第28話 迷子の帰る道 1

「……え、もう?」


 耳鳴りがしそうなほどの静寂と、光と闇の二つだけで彩られた空間。からだのどこにも力が入れられなくて少し怖い。引力が無いせいですわ、と紅薔薇が囁いてくれた。

 そうだ地球、と視線を巡らせた先に、それはあった。

 すぐ近くに見えるのに、手を伸ばせば触れそうなのに、そんなはずはなくて。

 こんな時に上手いことが言えずにただ、宝石みたい、と思ってしまった自分が恥ずかしくて。


「わー、すごいや。地球って結構まぶしいんだね」

「ええ。昼の側に出ると星が見えなくて少々寂しいんですの」

「紅ちゃん来たことあるの?」

「これで五度目です。宇宙はいつ来ても違う感動がありますが、こんなに遠くでの宇宙遊泳は初めてですわ」


 このふたりにかかればちょっとした観光なのだろう。


「あんたたちは、もー……」


 肝が据わっているというか、感動が薄いというか。額に指を当てて状況を把握する。


「ここなら安全なの?」

「L3宙域、つまり地球を中心にして月と軸対称の座標です。本当はもう少し遠い方が良いのですが、こちら側はデブリも少なく、重力バランスも考慮してここにしましたわ」

『思った以上に静かだな。これなら当面問題は無いだろう』


 専門家と本人が妥協したのなら、素人の自分が口を出す隙間は無い。


「じゃあ帰るわよ」

「えー。もうちょっと遊んでいこうよー」

「そうですわね。せっかく宇宙へ出たのですから」


 すっかり観光気分のふたりだが、清香はそんな気分にはなれない。


「ごめん。でもこのふわふわした感じ、ちょっと恐いから」


 清香がこんなにはっきりと恐怖を口にするなんて、少なくても愛弓は知らない。未練もあったが気持ちをすぐに切り替えた。


「うん。分かった」

「あの。もしよろしかったら、後日わたくしのシャトルでお連れしますわ。事後処理などもありますから、冬休み以降になると思いますけれど」


 思いがけない提案に、愛弓にぱぁっと笑顔が咲いた。


「ほんと?! ありがとーっ!」


 そんなものまで持ってるなんて、と呆れる清香の手を、翼を広げた愛弓が優しく引っ張る。


「それじゃあ、行くよ~」


 もう一度三人で手を繋ぎ、そろそろと赤い巨人から離れていく。距離を十分に取って三人は精神を集中。来た時と同じ要領で地球へ戻る準備を始める。


『いかん!』


 オルマティオの警告は、清香に三人を包む赤い膜を硬化させる程度には役に立った。次の瞬間、突如動き出した赤い巨人が片手で赤い膜を掴んでいた。


『みんな気をつけて! こいつ、地球へ飛ぶ気よ!』

「気をつけろって言われても!」


 もう遅かった。たわめられたバネが弾けるように、愛弓がブレーキをかけるよりも早く三人を包む朱い光と巨人は地球へと突き進んでいった。


    *


 頬を髪を撫でる風に目を開ければそこは、雲を遙か眼下に望む天空だった。


「やだ、ちょっと、ここ空じゃない!」


 三人と巨人は落下していた。愛弓と手を繋いでいなければ地面へ一直線だっただろう。


「ええ。どうやら、ブレーキがぎりぎりで働いたようですわね。イゼルマさん、高度は分かりますか?」

『ええと、高度は約十五キロ。成層圏だね』

「だからなんであんたたちは冷静なのよ!」


 清香の怒声も、紅薔薇はたおやかな笑みでさらりと流す。


「まあまあ。取りあえず巨人の背中に乗るね」


 手を繋いだまま愛弓は翼を巧みに操って風に乗り、うつぶせに落下する巨人の背中に降り立った。


「ったくもう、あんたたちはっ」


 怒り半分悔しさ半分で睨みつける清香。

 淑やかに佇む紅薔薇はしかし困り果てたように口を開く。


「さて、どうしましょうか」


 にゃふふ~、と楽しそうな愛弓は、赤い巨人の肩口から下をのぞき込んで地面までの距離を目で測った。


「そだよねー。地面までまだ結構距離あるけど、早くどうにかしないと。清ちゃんいいアイデアない?」

「え、あ、うん」


 地下で清香は「彼女」に策がある、と言った。それは出任せでも宇宙へ捨てることでもない。


「オルマティオ。今度はあんたがナビをやって。次元の壁を開いてあんたがいた世界にこの巨人を戻す」

『無理だ。例え次元の壁を開いたとしても、生命体は高い次元へ向かうことは不可能だ』

「どういう意味よ。あんただって生きてるんだから、もとの世界に帰れるんじゃないの?」

『不可能だ。物質に限らず、あらゆる現象は高位から低位へ推移することしか出来ない。坂道の頂上からボールを落とせば重力に引かれるまま転がっていくが、ボールだけがもう一度頂点に戻ることは出来ないのと同じだ』

「でも、誰かが投げるとか運ぶとかすれば……」

『坂道の途中には分厚く高い壁が点在している。落下する場合は小さな隙間を通ればいいが、坂の角度は急で壁の突破は困難だ』

「龍血核の力を使っても?」

『確かに可能性は、上がるかも知れん。だが、十一次元までたどり着けるかどうかは未知数だな』


 しかし、清香の決意は揺るがない。


「それは、あんたひとりだけの力だからでしょ。さっきは三人で宇宙へいけた。今度は六人と二匹いる。これだけの思いを込めて龍血核を使えば、絶対なんだってできる」

「あら、珍しく力強いお言葉ですのね」

「ほんとだ。いっつも寝起きみたいな清ちゃんらしくないね」


 にゃふふ、と含み笑いするふたりを睨み、ちらりと下を見る。間もなく雲に入る。その下には今までを過ごした、しかしいまは瓦礫の山となった野穂の街が広がり、さらにぽっかりと開いた大穴から地下に行けば―


 ―だから焦ってるんだ。やる気が出たんじゃない。


 そう思い至った時、小さな疑問が湧いた。「彼女」は食事、と言った。春嵐丸が狩りをしていることは容認しているのに、「彼女」が赤い巨人を食べることは阻止しようとしている。

 答えを探そうと、紅薔薇と、愛弓を、見る。ああ、そうか。

 単純にきらいなんだ。ものすごく。わがままで無茶苦茶なあの人が、この世界の誰よりも。

 自分の、女としてのイヤな面を見せつけられているようで。

 だからこれは嫌がらせなのだ。

 あらゆる正義も義憤も、清香には無い。

 自分の行動理由に納得がいった清香は清々しい気持ちで手を差し出す。龍血核を掌に乗せて。


『いいか。龍血核は次元因子の働きかけにより、内に蓄えた膨大なエネルギーを解放する。そのエネルギーで次元の壁を目張りしている次元因子を剥がしていけば、次元の壁は開ける』


 オルマティオの説明にうん、と頷く清香。


『坂道に点在する分厚い壁はそれで消えるが、問題は坂道をどう登るかだ。半端な速度で押し込めば、またこちらへ戻されたり、別の次元へ転がり落ちる可能性もある。それはお前の望まない結果だろう?』

「うん。やるなら一気に、思いっきりってことね」

『ああ。命が生命体として活動するにはこの次元が最も適している。それだけに生命体が高次元へ移動することは困難となる。いいな。ほんの僅かな加減や躊躇が大惨事を招くことを忘れるな』

「にゃふ。別れに涙は禁物。時には突き放すことも大事、ってことね」

『そうだ。アユミは心配なさそうだが、猫のお前は特に情が深そうだから、気をつけろ』

「あら。この短時間で清香さんの弱点を見抜くとは。さすがですわオルマティオさん」

「そそ。清ちゃんがいっつも怒ってるのって、優しいからだもんね」


 急に自分の心が剥き出しにされて、清香は顔を真っ赤にして怒鳴る。


「うるさいっ! あたしのことは関係ないでしょ!」


 このまま放って置いたらいけない、とデュオラが引率の先生のように口出しをする。


『ほらほら、いつまでもじゃれ合ってないでないで。ちゃっちゃっとやるわよ』


 怒鳴り足りない清香だが、やるべき事は忘れていない。あとで酷いからね、とふたりに釘を刺して、


「分かった。ふたりとも手を出して」


 さっきと同じく右手を愛弓と、左手を紅薔薇と繋ぐ。

 雲に入った。視界は思ったより悪くない。ちゃんと互いの顔が見えるし、赤い巨人もほぼ全身が見渡せる。


「せーのっ!」


 三人同時にかけ声を放つ。

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