第12話 星の意思 1

 眠ってしまった春嵐丸たちを黒服たちに預けて仲直りの昼食会を無事に済ませた三人は、昇降口で待ちかまえていた早苗に掴まった。体育館を壊したこと、昼食を誘ってくれなかったこと、何よりも危険なことをしていることへのお説教をたっぷりともらった。

 放任してても心配なものは心配なんだからね、と言われた時は、さすがに三人とも反省した。

 どうにか帰宅を許された時にはヒグラシが鳴き始めていた。あれだけお腹いっぱい食べたのに、帰る頃にはアイスぐらい買い食いしようかな、と三人で笑いあった。


「ただいまー」


 帰ってきて重大なことを忘れていたことを思い出した。


「ハンカチ……」


 謝れたら返そうと思っていたのに。返してもきっとあいつは『差し上げますわ』と言うだろうけど、これはどうにかして返さないと気が済まない。


「二学期までお預け、か」


 登校日はあと一回ある。だが紅薔薇は社長の仕事が忙しく、三人で遊べる機会もほとんど無く、今度の登校日は欠席するでしょう、と帰り際本人も言っていた。


「しょうがないなぁ、もう」


 いつでも渡せるように、と通学鞄の小さなポケットにしまっておくことにした。


「母さんは、まだ帰ってきてないか。晩ご飯どうしよっかな」


 薄暗くなり始めた部屋の雰囲気も相まってほんのり淋しくなった。

 とはいえ、靴を抜いだ途端に疲労もどっとあふれ出してきた。シャワーを浴びたかったのに、制服を脱いだところで力尽き、そのままずるずるとベッドに潜り込んでしまった。

 勤め先から帰宅してきた母と春嵐丸に起こされたのは夜の七時を回ったころ。

 先にお風呂入っちゃいなさい、と叱られ、春嵐丸と一緒に風呂場に入り、たっぷりのお湯に浸かってじんわりと意識を覚醒させていく。


「は~~~~」


 湯気に檜の香りが混じっているのは勿論入浴剤を入れたから。


「たまにはこうやって贅沢しないとね~」


 風呂桶のふちに後頭部を乗せ、膝を折り曲げてだらーんと全身の力を抜く。ふわ、とお腹が水面近くまで浮き上がる。あいつの実家のお風呂なら遠慮無く足を伸ばせるのに、と以前お泊まりしたときの事を思い出した。

 今日もいろいろあった。


「お弁当、おいしかったな……」


 ああ見えて紅薔薇は料理もできる。

 十五歳までに大学院クラスの学問を修得し、現在は芸術、武道、社交界での作法や家事全般に至るまでありとあらゆる知識と教養を学んでいるそうだ。

 弱点と言えば少々一般的な常識からはずれているぐらい。それを除けば、弱点らしい弱点は見当たらない。完璧すぎるほどに完璧だ。

 向かうところ敵なしの彼女がなぜ取り立てて特徴も無い野穂高校へ入学したのか、と早苗が訊けば、「家のしきたりですわ」と答え、清香が訊いた時には「野暮なことをお尋ねにならないでくださいまし」と、しっとりと見つめ返していた。


「なんであんな凄いのとともだちなんだろ……」


 最初にあいつと仲良くなったのは愛弓だった。

 本の趣味がちょこっと合ったから、と照れくさそうに紹介されたのが、学校も紅薔薇の存在に慣れ始めた一年生の五月。愛弓が仲良くなったなら悪党じゃないしな、と清香も受け入れ、高校最初の中間試験の勉強会をきっかけにして三人で遊ぶようになっていた。

 お泊まりしたのもその時。初めて見るあいつの裸は、掛け値なしにきれいだった。肌のきめ細やかさや、潤いたっぷりの髪は普段からでも見ているが、お湯に濡れ、濃いめの湯気に覆われているあいつはまるで女神様のようにきれいで。

 目を閉じて湯船に浸かっていると、あの時の記憶がすぐに蘇ってくる。


『ああ、いけませんわ清香さん。髪はまず頭皮を洗うのです』


 むか。


『ツメを立てずに丁寧に丁寧に洗ったら、たっぷりのお湯で……』


 う~る~さ~い~。髪の毛ぐらい自由に洗わせてよ。


『いけませんっ。髪は女の命なのですっ』


 あんたみたいにきれいならちゃんと手入れするけどさ、


『なにを仰るのです! 清香さんはわたくし以上に輝ける素質をお持ちです! ですから、わたくしが指南して差し上げますわっ』


 や、ちょ、背中に! 抱きつかないでよ!


『あー、清ちゃん照れてる~』


 そりゃ照れるわよ! 


『ねえねえ、あとでわたしにも教えてね。手取り足取り~』

『ええ。もちろんですわ』


 い、いい、いいいから離れてよ! 教えてくれればやるから!


『いいえ。清香さんはからだに教え込まなければ、絶対続けませんから』


 綿のような指を絡ませ、風船のような胸を密着させ、耳のすぐそばにあいつの艶っぽい唇があって……。


 うん、あいつになら―


 ぴちょん、と天井からおでこに水滴が落ちてきた。


「っ!」


 水滴の冷たさに現実に戻った。

 お泊まりしたあの日。『何のしがらみも無い友人は、おふたりが初めてなんです』と、はにかんだ彼女の表情がいまも忘れられない。

 あの笑顔が決定打だったのだろう。

 でも、ともだちにそういう感情を抱いたことへの嫌悪感もある。


「あいつとは、ともだちでいたいのに」


 愛弓が囃し立てたようにこの時代、同性同士の恋愛はごく当たり前であり、同性婚も法的に認められている。

 万能細胞の研究が進んだ結果、特に女性同士であれば遺伝子疾患や奇形児などのおそれもなく、お互いの子どもを授かれるようになったことがそれを加速させた。

 この成果を発表した際には当然のように世界中からバッシングを受けたのだが、その裏で少子高齢化と、長く続いた氷河期により人口減少に悩む国々からの技術提供を求める声も広まり、また映画やテレビドラマで同性恋愛を絡めた作品が多数上映、放映され、さらにその出演者が役回りのまま結婚したことも多々あったため、いまは―特に日本では―もう当たり前の事象として受け入れられている。


「なんでこんな気持ち、気付いたんだろ」


 ケンカはしていたが、それ以外の関係の方が長いのだ。


『無理に嫌う必要は無いんじゃない?』

「なによデュオラ。人ごとだと思って。っていうか、あたしが悩んでる原因分かってるの?」

『少しはね。これでもあんたよりもオトナなんだから』


 ふふん、と鼻で笑われて、急に自分が幼稚に思えた。気分を入れ替えようと、


「春嵐丸、体洗ってあげるからおいで~」


 専用の小さい風呂桶に浸かっていた春嵐丸を呼び寄せ、清香も湯船から上がる。


「にゃっ」


 ふうん、と春嵐丸を抱き上げて彼の体を眺める。どこも怪我をしていないし、毛艶もいい。いつも不思議だが、元気そうなのですぐに理屈を考えるのを止めた。


『ねえ、ちょっと話があるんだけど』


 珍しく神妙な声色だったが曖昧に頷いて、猫用のシャンプーをかける。


『あれからずっと考えてたんだけど、オルマティオなんて名前、わたし聞いたこと無いの』

「なにそれ」


 わしゃわしゃと春嵐丸の全身をくまなく洗っていた指が、ぴたりと止まった。


「聞いたことがない、ってどういうことよ」

『次元を渡る研究をしてたるのって、わたしが居た組織ぐらいなのね。その組織自体ちっちゃくて、メンバーは二十人もいない。だから全員の名前も顔も覚えてるけど、どれだけ考えても心当たりが無いのよ』


 頭からゆっくりとお湯をかけて春嵐丸の泡を洗い流す。緩んだ目元と口元が実に愛らしい。


「愛弓を疑えって言うの?」

『アユミちゃんじゃなくて、オルマティオを、ってこと』

「だいじょぶじゃない? 体動かすのは愛弓なんだし」

「うにゃ」

「ほら、春嵐丸もそう言ってるじゃない。あんただって、春嵐丸にはお願いして動いてもらってるんでしょ?」

『そう、なんだけどさ……』

「だいじょぶだいじょぶ。あいつとも仲直りしたんだから、龍血核集めるのも、少しは楽になるよ。きっと」


 春嵐丸の風呂桶にお湯を足してやると、清香もスポンジを片手に自分の体を洗い始めた。


『サヤカって結構楽天的ね』

「そう? 低血圧だから難しいこと考えたくないだけよ」

『あっそう。警告はしたからね』

「はいはい。わかりました」


 檜の香りに混じって食欲をそそるカレーのにおいも漂ってきた。母のカレーは絶品だ。美食家の紅薔薇だって賞賛すると自信を持って言える。


「うっし。今日の晩ご飯はカレーだにゃ~」


 すっかり上機嫌の清香に、デュオラは呆れるしかなかった。

 甘い予想は得てして外れるものだと、後に清香は身をもって知ることになる。

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