最終話 恋路の果てに 6

 イゼルマが持ち込んだ龍血核は、三次元世界から消滅した。

 この世界に残ると決めていたオルマティオはともかく、帰る術を失ったデュオラとイゼルマもそのまま春嵐丸や黒夜叉の体に同居することになった。

 清香は呆れつつ、紅薔薇は笑顔で受け入れたのは、言うまでもない。

 龍血核にまつわる事件はこれで全て終わった。

 清香たちには日常が戻り、デュオラたちには新しい世界が始まった。


     *


 季節は巡りゆく。


 三人の念願でさえあった市民プールで一日遊び倒す約束は、夏休み最後の日曜日に決行された。紅薔薇が同じ轍を踏まなかったことにふたりは胸をなで下ろし、本人はそのことには少々不満そうだった。

 龍血核の一件以来、清香は変わった。

 いつもだらだらしていた性分が、多少ではあるが矯正され、学校行事の参加も不満を言うことは無かったし、あれほど恥ずかしがっていた紅薔薇とのウワサも、問われれば肯定するようになっていた。

 なにより、よく笑うようになった。変わってからも本人は断固として否定するが、彼女は美人であり、男女問わず隠れファンが多いのは前述したが、夏休みが明けてからその数は鰻登りに上昇した。


 そんな中行われた文化祭の出し物は演劇では、本人が承諾した覚えの無いまま決定した主役をきちんと務め、相手役の紅薔薇と共に観劇に訪れた女子生徒が何人も気絶した、と伝説まで作ったほど。

 龍血核のせいよ、と清香は笑うが、紅薔薇は、「ごくたまに見られる笑顔は、わたくしたちだけの特権でしたのに」と少々不満そうだった。


 修学旅行は京都、奈良、神戸の三都市巡り。紅葉に染まる古都は想像以上に美しく、港町の幻想的な夜景に三人は興奮しきりだった。

 この旅で初めて紅薔薇と手を繋いで歩いたことを、清香は一生忘れないと思う。


 大学受験は紅薔薇の個人授業で乗り切った。

 愛弓と同じ、県内の国公立大学だ。聞くとまた一緒になりそうだから、と志望校はお互い内緒にしていたのに。ふたりの強い縁に笑うしかなかった。

 その必要の無い紅薔薇は、ふたりの合格発表を待って彼女本来の世界へと戻っていった。

 それまでの働きが本家から認められて、紅薔薇はドイツにあるレイム本社へ異動することになったのだ。

『卒業式までは待ってもらえることになりました』

 年賀状に記された手書きの一文に清香は、丸一日何も喉を通らなかった。

 覚悟はしていたのに。

 自分たちの繋がりは拳術と学校だけ。

 卒業すればそんなものは霧のように消えてしまうものだから。

 三学期が始まって、だからこそ思い残すことの無いように清香は紅薔薇の側を離れなかった。

 期末試験を過去最高の成績で終えると、あっという間に一月が終わった。自由登校となった二月になると紅薔薇は日本を離れ、一日も帰ってくることは無かった。日に一度送られてくる電子メールを清香は心の支えにし、卒業してからのことを延々考えていた。


 三月。

 穏やかな青空と桜舞い散る中で行われた卒業式に紅薔薇は式の最初から出席し、会場の全員を笑いと涙に包む見事な答辞で締めくくった。

 早苗からの最後のホームルームも終わり、靴を履き替え、桜の立ち並ぶ正門広場の前ではどことなく別れを惜しむ生徒たちと、談笑する母親たちの姿がそこかしこにあった。

 それに加え、あれだけふたりの仲を公言しているにもかかわらず、制服のボタンを狙う下級生たちがそこかしこから小さなハサミを片手に清香を狙っている。


 医師の仕事が忙しい清香の母も、久しぶりに会う愛弓の母と談笑し、時折浮かぶ涙をハンカチで拭っていた。

 意外なことに紅薔薇の両親は父母とも式に参加し、いまは愛弓の母によって背中をばしばし叩かれている。世界的企業の社長も、世界的女優も、如才ない藤枝の人間の前ではいち父兄にすぎない。


「ああもう、ママってば初対面なのに。ごめんね、紅ちゃん」


 愛弓を真ん中にして三人は、親たちの交流を眺めていた。

 さすがに身内の恥はイヤなのか、珍しく愛弓が顔を赤らめながら謝るが、当の紅薔薇は穏やかに微笑んでいた。


「いいえ。構いません。父も母も喜んでいるようですし」

「そう? ありがと」


 穏やかなふたりとは対照的に、清香の表情は重い。


「どしたの清ちゃん。さっきからずっと黙って。ひょっとして泣くのがまんしてる? だったらほらほら、紅ちゃんの胸でさ、たっぷりとどうぞ」


 すすす、と移動してふたりを向かい合わせる愛弓。


「そういうんじゃ、ないんだけどさ、紅薔薇」


 清香は滅多に彼女を名前で呼ばない。

 だから紅薔薇は名前で呼ばれると緊張して、必ずと言っていいほど声が裏返る。


「は、はいっ」


 今回も裏返った。

 こんな日にまで、と清香は苦笑するしかなかった。


「こっちにはいつ帰ってこれるの?」

「……分かりません。お父様が認めてくださらない限り、わたくしは鳥かごの中です」

「じゃあさ、四年間は帰ってこないで」


 驚いたのは愛弓だ。清香のことだから絶対、別れる寂しさで拗ねると覚悟していたのに。


「なに言ってるの清ちゃん」


 割って入ろうとした愛弓を、紅薔薇は片手と笑顔で制する。


「わかりました。ですが、なぜ四年なのです?」

「大学行ってる間にさ、あたしは道場の借金返す。で、身軽になったら、えーっと、うん。けっこんしよう」

「はい。……はい?」

「聞こえなかった? けっこんしよう、って言ったの」

「い、いえ、そうではなくて、借金のことです」

「あのさあ、気付いてないとか思ってたの? どう考えても都合良すぎるじゃない。あたしが駄々こねたら急に肩代わりしてくれるひとが出てくるとかさ。どう考えてもあんたじゃない」


 うつむく紅薔薇。


「ですが、肩代わりしたのは三百万円です。そうそう簡単に……」


 補足すれば、道場にかかっていた借金の総額が三百万ではない。その八割を紅薔薇は負担し、残りを無利子無担保で貸す。その代わり栗原流を存続させるのを条件としたのは、引いては清香を拳術の道から外れさせないための紅薔薇の策略だった。


「そんなの、バイトして、月に六、七万円貯金しておけば四年で満額よ」


 高校生活の中でアルバイトをやらなかったのは、第一条件の道場の存続を優先していたから、と借金の総額を知らなかったからだ。昨日母から額を訊いた時、存外少ないことに驚いたぐらいだ。


「あたしもどこかで、あんたがもう一回道場に来てくれるのを期待してたのかもね」


 にひひ、と照れくさそうに笑う。


「で、どうなの? 帰ってきてくれるの?」

「いいえ、約束できません」

「なんでよ。あたしとけっこんしたく無いって言うの?」

「端的に言えばそうです」


 声も表情も冷然と変わっていた。


「わたくしの棲む場所は、おふたりにはとてもお見せできない闇も広がっています」


 どこか怒りさえ感じる紅薔薇の態度に逃げ出したくなったが、ぐっと踏みとどまる。


「あたしは、それでも」

「あちら側のわたくしを見たら、きっと百年の恋も醒めてしまいます。それでも、わたくしを伴侶として愛してくださいますか?」


 即答、できなかった。

 愛の力があればどんな困難でも乗り越えられる、とかの青臭い言葉はきっと、物語の中だから言えるのだと思う。

 見つめるあいつの瞳の奥には、普段なら絶対に見せない闇が広がっている。

 勝手に涙が溢れてくる。

 絶対に同情の涙じゃない。こいつは望んで自分の世界にいるのだ。ごくまれにする仕事に関する話題の時には表情も声色も弾んでいるのだから。

 そんな彼女が言う闇が一体どれほどのものか、清香には想像もできないし、こうやって問いかけるということは、その闇の半分すら支える器量が無いと思われているからで。


「どれだけがんばれば、あんたに追いつけるのよ……っ」


 こいつにとって学校は、三人でいることは何よりの休息なのだろう。

 容姿も、学力も、拳術も何一つ互角なモノを持っていない自分を、こいつは止まり木として選んでくれた。

 思いに応えたいのに、なんて言えばいいか分からない。

 この涙は、悔しさの結晶だ。


「泣かないでください。なにも形式にばかりこだわる必要なんて無いのです」

「こだわってなんかないし、あんたが、あんたは……っ」


 何を言えばいいのだろう。

 いや、どんな言葉もこいつの背負っている闇の前では無力だ。

 だから。

 腕を取って背伸びをして、顔をあいつへと寄せ、そして―


「あたしは、あんたになら何されても受け止めるから、あたしの側にいて」


 唇が触れ合い、そして離れた。

 なにやってるんだろう、と我に返る。周囲に人集りが出来ていることに驚いたのもつかの間、紅薔薇が不気味な笑い声をあげた。


「うふふふふふふふふ。してやったりですわ」

「え」

「まだまだ甘いですわね、清香さん。これで完全にわたくしは清香さんのもの。もう恐いもの無しですわ。さ、さっそく式の日取りを決めなくては。お父様、お母様、いつが良いでしょうか」


 人集りの中にいる両親へ満面の笑顔で問いかける紅薔薇。その表情に一片の曇りも闇も見えなくなった途端、清香の涙は引っ込み、代わりに怒りがこみ上げてくる。


「な、な、なによそれ! 闇とか全部お芝居だったの?!」

「いいえ。全て本心ですわ。清香さんにどれだけの覚悟があるか、確かめておきたかったものですから」

「余計むかつく! 心底むかつく! どっちにしろあんたの手の平の上で踊らされてただけじゃない!」

「そうですが、清香さんから誓いの口づけを求めるにはこの方法しか無かったですから」

「……ばかっ!」


 笑い合う紅薔薇と愛弓。

 地団駄を踏む清香の脇を白い鳥が通り過ぎ、くるりと旋回して笑い合う愛弓の頭に停まった。


『話はまとまったか?』


 人が大勢いるので小声で話しかける。口ぶりから退屈していたのが伝わってきた。


「なによ、あんたまで」

『深い意味はない』

「オルちゃんも卒業式、保護者席で見てれば良かったのに」

『そうもいかんだろう。この身体では』

「照れなくてもいいのに」


 どういう意味だそれは、と呆れるオルマティオを頭に乗せたまま、愛弓はにゃふふ~と笑いながら清香と紅薔薇の手を取る。


「ほらほら。指輪はなくても握手ならできるでしょ」強引に握手をさせ、自分の手も重ねる。「確か同性となら重婚もおっけーだったよね」意味深に微笑む。

「ばか。あんたはオルマティオがいるでしょ」

『私に性欲は無い』

「そだよー。わたしたちはプラトニックな関係なんだから」


 にゃふふ、と笑う愛弓に、紅薔薇は微笑みかけ、


「だめです。こればかりは譲れませんわ」


 しかし目は笑っていないので愛弓は潔く諦めた。元々冗談だったのは言うまでもない。


「ちぇー。でもさ、子ども出来たら一番に報告してね」

「はい。もちろんです」

「でも早くても子どもが生まれるのは五年後か。どんな風になるんだろうね、あたしたち」

「わたくしには、幸せしか待っていないと信じています」

「それ、プレッシャーだから」

「期待してますわ。だ、ん、な、さ、ま」


 耳元で囁かれて、清香の全身が一瞬でゆであがった。


「ば、ば、ばか! まだ早い!」


 叱りつけても紅薔薇は穏やかに微笑むだけ。もう、と荒い鼻息で拳を収め、


「母さん、あたしたち先に帰るわね」


 はーい、と返事があった。あの調子ではまだまだしゃべり続けるだろう。

 さあ帰ろう、と正門を見れば、横付けされた黒のリムジンと、居並ぶ黒服たち。彼らの前には黒夜叉と彼の背に乗る春嵐丸の姿がある。


「みんな勢揃いだね~」

「ええ」

「ねえ、写真、撮ろっか」


 どこか照れくさそうに提案すると、愛弓は満面の笑顔で応える。


「お、いいこと言うね、清ちゃん」

「まあね。考えたら三人の写真って一枚も無いし」

「清香さんがいつも嫌がってましたから」

「だって恥ずかしいんだもん。特に、あんたと一緒だと」


 あら、と微笑む紅薔薇を尻目に駆け出して春嵐丸を抱き上げる。にゃぁん、と嬉しそうに啼く彼に頬ずりし、黒夜叉の頭を撫でると、


『卒業おめでとう、サヤカ』

『僕からも、おめでとう』


 デュオラたちがこっそり祝福してくれた。


「うん。……ありがと」


 このふたりとも長い付き合いになるのだろう。

 黒服のふたりに携帯電話を手渡してふたりを振り返る。


「ほら、ふたりとも!」

「もう、せっかちさんだねえ」

「はーい。いま参りますわ」


 三匹と三人も一緒に校門の前に並んで立つ。中心に立つ清香は右隣の紅薔薇の手をそっと握り、囁く。


「幸せに、なろうね」


 ではいきまーす、と黒服のかけ声も、清香にはどこか上の空だ。


「ご心配なさらずに。この瞬間もわたくしは幸せでいっぱいです」

「うん。ならいい」


 フラッシュが瞬く。


「あたしも、そうだから」


 その光は希望への道しるべに見えた。

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ひねくれ猫の変愛と次元の迷い子たち 月川 ふ黒ウ @kaerumk3

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