第34話 恋路の果てに 3

「……ん……」


 薄く開けた目に入ってきたのは、リンゴの皮を剥く母の横顔だった。


「おはよ。よく眠れた?」


 え、なんで、と起きあがって周囲を見回す。知らない部屋。そよそよと風が吹き込む窓。鼻につく消毒液のにおい。腕に感じる小さな痛みを辿れば、天井から吊された薄い黄色の点滴パックに繋がっていた。


「病院?」

「そう。食べる?」


 差し出されたリンゴは蜜をたっぷり含んでいて美味しそうだった。


「う、うん。ありがと」


 しゃり、とリンゴをかじる。甘い。空腹と疲労に満ちたからだに心地よく染み込んでいった。

 たっぷりと味わいながら、ごくん、と飲み込むのを待って母が口を開いた。


「あんまり、心配させないで」


 ため息混じりに、呟くような声色。よく見れば頬には涙の跡が。どんなに忙しいときでも洗顔と肌の手入れは欠かさないのに、と湧き上がった不思議は、すぐに罪悪感で埋め尽くされた。


「……ごめんなさい」


 母は、ん、と頷いた。それでこの話題は終わりにした。


 愛弓はよく母と清香は似ていると言うが、清香自身はそう感じない。似ている度合いで言えば愛弓と彼女のお母さんの方が強いと思う。

 紅薔薇のお母さんはどんなひとなんだろう、と思いを巡らせつつリンゴをかじる。


「先生が言うには、もう二、三日様子見るって」

「あたし、どれぐらい寝てたの?」

「丸一日。愛弓ちゃんがお見舞いに来てくれてたから、後でお礼言うのよ」

「うん。お見舞いに来たのって、愛弓だけ?」

「あたしが居た時はそうね。ああそうだ。愛弓ちゃんから手紙預かってるのよ」


 ジーンズのポケットから、仔犬のイラストが散りばめられた封筒を取り出して差し出す。


「ありがと」


 ふわ、と香るのはいつかのハンカチと同じオレンジの香りだ。

 やばい。あいつの事を思い出したら急に涙がこみ上げてきた。

 そんな姿は母にも見られたくなかった。急いで封筒を開けて中身を取り出す。

 愛弓らしくシンプルに、


『お疲れさま。来れたのはわたしだけだけど、紅ちゃんはお仕事で忙しいんだから、拗ねちゃだめだよ。退院したらプール行こうね』


 と記されていた。


 ―お見通し、か。かなわないな。


「なによ、変な笑い方して」

「なんでもない」


 そ、と笑いながらリンゴを差し出す。ありがと、と受け取ってもう一度窓の外を見る。


「そっか。まだ夏休みなんだっけ」

「なに言ってるの。あんたが一年を早く感じるのは、まだ早いわよ」


 そだね、と苦笑して窓から外を眺める。あれほど暑く感じていた日差しも、かなり緩んだように思う。

 いまなら、あいつの全てを受け入れられると思う。


「ねえ母さん」

「なに?」

「今度、紹介したいひとがいるの」


 娘の声色に何かを感じ取った母は、ふうん、と笑う。


「あんたにもやっとそういうひとが出来たのね。母さん嬉しいわ」

「え、ちょ、そういうのじゃないって! ただのともだちよ!」

「最初はみんなそう言うのよ」


 鼻歌交じりに、今度はお見舞いのメロンにナイフを入れた。


「さ、お祝いよ。このメロン美味しそうだから、いつ食べよう、って狙ってたんだから」

「もう。娘の話ぐらい聞きなさいよ」


 本当のことを知ったら母はどう思うだろう。

 気がかりはそれだけだ。

 ほらあんたも、と差し出されたメロンを手にとって、スプーンが見当たらなかったのでそのままかじり付く。


「うわ。なにこのメロン。一階の売店のじゃない、高級な味がするわ。困るわね、こういうお見舞いは。どうやってお返しすればいいのよ……」


 送り主は容易に想像できた。値段を除けば―こんなに普通のお見舞いを送れるようになったあいつの成長が、少し嬉しかった。


「ねえ清香、あんたいつの間にこんなの贈ってもらえるような人と知り合いになったのよ」


 と布団越しに足をばしばし叩かれて、清香はくすぐったそうに笑った。


「ははーん。さてはその人ね、あんたのいいひとって」

「ち、違うってば! すぐにそうやってカップル作りたがるの、おばさんの証拠よ!」


 なによもう、と唇を尖らせる姿が、我が母ながらかわいい。

 メロンに舌鼓を打ちつつじゃれ合っていると、ふいにノックの音がそれを破った。


「失礼します。お見舞いしてもよろしいでしょうか」


 あいつの、声だった。

 どうぞ、と言った自分の声は、きっと震えていたと思う。

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