第10話 恋せよ乙女 5

 白い羽根がどこからか舞い降りてきた。

 きらきらと反射しているのは天井から差し込む、強い夏の日差し。一瞬前まで迫っていた危機をすっかり忘れるほどに幻想的な光景だった。

 ぎりり、と歯ぎしりにも似た音を立てて巨人の腕が軋んでいる。

 バスケットゴールよりも遙かに高い位置から振り下ろされた拳を易々と受け止めるのは、純白の羽毛を纏い、背中から翼を生やした愛弓だった。


「愛弓?!」


 よく見れば羽根には一枚一枚、強い赤で縁取りが施されている。それが集まり、羽ばたくとまるで炎がそうしているように感じる。愛弓の清らかさと、芯の強さを表しているのだろう。


「にゃふふ~。ちょっと待ってて……ね!」


 外側へねじりを加える。軋みが大きくなる。体勢を崩し始めた巨人がついに反撃に出る。紅薔薇がへし折り、肘までになった右腕を高く掲げると、磁石が仕込まれているかのように散乱する瓦礫が集まって腕を拳を形成していく。


「おぉ~、すごいすごい」


 喝采する愛弓の脳天へ振り下ろされた手刀は、鉄骨ごと床板を粉砕し、破片を噴水のように吹き上がらせた。


「愛弓さん!」


 悲鳴を上げるふたりの前に羽根がひらひらと舞い落ちる。


「こっちこっち!」


 淵から何本も鉄骨が飛び出している天井の大穴の近くに愛弓はいた。背中の翼は飾りではないようだ。

 巨人は上空で挑発する愛弓には目もくれずに清香たちへ歩を進める。紅薔薇に抱きかかえられている清香は、自分のお腹の上でくたりと倒れている同居人を揺り起こす。


「起きて、春嵐……丸」


 手の中の春嵐丸は僅かに顔を上げることしかできず、清香の腕も頼りなく震え、呼吸も荒い。


「休んでいてくださいまし。何より、春嵐丸さんのために」


 後ろから、きゅっ、と優しく抱きしめ、春の雨のように優しく言った。


「春嵐丸の、ため……」

「ええ。こんなにも小さいからだを酷使させてはいけません。あとは、わたくしと黒夜叉が」


 疲労しきった清香の心と体に紅薔薇の声がゆっくりと染み込んでいく。

 染み込んでいく言葉は安らぎを呼び起こし、手の中で懸命に立ち上がろうとしている春嵐丸の姿は、なによりも哀しかった。


「うん……。もういいよ、春嵐丸……」


 でも、と春嵐丸は瞳で訴える。

 紅薔薇たちだって残っている体力を計ればきっと大差無い。それは清香も分かっている。


「だいじょぶ。春嵐丸は十分にがんばったよ。紅薔薇が強いことはあんたも知ってるでしょ?」


 まず清香の、次いで紅薔薇の顔をじっと見つめた。


「信じてくださいまし。わたくしと清香さんと同じように、春嵐丸さんも黒夜叉のともだちでしょう?」


 もう一度紅薔薇の瞳をじっと見つめて、春嵐丸はくたりと倒れ込む。


「お任せ下さいまし」


 ぽん、と軽く胸を叩く紅薔薇。こんな風におどける彼女は初めて見る。

 寝息を立て始めた春嵐丸の背中を撫でて、清香は紅薔薇を振り仰ぐ。


「お願い」

「勿論ですわ」


 春嵐丸ごと清香を抱き上げ、まだ床板が残っている場所にそっとおろす。

 高笑いするかな、と思ったが、右手を持ち上げたところで止め、代わりの口上を慌てて考えている仕草がすこしかわいい。


「いいよ。いまはちょっと聴きたい」


 まあ、と驚いて見せると、すぐさま右手を口元に寄せる。


「それでは清香さん、春嵐丸さん。そこでおとなしくわたくしたちの華麗な闘舞をごらんあそばせ! おーっほほほ!」


 うん、と微笑んで見送る。たんっ、と跳び上がって高く軽やかに伸身宙返りを行いながら、巨人の脳天へ蹴りを打ち込む!


「たあああぁっ!」


 その一撃で巨人は腹部まで床にめり込み、動きを封じた。

 父が死んだことで、それまで僅かにいた門下生は全員が辞めた。そして父から拳術の師匠として教わったことなど数えるほどしか無い清香にとって、毎朝の型稽古はうろ覚えの見よう見まねでしかない。

 紅薔薇とは一度だけ、彼女が珍しいぐらいしつこくせがむものだから組み手をやった。

 拳を合わせながら感じたのは、とにかくきれい、の一言に尽きる。

 無数の流派を学びながら、彼女自身だけが生み出せる筋肉の躍動があった。自身の拳と真剣に向き合うようになってから、まだ五年も経過していないから上手く言えないけど、こいつはきっと拳術の神さまに愛されているんだと思った。

 いまもそうだ。あいつの拳にあって自分にないもの。拳術を愛すること。

 きっと自分にはできないと思う。

 なぜならあたしは、あいつの方が。


「いまですわ愛弓さん! とどめを!」


 その単語に清香は黙想を止めてふたりに意識を戻す。

 ふたりの攻撃により巨人は両腕を粉砕され、その攻撃手段を失っていた。


「うんっ!」


 ばさぁっ、と大きく一度羽ばたき、巨人の顔の前まで移動すると巨人へ人差し指を鋭く突きつける。


「空も海も地の果てまでも! 悪あるところ必ず見参! 愛の戦士ラブリーアーチェリー、あなたの悪事、挫きます!」


 愛弓まで、と清香は呆れた。いつの間にあんな口上を考えていたのだろう。


「とうっ!」


 口上を終えた愛弓は天井の大穴から校舎を街並みさえも見渡す高度まで舞い上がっていく。互いの大きさが小指ほどの大きさになったところでぴたりと止まり、きっ、と下を見据える。


「ラブリーっ! アローっ!!」


 叫ぶと同時に拳を突き出して急降下する!

 最初に上がった衝撃音は音速の壁を超えた音だ。次いで拳を中心に、ヴェイパートレイルが輪を描きながら幾重にも広がる。そして甲高い風切り音と共に巨人の胸を貫通する!

 それが断末魔なのか、単に破片同士がこすれ合った音なのかは誰にも分からないが、巨人は大きな音を立てながらバラバラと崩れ落ちていく。


「お見事ですわ。愛歩さん」


 紅薔薇は賞賛の拍手を惜しみなく送った。


「ふたりとも無事ーっ?」


 埃がきらきらと舞う中を、羽根を広げてゆっくりと降りて来るものだから、疲れ切った清香の目にはついに天使がお迎えに来たのかと錯覚した。


「ですがなぜ、たった一撃で……」


 あれだけ攻撃しても壊れなかったのに、たった一撃で巨人は元の瓦礫へと戻った。それがどうしても納得できない。


「たぶん、これだと思う」


 手に持っていていたのは、両手に余るほどに大きな龍血核だった。


「これが自分で瓦礫を集めて、自力で動いてたんだって」

「そんなことまで出来るんだ……」


 感心する清香の肩を貸す紅薔薇は複雑な顔をしていた。


「どしたの紅ちゃん。神妙な顔して」

「そ、そんなことありませんわ」

「ふうん。まあいいや」


 深くは追求せずに、ずい、と龍血核を差し出して少し意地悪く首を傾げる。


「……で、どっちが受け取る?」

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