第13話 星の意思 2
「そうです。たっぷりのお湯で流すのです」
―あー、さっきの続きか……
清香は眠って見る夢を、夢だと自覚することができる。
自覚できるだけで自由に行動することはできないのだが。
「ちょ、ねえ、手がだんだん下がってきてるんだけど?」
するり、とまだ指を絡め合ったまま、紅薔薇の手が首を肩口を通ってお腹まで下がってくる。
「髪を洗ったら、今度はボディマッサージですわ」
「い、い、いいって! 体ならさっき洗ったから!」
「いいえ。これはマッサージです。さあ、体を横たえてくださいまし」
夢の中だからなのか、清香は満足な抵抗もできずに仰向けにされてしまう。
「えっ?! ベッドの上!?」
気が付けば風景は紅薔薇の寝室に切り替わっていた。体もすっかり乾き、ふっかふかのベッドに沈んでいる。覆い被さるこいつの肩越しには豪奢な刺繍が丹念に施された天蓋が見える。
「古来より、愛を深め合うのは寝室と決まっていますわ」
上気した頬。下向きになってもまだ形の崩れない胸。きっと上質の絹よりも触り心地のよい肌。それらが全て、互いの吐息のかかる距離にある。
同性であってもそう言う状況で紅潮しないのは、絶対におかしいと思う。
「あ、愛って、あたしそんなつもりないから!」
「お慕い、申し上げますわ……」
目を閉じてゆっくりと赤く濡れた唇を近づけてくる。
「待って待って待っててば!」
視界いっぱいに紅薔薇の顔が広がり、顔を動かすこともできないまま、せめて目をぎゅっとふさいだ。
唇に、しっとりとした感触が、
「わーーーーーっ!!!」
ばばばっ、と腕を振り回したそこは、自分の部屋だった。
『なに寝惚けてるの?』
怪訝そうなデュオラの声と共に、春嵐丸がとことこと歩いて来る。それでようやく自分の部屋だと理解できた。疲れ切った表情で枕元の目覚まし時計を見る。五時二十三分。部屋の中も大分明るい。うん。いまは現実。
「……どこから、夢?」
『知らないわよ。あんたの夢の状況なんて』
「にゃっ」
ふたり同時に突き放されて、清香は深いため息を吐いた。
春嵐丸は清香の顔を暫く見上げていたが、目を合わせてくれなかったので拗ねたようにとぐろを巻いた。ごめん、と頭を撫でながら、
「ねえデュオラ。あんたの世界でも同性愛って普通?」
『うん。普通。っていうかほら、私たちって体が無いでしょ。だから性別、って概念はほとんど無いから、子どもが欲しくなったら、平たく言えば工場みたいなところへ行ってお互いの遺伝子を提供すればいいだけだから』
「赤ちゃんも体が無いの?」
『あるわよ。でも大体五歳ぐらいになると脱皮するから』
脱皮、という言葉に清香はものすごく眉根を寄せる。
「へんなの」
『私からしたらこっちの仕組みの方がよっぽどヘンだってば。粘膜の接触とか、体液の交換とか、ぜんっぜん想像出来ないんだから』
「あんたに訊いたあたしが間違ってたわ」
『なによそれ。異文化の交流を足蹴にしないでよ』
「そういうのじゃないって」
全く参考にならなかった。春嵐丸は清香の手にほだされて機嫌を直していた。
「けっこんするのかな、あたしたち」
あいつも自分をともだち以上の存在と感じてくれていることは分かった。
すごく嬉しいし、思い出すだけで顔がにやけてくる。
けど、やっぱりあいつと自分は棲む世界が違いすぎる。
だから、最後のひとことが言えない。
同性同士の婚姻でも、書面上であれ体裁的であれ片方が嫁ぐ形になる。ということは自分があいつの嫁になった場合、同じ人間とは思えないスケジュールをこなすあいつの手伝いをすると言うことであり、あいつが嫁になったとしても仕事は辞めないだろうから……。
「……とても務まりそうにないにゃあ」
語尾を変えないと、想像したことに押しつぶされそうになった。
『そういう仕事してるあの子の、支えになってあげればいいんじゃない?』
「あのさあ、そうやってひとの独り言に返事するの、止めて」
『あんたこそ、聞こえよがしに言ってるじゃない』
「にゃあ」
春嵐丸にまで同意されて、清香はぐうの音も出なかった。以前に愛弓から「清ちゃんは独り言が大っきいよ」と言われたことがあるからだ。
少しは自重しよう、と胸に決めて清香は話題を変えた。
「話変わるけどさデュオラ。あんたあたしに取り憑けないの?」
初日からずっと考えていた。例え悪影響がなく、本人が受け入れているとしても、春嵐丸に迷惑はかけたくない。相手が彼でなくてもその思いは変わらないが、猫の彼に人の世界のごたごたに巻き込むのは違うと思うから。
昨日仲直りをしたことで戦う力は不要になったのだから、と持ちかけてみたのだ。
『できるけどたぶん、うまくいかないわ』
「なんでよ」
んーと、と一度考えを巡らせてデュオラはしゃべり出す。
『わたしたちの六次元世界とこの三次元世界では物理法則が違うの。法則が違えば環境も違うから、わたしたちがこっちで活動するには別の器が必要なの。ここまでは分かる?』
「うん。宇宙服みたいなものが必要、ってことね。で、器が無いとどうなるの?」
『十分も掛からずに死んじゃうわね。深海魚が陸に打ち上げられると変形するのと同じ理屈と思ってもらっていいわ』
ぼんやりとイメージできた。
『で、あんたたちもそうなんだけど、魂をその次元に固定するために必要な物質があるの。私たちは次元因子って呼んでる』
「じげんいんし?」
愛弓たちと喋っている時、時々紅薔薇は愛読している科学雑誌の話題を持ち出すことがある。同じ雑誌を購入している愛弓はその話題に乗れるが、清香は何を話しているのかさえ理解できないでいる。
特に発売日翌日には高確率でそういう話が出ることを、清香は学んでいるので、いまはふてくされることなくぼんやりとふたりの声を聞くようにしている。ふたりがあまりに面白そうに会話を弾ませているので、よく聞く単語は意味も知らないのに覚えてしまうほどだが、そういう記憶を漁ってみても聞き覚えは無い。
『この三次元世界の中にはね、十一次元までの次元が隠れてるの。それぞれの次元は互いに干渉しないようになってるんだけど、それは次元因子が蓋、っていうか壁になってる、ってわたしたちは考えてる』
「う、うん」
清香はそろそろ処理が追いつかなくなってきたが、デュオラは止まらない。
『三次元世界で発見されていないのは、例えば、糊付けしてある封筒があるとして、封筒の上から触っただけじゃ糊のことが分からないし、ましてその中身なんて絶対に分からないのと同じ理屈よ』
「それは分かったけど、話、ズレてない?」
ここから繋がるわ、と、どこか嬉しそうに制してデュオラは続ける。
『三次元に「時間」を掛けると四次元に、四次元に「重力」を掛けると五次元に、五次元に「概念」を掛けると、私たちが来た六次元世界が生まれるの。それぞれの次元が干渉し合わないように次元因子が蓋をしてる、って私は考えてるけど、そういう役割を持ってるから、実は空気中にも含まれてるの』
「え、でもそれだったら誰か発見してるんじゃないかな」
そんな凄い物質だったら、一度や二度はふたりの会話に出てくるはずだが、清香の記憶の中にはそんな単語は存在しなかった。
『それはムリよ。四次元以上の次元からでしか観測できないもの。さっきの封筒の例えで言えば、のり付けされていない、ほんの僅かな隙間から観測しないとのりの存在が分からないのと同じだし、三次元世界からだと、封筒を触ることしか出来ないんだもの』
「よくわかんない」
「にゃあ」
同意するように春嵐丸が退屈そうに啼いた。
『ごめんシュンランマル君、もう少しだけ、お願い』
「うにゃ」
「あたしはー?」
『大人なんだから付き合いなさい』
もー、と不満たらたらの清香を無視してデュオラは話し始める。
『色々研究して分かったのは、大気に含まれている因子は生命体の意志や思考を伝えるってこと。あんたとシュンランマル君が言葉を使わずに対話してるのも、次元因子が媒介となってるから』
「そんなこと無いと思うけどなー」
清香はいよいよ逃げ出したい気分だ。
しかし、エンジンがかかってきたデュオラは「ここからが本題よ」と止まらない。
『次元因子は次元だけじゃなくって生命体の、肉体と精神体も繋ぐ糊の役割も持ってるの。さっきも言ったけど、私たち六次元人は肉体が無くって、精神体だけで生きてるの。こっちの生き物に憑依するときに次元因子の幾つかが磁石みたいにくっついて、自分の他の因子を安定させるの。でもサヤカたちと私たちはくっつく因子の数が多すぎて、因子に含まれてるその人の記憶とか自我も混ざり合って全く違う人格が生まれる可能性が高くなるの。わたしもこっちに来て細かくシミュレートしてやっと分かったんだけど』
長々と難しい話を聞かされて、清香が得た結論はふたつ。「デュオラは春嵐丸から出て行けない」、そして「デュオラは想像を超えた存在だ」。それが確認できれば清香には十分だった。
「やっぱり幽霊じゃない」
『違うってば』
説明を反芻する清香の脳裏に、ひとつ不吉な疑問が浮かび上がる。
「っていうか、あの時春嵐丸が攻撃しなかったらあたしは今頃、あんたとぐちゃぐちゃに混じり合ってたっていうこと?」
『……うん。そうなる。ごめん』
「あんたって結構ばかね。勉強できるひとってみんなそうだけど」
返す言葉が無いデュオラは押し黙ってしまった。
「ほんと、いい加減にしなさいよ。あんたたちの所為であいつと殴り合いのケンカまでしてたのよ。……あいつは喜んでたけど、さ」
『……ごめん』
「ごめんじゃないでしょうが」
「にゃ」
「なによ。春嵐丸はいいの?」
「にゃあ」
「……分かった。春嵐丸に免じて一応赦してあげるけど、こんどからは最初に説明して。あたしはあいつみたいに頭良くないけど、できるだけ理解するから」
『……ほんとにごめん』
まだじめじめしているデュオラを、珍しく励ましてやろうと顔の前まで抱き上げる。
「こうやってお互い無事で元気なんだから、そこまで気にしなくていいよ、もう」
『優しいね。ひどいことしようとしたのに』
「そんなんじゃ無いって。春嵐丸に感謝しなさいよ」
『うん』
ようやく立ち直ったようだ。そっと春嵐丸を下ろし、
「じゃあ、あたしは道場に行くから、入って来ちゃだめだよ」
「にゃっ」
なにか声をかけようとしたデュオラだが、ぐずぐずしている間に清香は部屋を後にしていた。
*
清香は栗原流を知らない。
幼い頃から白衣と紺袴の稽古着を着せられて父の稽古に付き合わされていたが、殴る蹴るを当たり前に行う拳術をどうしても好きにはなれなかった。父はそれでもいいから見ておけ、と口を酸っぱくしていたが、そんな状態で見取り稽古をしても身に付くはずもなく、父から手解きもほとんど身に付いていないのだ。
「いまでも、嫌いなんだけどね」
父が急逝すると、門下生は一人また一人と辞めていった。母はこれを機会に道場を畳むことを模索し始める。母も働いていたので経済的損失はそれほどでも無かったが、実際道場はかなりの借金を抱えていた。そしてあとはハンコを押すだけ、と言うところまであっさり売却話は進んだ。
待ったを叫んだのは清香だった。
『あそこは、父さんとの思い出があるの』
大泣きした。
あれだけ稽古を嫌がっていたのに、いざ手放すことが目前に迫ると途端に哀しくなった。父との思い出の場所が無くなること、あれだけ父を慕っていた弟子たちが残らず居なくなった薄情さ、何より、母がこんなにも簡単に―-清香にはそう感じた―-売却を進めていったことへの怒りと哀しみが一気に噴出した。
泣く子には勝てなかった母は売却を断念し、清香は言い出した手前跡を継いだが、口伝で継承されてきた栗原流に奥義書などは存在せず、おぼろげな記憶と、弟子のひとりが撮影していた合計百分足らずの動画だけを頼りに日々の稽古を行っている。
「色々違うと思うけど、あたししかいないから許してね、父さん」
個人的な理由で続けている以上、栗原流の看板は掲げていない。
弟子を取るつもりもない。子どもが出来ても教えるつもりもない。
だから自分が死ねば、栗原流も消滅する。
開祖はどんなひとだったんだろう。
優しいひとだといいな、と思う。心血注いで完成させた流派をぐちゃぐちゃに改変してる自分を、しょうがねぇなこうやるんだよ、と笑って修正してくれるような。
「甘えるな」
自分だったら許さないと思う。後の世に代々残るようなものを作るほどの何かに没頭したことは無いけれど、それぐらいの想像はつく。
稽古を初めてから、一層嫌いになった。
拳術も、自分も。
その思いはいまも変わらないが、あいつが楽しそうに拳を振るっている姿は、ちょびっとだけ羨ましいと思う。
「ふうっ」
あいつのことを思い出したら少し元気になった。急所の外し方を教える、と言ってくれたが、当人がああも毎日忙しくしていてはそんな余裕も無いだろう。
一通りの型稽古を終え、清香はいつも以上に深い神棚への礼で今日の締めとした。
「あー、お腹空いた。朝ご飯は昨日のカレーでいいか」
ぶつぶつ献立を考えながら道場の戸を開ける。いつも通り春嵐丸が行儀良く座っていた。
「おまたせ。あんたもご飯にする?」
「にゃぁっ」
「ん。デュオラ、母さんはもう仕事行った?」
『うん。夏休みだからっていつまでも遊んでるんじゃないわよ、って言ってた』
「まさか返事してないでしょうね」
『してないよ。でもミサキさん、気付いてる感じはあるかな』
「ちょ、もう。母さん普通のひとなんだから」
『そんなこと無いと思うよ。サヤカが受け入れたんだから、私が喋ったぐらいじゃ驚かないんじゃない?』
「だからって、無闇に正体ばらさないでよ」
当の春嵐丸は退屈そうにあくびをした。自分の中に誰が居ようがが、彼は半野良の生活を続けるだけだ。
『それより、龍血核の反応があったわ。朝ご飯食べたら捜索に付き合ってよね』
「あ、うん。いいよ」
んーっ、と両腕を伸ばして伸びをする。足下の春嵐丸も前足を揃えてあくび混じりに伸びをする。今日もいい天気だ。
なにより、紅薔薇との関係が一段階深くなった。そう考えると龍血核の捜索もちょっとしたショッピング気分だ。
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