第36話 恋路の果てに 5

 時間は少し戻る。


『むおおっ!』


 清香の体内へ「意志」の光が進入すると同時に変身は解除され、オルマティオははじき飛ばされるように清香から離れた。


『サヤカ!』

「あ、名前覚えてくれたんだ。ありがと」


 軽口を叩いてみせるが、その表情には脂汗が滲み、手足を拘束されていなければいまにも倒れ込んでしまいそうだった。


「これで、あんただけは逃げられる……から。早く、行って」

『そんなことが出来るか』


 憤りを滲ませつつ清香の右手まで移動し、爪と嘴を使って絡みつく液体をはがし始める。


「優しいね。あたしも惚れそうだよ」

『ああそうだ。なんでもいいから話し続けろ。お前がお前の自我を保つにはそれしかない』


 清香はいま、「意志」の光に精神を肉体を乗っ取られようとしている。かつてデュオラが言っていた、「私があんたに憑依したら、互いの人格がぐちゃぐちゃに混ざる」との説明を、体験しているのだ。


『無茶しかしないのか、この次元の住人は』

「少なくても、あたしたちはそうね」

『進化、あるいは進歩は限界を超えようとする力が原動力となる。私がお前たちに拾われたのは必然だったのだろうな』

「そういう話、よく分からないってば」

『いずれ分かる』

「なによ偉そうに。自我が出来て、まだ半月も経ってないくせに」


 その意気だ、と笑みを零す。彼にも余裕が出てきたころ、四肢の拘束は全て解けた。


「ねえ、あんたが食べた龍血核ってもう使えないの?」

『使える。次元の穴を開くほどの量は残っていないがな』


 なぜか照れくさそうに笑う清香。


『やはりそのつもりだったか』エサを与える親鳥のように口から龍血核を吐き出し、嘴で咥えて清香の前に差し出す。

「きたないなぁ」

『文句を言うならまた飲み込むぞ』

「ごめんごめん」


 受け取り、小石ほどの龍血核をじっと見つめる。その間にも脂汗は彼女の全身を濡らし、顔色はどんどん青ざめていく。もう時間はほとんど残っていない。

 意を決して清香は龍血核を口元へ運び、そのまま、がりっ、とかじり付いた。

 あの時の「彼女」の言葉が脳裏を過ぎる。


「あたしは女だから。両手以外にも受け止められる場所はあるから」


 清香の全身が赤く強く輝く。

 変身するときに彼女たちを包む朱い光ではなく、もっと力強い、根源的な生命の輝きそのものと呼べる神々しい光だった。


『心の力が龍血核に呼応したか』


 やがて光は下腹部へと収束していき、小指の爪ほどの大きさで止まった。それと同時に全身に浮かんでいた脂汗も止まり、顔色も元に戻った。「意志」の光を取り込んだ龍血核で固め、それ以上の拡散を防いだのだ。


『これも、心の力か』

「……よし、まだ、あたし……っ」


 そう言って清香は意識を集中させる。巨人の身体を自分のものだと強くイメージする。


「はぁっ!」


 両の掌を下に向ける。巨人も遅れてそれに追従する。よし、と呟いて清香は、その下にある空間に指を突き立て、こじ開けるように手を動かし始める。


『巨人を使ってもう一度、次元の扉を開く気か。だが……』

「本当の本当にこの巨人を帰すことが出来ないのか、少しでも可能性があるなら、全部試しておきたいの」

『自分の命を削ってまで、か。そこまでする理由は何だ? ベニバラのためか?』

「……そうよ。こんなばかでかいのが外にいたら、あいつ本当に過労で倒れるから」

『それ以上の強い想いを感じるがな』

「うるさい。お子さまは黙ってて」


 頬の赤が増したことにオルマティオは薄く笑う。


『どちらにしても外に出た方がいい。お前まで次元の穴に落ちたらアユミに会わせる顔が無い』


 ん、と頷いて巨人の右手を操って胸の中へ突き立て、そのままずぶずぶと深く沈み込ませる。

ふたりの前に巨大な指が迫る。


「ほら、あんたも」


 腕の中にやってきたオルマティオを抱きしめると同時に、巨人の手で自分たちを掴む。そして外へと一気に引きずり出し、ゆっくりと巨人の背中に乗せた。

 外はもうぐるりと土壁が囲んでいた。だが上を見ても針の先ほどの光があるだけ。大穴へ落としてくれた紅薔薇たちに感謝しつつ、自分の果たすべき役割へ戻る。


「……ふー……っ」


 荒くなるばかりの呼吸をどうにか整えて右手を下に向け、次元の穴をこじ開ける作業を再開する。すぐに轟音と共に空間が裂け、その最奥に漆黒の世界が見えた。


「あ、ちょっと身体掴んでてくれる?」


 分かった、と清香の肩を脚で掴み、巨人の背中から浮かせる。

 これでいい。あとは巨人の身体が落下していくのを見守るだけ。子宮に留めた「意志」は、悪さをしないならずっとこのままにしておいてもいい。


『だめよ、そんなの』


 すぐ耳元で聞こえた声は、確認するまでもなく「彼女」のものだった。


『ヒトの器にそんなもの入れてたら、三日と経たずに乗っ取られちゃうわよ』


 足場も翼も無いのに、ふたりの前に浮かんでいることに対して、清香はしかし少しも驚かなかった。この人ならそれぐらい平然とやってのけるだろうから。


「あたしが、あたしのやれる最善を尽くしたの。誰にも文句は言わせないわ」

『それは見てたから、分かってる。でもね、あなたがそこまでしなきゃいけないほど、この赤いのは脅威じゃないし、そもそもヒトが「意志」と融合するなんて、まだまだ早すぎるわ』


 だからね、と指を鳴らすと、巨人の頭部から腰の辺りまで沈んでいた次元の穴が一瞬で塞がり、閉め出された下半身はそのまま地下へと落下していった。


「なに、するのよ……っ」

『ほら、もう侵蝕されてるじゃない。右手見てごらんなさい』


 言われて右手を見れば、肌は赤く染まり、硬質化している。全身から血の気が、


『気をしっかり持て、サヤカ!』


 オルマティオが叫んでくれなかったら気を失っていた。こうなることは予想していたのに。


『ほらね。あなたでもそうなっちゃうでしょ? だから、私が引き受けてあげるって言ってるの。残った赤いのも含めて』

「それはイヤだって言ったでしょ」

『だめよ。ヒトの限界を知りなさい。まあ、この赤いのに暴力が意思疎通の手段じゃない、ってことを教えてくれたのは、良かったわ。あのままだったら、あなた達以上にとんでもない戦闘民族が生まれるところだったもの。褒めてあげるわ』


 もう一度指を鳴らすと清香の下腹部が赤く発光し、徐々に強くなりながら小指の先ほどの大きさとなって体外へと出てきた。


「それを、どうするつもり」


 呼吸はまだ荒いが、表情から苦悶の色は抜けた。同時に右手の赤も消えていた。


『悪いようにはしないわ。だから安心して』指を鳴らす。『眠ってなさい。もうじきお友達が迎えに来るから』


 妖しく微笑む「彼女」に見つめられ、清香はなぜか心の底から安心してしまった。それと同時に全身を疲労と睡魔が襲いかかり、一気に眠りに落ちてしまった。


『お、おい?!』


 慌てるのはオルマティオだ。急に脱力されて負荷が一気にかかり、バランスを崩してしまう。

 そんなオルマティオに微笑みかけながら、「彼女」は彼に口づけをする。


『あなたもはるばるご苦労様。偶然とは言っても、まさか同類に会えるなんてね』


 その由来を確かめようとするオルマティオだが、口づけされた瞬間まぶたが重くなり、足から全身から力が抜け、清香のからだがずるりと落ちてしまう。


『お前も……そう、なのか……?』

『どうかしらね。とりあえず、お疲れさま』


 ふたりの身体を抱き留める「彼女」の耳には、いつの間にか赤い石が輝いていた。

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