた指で風をつまみ、確かめるようにその腹を擦りあわせてみせた。嗅いで松の木立の間から、わずかにのぞく浜へ目を投げる。
「風もなく嫌な湿り気もございません。海も見ての通りと凪いでおり、嵐の後とは思えぬ穏やかさ。支度が整い次第、昼までには船出できるよう漕ぎ手どもにも話をつけて参りました」
「それは助かりますっ」
地に着くほどと京三は頭を下げた。思い出して、そこから顔だけを長へと向ける。
「そう、言えば……兄の雲太が見当たりませんが。いささか立て込んでまいりました。兄がどちらへ向かったか、長はご存じありませんか」
また風に、賑やかな声は混じる。
「ああ、
知らせて長がアゴを傾けたのは、その声の聞こえてくる方だ。
「え、兄はお邪魔しておるのですか」
「へ、病を祓ったのが御仁であると分かれば、女どもが礼をしたいと言い出しまして。昨晩、蛇の持ち出した酒がずいぶんお気に召されたようでしたから、酌をさせていただいております」
「なっ、なんですとっ」
たちまち京三の顔色は変わってゆく。だが長は気づいていないらしい。
「ずいぶんご機嫌でいらっしゃいますよ、え」
つけくわえたその前で、京三はクルリ、きびすを返していた。
「雲太ぁっ!」
一喝する声は大きく、負けず劣らずの勢いでダッ、と駆け出してゆく。残され長はポカンと口を開き、やがて和二へその目を向けなおしていった。
「何か?」
なら鼻の頭を掻いて答える和二は慣れたものだ。
「うんにいはけいにいに、酒は飲むなと言われているのだ」
だからして京三は走っていた。船も出すなら魚も獲る村だ。道具が干された戸口を、一日の始まりに精を出す村人の驚いたような視線の間を、風となって駆け抜けた。その一足ごとに笑いの出所は近づくと、ひしめく人の気配が鼻先をかすめる。ここかと見極めた住まいは入り口に板が立てかけられており、飛び込みかけて中から響く、きゃー、という女の悲鳴に足を止めていた。とたん板は弾き飛ばされる。中から女は駆け出していた。そんな女たちはみな、叫びながらも笑っていたり、赤い頬を手で覆っている。
手遅れか。
見送り京三は息を飲んだ。意を決して女の途切れた入口へ身をひるがえす。
「雲太ぁっ!」
「おお、京三、お前も来たか。これは美味いぞ、まあまあ飲め飲めッ」
言う通り、あぐらをかいた雲太は土座の上にいた。カラになった瓶子と女に囲まれるとご機嫌そのもの、つまりしたたか酔っている。
しかも、すっぱだかで。
おかげで女どもは黄色い悲鳴を上げると、そんな雲太を指の隙間から見たり見ていなかったり。やいのやいのともう朝からとんでもない騒ぎだ。
「あっ、あなたと言う人は……」
ぴくぴくと、引きつる京三の頬の動きが止まらない。それはこめかみにまで伝わると、やがてぼむ、と脳天から何かを噴き出させた。
「またですかぁっ!」
そう、この雲太という男。酔うと脱ぎたがる癖があった。ただそれだけで別段、悪さをするわけではないが、後々兄弟そろって後ろ指をさされることになる。それもこれも幾度か繰り返した後ならば、もうたくさんです、叫んで京三は土座へ飛び上がっていた。
「この恥知らずの、
骨と骨とのぶつかる音は、そのとき辺りに鈍く響く。
果たして京三の一撃が雲太の酔いを冷ましたところで、この一部始終を目覚めた雲太が覚えていることはない。治らぬ悪癖の、それがワケというわけだった。
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