第10話 たまごの巻

 風が肌を撫でてゆく。のきしみも心地よかった。

 すべては長の言うとおりだ。離れた陸はもう見えず、今や四方はおだやかな海に囲まれると、船は遥か大日本豊秋津洲オオヤマトトヨアキヅシマを目指していた。

 初めて乗る船に和二は、先ほどからずっと舳先の下をのぞき込んでいる。様子は今にも背負った荷の重みにドボン、と海へ落ちてしまいそうで、京三は気が気でならず注意するが、それを大いに笑ったのは銅 色 アカガネイロに日焼けした二人の漕ぎ手たちだった。落ちたとしても自分らが引き上げてやるから大丈夫だ。そろって京三をたしなめると、むしろ五人も乗ればうろつく場所もない船の中、気をもんで腰を浮かせる京三こそ船から落ちぬように、と注意してみせる。

 確かに、ここは慣れた者の言うことを聞くべきだろう。忠告にしぶしぶ船へ腰をおろして京三は、お天道様を見上げた。オノコロ島を出たのが昼になろうかという頃であったなら、腹具合もちょうどと、背の荷をほどいて中から笹の葉の包みを取り出すことにする。

 さて何を隠そうこの包みは船へ乗るさい長の女房が腹の足しに、と持たせてくれたものである。そのずっしり重い包みを解けば日の光にぴかっ、と輝きムスビは三つ、顔をのぞかせた。いずれにもにしっかり手を合わせて、かぶりつき、すぐにもなるほど、とうなずき返す。どうやら塩は建御雷の残していったものを使ったらしい。加減がこのうえなく良く、食むほどに米の甘味は増して、また京三は笑みを深くしてゆくのだった。

「お前、よくこんなところで物が食えるな」

 と声は後ろから聞こえてくる。雲太だ。続けさま、うえ、とえづく声もまた上がっていた。その通りと酔いも醒めぬまま船に乗り込んだ雲太は、酒に酔ったうえ船にまで酔うと陸を離れてからというもの和二同様、海を見下ろしたままでいたのである。

「雲太が自業自得なだけなのです」

 食事中なら見たいと思えず、京三は前だけを睨んでまたムスビへかぶりつく。

「まさか今日、船が出るとは思えん……」

 言い切らぬうちに、うえ、とえづく雲太へつくづく目を閉じもした。

「ああ、せっかくのムスビが不味くなる」

「はは、まだ海は半分ほど残っておりますよって、これはもう諦めんとなりませんな」

 ここでも笑い声を上げたのは、休まず櫓を動かす漕ぎ手だろう。

「まったく、面倒のかかる兄でございます」

「なんのなんの。揺れて気分が悪うなるのを見るのも、これまた愉快なことですわ」

「お、おぬし、他人事だと」

 雲太は青い顔を持ち上げ、なおさら愉快と笑い飛ばした漕ぎ手はそこで口ぶりを改めた。

「しかし、秋津洲に一体どんなご用がおありで」

「はい。とある御仁へ会いに。あいだにミタマを詣でることも考えております」

 ひとつめのムスビを食べ終えて指についた塩をなめ、話して京三は次を取る。ようやく納得したらしい。和二も舳先に背を預けると、荷から包みを取り出し解き始めていた。

「さようですか。その御仁は浜におられる方なのでしょうか」

「いえ、出雲に」

「いずも?」

「わぁ、御雷ミカヅチの塩だ」

 尋ねて返す漕ぎ手の声に、ムスビへかぶりついた和二の声が重なる。様子へ微笑みかけ、京三は漕ぎ手へと向きなおった。

「大国主命がおられます。ご存じでいらっしゃいますか」

「さてはて。わしらはオノコロの者ですからよって、島のことはよく存じ上げませんが……」

 だが漕ぎ手の返事はどうも冴えない。するとそれはうずくまる雲太の傍らだ。場所を奪い合うように櫓の根元に座り込んで休んでいたいたもう一人の漕ぎ手が、初めて口を開いていた。

「島では十分に気をつけなさるがよい。奥へ行くなら、なおさらじゃ」

 言いようは訳ありで、二つ目のムスビを口へ入れかけていた京三の手も止まる。

「それはどういう」

「あまりいい噂を聞かんと言うだけじゃ。なに、わしらはオノコロから島へ人を運べば島からオノコロへも人を入れる。だが島から来た者はどうも顔色が冴えん。食うもんがないと言えば戦がはじまっとるとも聞かされた。浜にもこのあいだシシが出おった。山におる猪が、じゃ。歯で突かれてこいつの甥っ子は怪我までした」

 こいつの、と言ったところでアゴは振られ、櫓を操るもう一人の漕ぎ手がいかにも忌まわしい事を思い出した、といわんばかりの顔をする。

「村で奇妙な病が流行ったのも、秋津洲からタタリが渡ってきたせいに違いない。よからぬ場所じゃ」

 座る漕ぎ手の口ぶりは、ただただ苦い。

「そういうわけで着いてから申し上げようと考えておったのですが」

 後を継いで櫓を操る漕ぎ手が切り出していた。

「わしらは島へ上がりませんよって、途中からは歩いてもらうようお願いしたいのです。なに、浜は遠浅でして、じゅうぶん沖からも歩いてゆけますよって難儀することはありません」

 思わず京三らは顔を見合わせる。その時、影は水面を走っていた。いち早く気づいた雲太が合わせていた目を海へと逸らす。たちまち声を上げていた。

「おお、これはまた大きな亀が泳いでおるぞ」

 なるほど甲羅は和二なら乗せても動き出しそうなほどもある。船と並んで飛ぶように、大日本豊秋津洲を目指し泳いでいた。

「ああ、そういえば亀も子を産む季節でございますな」

 様子に漕ぎ手らも詰めていた眉間を開き眺めて教える。うちにも亀は船を追い越し、どんどん小さくなっていった。和二が手を振り別れを告げて、見届けた京三も漕ぎ手らへ目を向けなおす。

「ともあれ、良い話をうかがいました。じゅうぶん気を付けることにいたします。ですね、雲太」

 だが亀を見送る雲太の返事は、酔いとは別にどこか冴えないところがあった。

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