第19話 「心」と「意思」と 3

「あ、さ、清ちゃん。お疲れ」


 うん、と頷いて、清香は愛弓の様子に眉根を寄せる。


「お待たせ、ってなに、どうしたの冷や汗かいたりして」紅薔薇に視線をやり、「……あんたはあんたで何泣いてるのよ」

「な、泣いてなど、いませんっ」

「どうせ愛弓に言い負かされたんでしょ」

「にゅぐっ」


 しゃくり上げるタイミングで舌を噛んだのか、紅薔薇の口から変な音が聞こえた。

 ぷっ、と吹き出して、小さく咳払いして清香は出来るだけ神妙な顔と声で言った。


「愛弓はいつも笑ってるけど、それはあたしより心が広いからよ。あたしにしか迷惑かけてないとか思ってるなら、大間違いだって分かった?」

「……龍の逆鱗に触れたかと思いました」

「ん。じゃあ、あんたの番よ」

「……なんと申し上げていいか、分かりません」

「なんでよ」

「安易な謝罪の涙や同意の言葉は、愛弓さんの求めることでは無いのだと思いますし、かと言って拒絶することもできません。ですから」


 はぁっ、とため息を吐いて清香。


「難しく考える必要なんか無いわよ。こういうときはただひとこと、「ごめんなさい」って言えばそれで済むの」


 苦笑しながら背中を押され、紅薔薇は小さくたたらを踏む。


「えっと、その、さ、清香さんに言われたから言うのではなくて、これはわたくしの本心です」


 うん、と微笑む愛弓。


「ご、ごめんなさいっ」


 ばっ、と頭を下げる紅薔薇。


「やーっと謝ってくれたね。そりゃあさ、社長さんは簡単に謝ったらいけないんだろうけどさ、わたしたちにも出来ないって言うのは、どうかと思うよ」

「は、はいっ!」


 にゃふふ、と笑って両腕を開いて、ぎゅっ、と抱きしめる。


「わたしもごめん。だから、これからもよろしく」

「いえ、わたくしこそ、こんなにも、至らないわたくしを傍において下さるおふたりに、どれだけ感謝しているか」


 腕を腰に当てて清香が呆れたように言う。


「大げさよ、あんた」

「ですけど……」

「いいって。言わなくても分かるし」


 それを耳ざとく聞きつけた愛弓が紅薔薇を解放して、にやり、と笑う。


「ふぅうん。清ちゃんと紅ちゃんはもうそんな深い関係になったんだ」


 またか、と清香は呆れた。

 登校日にあれだけ派手に怒り散らしておいて、今回も怒るのもばかばかしく思えたのでわざとらしく胸を張って、紅薔薇みたいに高飛車な雰囲気を出来るだけ出して、こう返した。


「そうよ。あたしとこいつはね、あたしとこいつは……」


 なんなんだろう。

 迷いはあるけれど、好意を抱いていることに間違いは無い。これからもずっと一緒にいたいと思う。

 肩の力を抜いて紅薔薇を見る。少し背が高いので目線を上げて、きれい、という単語以外思いつかない顔と目をじっと見る。

 その視線に何を感じたのかは分からないが、紅薔薇はほんの少しの寂しさを乗せて言った。


「親友ですわ」


 驚くことも、がっかりすることも無かった。

 こいつはきっと自分を飼い猫ぐらいにしか思っていないのだろう。

 それはいい。互いの生まれを考えればそれが妥当な関係なんだから。

 でも自分は。

 恋心に気付いた。気付いてしまった。

 この気持ちを禁忌とする時流も無い。

 でも自分は。


「いまはまだ、です」


 なのにこうやって後付けで微笑むものだから、いつも勘違いをしてしまう。


「あんたが、それでいいなら、いいけど」


 向こうも自分に深い好意を抱いていてくれている、と。

 それ以上紅薔薇は何も言わず、清香も黙ってしまう。


「ああ、はいはい。もう、焦れったいなあ」


 強引に腕を取られ、振り回されるようにして紅薔薇と肌が触れあう距離にまで引き寄せられてしまった。

 思わず見つめ合うふたり。

 数秒か、けれど一分は経って無いと思う頃、紅薔薇がなぜか緊張した様子で口を開く。


「あ、あの、わた、わたくしは」

「いいって」小声になって、「無理しなくても」薄く、笑った。

「どういう意味ですの」


 一転固い声になる紅薔薇。

 清香も声が固くなる。


「額面通りよ」

「無理なさってるのは清香さんでしょう」

「あたしは無理なんかしてない」

「でしたら」ふわ、と清香の背中と腰に手を回し、「いまここで唇を奪っても、問題はありませんわね」鼻先が触れあうまでに顔を近づける。

「そんなことしたら一生軽蔑するから」

「清香さんならそう仰ると思っていました」


 そう言いつつも紅薔薇は手を顔を視線を離さない。

 清香はこの距離でも頬を赤らめることさえせず、愛弓は事態の推移を囃し立てることもせずにじっと見守っている。


「……もういい。離して」

「お断りします。いま手を離せば清香さんはまたお一人でどこかへ行ってしまわれます」

「行かないから」

「だめです」

「噛みつくわよ」

「清香さんになら本望です」


 なぜこいつはここまで自分に執着するのか。そりゃあ、飼い猫がいなくなれば悲しいだろうけど。


「あのね。あたしだってそう何回もへそ曲げたりしない。あんたが、あたしのことを……す、……大切に、思ってくれてるのは、分かるから」

「ですけど」

「あたしのことを想うなら、あたしのことは自由にさせて」

「本当に、どこへも行ったりしませんか?」

「そう言ってるでしょ」

「わかりました」


 それでも離すまでそうとう逡巡があった。

 やがて手を離し、何歩か清香が下がって、あ、と紅薔薇が悲しそうな目をして。


「いかないわよ」ほんの少しだけ口角を上げた。「意外と心配性なのね」

「だって、清香さんはいつも……」

「あたしは猫だから」


 そう思っていた方が楽だ。いや、いっそそうなれたら、こいつと気兼ねなく暮らせるのに。


「そうやって、逃げないでください」

「逃げたくもなるわよ。あんたの隣にいると」

「わたくしは、重荷なのですか」

「悪く言えばね」

「ですが、わたくしは」

「うん。あたしも、あんたから離れるつもりは無いから」


 紅薔薇の表情に、ほんの少しだけ明るみが現れた。


「だからさ、今度あんたの事、もっと教えて。よく考えたらあたし、全然知らないからさ」


 そうだ。全然知らないんだ。

 知ろうとしなかったから。

 毎日をこいつのやらかしたことの後始末に追われ、住む世界が違いすぎるからと決めつけて、なぜこいつが自分を離そうとしないのかを考えず、ただ自分の想いに振り回されていた。


「……あまり、面白いことはありませんわよ」

「あんたのことでしょ。つまらない筈無い」

「ではその暁には清香さんのお話も聞かせてくださいましね」

「う。いいけど、あたしの家のことはあんただって知ってるでしょ」


 その言葉の裏には、道場の借金を肩代わりした「父の知人」が紅薔薇の指示で動いていたことを、清香が知っていることが含まれている。

 無論、金談の場に紅薔薇はおろか、レイム社の名前も出していないのだが、高校で出会って彼女の言動から薄々感じ取っていた。

 それに気付きいた紅薔薇は少し辛そうな顔をして、


「知っては、います。ですけど、わたくしが知りたいのは清香さん自身のことです。幼いころから高校で再会する前まで、わたくしの知らない全てです」


 あまりに真剣な目で言うものだから、もう、と苦笑して、


「欲張りね」

「清香さんほど我が儘ではありませんけど」うふふ、と上品に微笑む。

「ばか」


 そこでやっと愛弓が声を掛ける。


「んっとさ、」


 少しばつが悪そうに、少し照れたように口にした言葉が中断された理由を、三人は同時に理解した。

 鼓動に似た感覚が脳を揺さぶり、その余波が悪寒となって全身を駆け抜けていった。

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