第9話 恋せよ乙女 4

 春嵐丸と黒夜叉が周囲を警戒し始めたのは同時だった。低い呻り声をあげ、四肢をぴんと張り、目線と耳を別々に動かして一切の油断を消し去った。


「どの音ですの?」

「……なんていうか、砂利道歩いてる時みたいな、じゃらじゃらした音」


 春嵐丸たちの様子から異常を感じ取った愛弓は、紅薔薇に肩を貸して起きあがらせる。立つことはまだムリでも、うつぶせたままでは何かあったときに行動が遅れてしまうから。


「……? ああ、ちっちゃいけど聞こえるね。でも何の音だろ」


 音の出所を探して視線を巡らせる。と、先ほどの白い鳥が、ばさばさっ、と大きく羽ばたきながら迷い無く愛弓の頭に留まった。


「なに、どしたの?」


 無理に追い払おうとはせずに問い質してみても、白い鳥も愛弓の頭の上で油断無く視線を巡らせるだけ。頭皮を掴む爪はそれほど痛くないし、春嵐丸たちの注意がこちらに向くことは無かったので愛弓も黙認することにした。

 それよりもいまはこの音の正体を探ることの方が重要だ。


「くる」


 誰かが呟いた直後、先ほどの大げんかで穴だらけになった床がめくれ上がり、周囲の瓦礫を取り込みながら徐々に巨大な人の形を成していく。春嵐丸と黒夜叉が牙を剥きだしに激しく吠えたて、隙あらば飛びかかろうと四肢に力を込めている。


「な……なに? 人、なの?」


 巨大化が止まったのは、頭部とおぼしき部位がバスケットゴールよりも高くなってからだった。その頭部を支える胴体も、そこから伸びる腕部も極端に長い。逆に足は膝が見当たらないほどに短く、人型と呼ぶにはあまりにいびつだ。

 三人が息を呑む間に、巨人は三人をじろりと睥睨した。ように感じた。


「春嵐丸!」

「黒夜叉!」


 ふたりが叫ぶのと、巨人が長い腕を振り上げたのはほぼ同時だった。ふたりを朱い光が包み、弾ける。巨人が腕を振り下ろす。光の残滓の中から飛び出したふたりは、愛弓を担ぎ上げて出口まで運ぶ。巨人の腕が床に命中し、轟音と共に破片を無数に飛び散らせた。飛んでくる破片を紅薔薇が身を挺して防ぎ、愛弓には一発も命中しなかった。

 出口に到着し、清香は丁寧に愛弓を下ろし、外へ押し出す。


「愛弓は逃げて!」

「ちょっと待ってよふたりとも!」


 反論をさせるよりも早くふたりはドアを閉め、鍵を掛ける。使えるドアはここしか残っていないので、もう誰も中に入って来れない。愛弓が何か叫びながら激しくドアを叩くが、ふたりは耳を貸さず、瓦礫で出来た巨人に向き直る。


「やりますわよ、清香さん」

「分かってる。愛弓に怪我させるわけにはいかないからね」


 瓦礫の巨人が高らかに咆哮する。壁を鼓膜を振るわせる大音声にふたりは一切怯まなかった。


「やるよ」

「ええ」


 揃って巨人を見上げる。巨人がぐわっ、と両腕を振りかざす。全く同時に左右に分かれたふたりを巨人は追い切れず、ずずん、と拳が振り下ろされ、瓦礫と埃が舞い上がった。

 その数瞬で巨人を両脇に回り込んだふたりは拳に力を込めて挟撃する。


「せっ!」

「はっ!」


 鋼鉄すら破砕するふたりの拳を横っ腹に受けて巨人は苦しそうに身をよじった。まとわりつくふたりを払おうと腕を振り回すが、ふたりは軽やかにしなやかに全てを回避。清香が腕を伝って頭部へ駆け上がる。巨人が叩き潰そうと腕を振り上げる。


「紅薔薇!」

「分かってますわ!」


 床板が剥がされ、剥き出しになった鉄骨の上でその瞬間を待っていた紅薔薇が、がら空きの横っ腹目がけて砲弾のような跳び蹴りを見舞う。完全に不意打ちを食らった巨人はぐらりとバランスを崩し、清香への一撃も空振りに終わった。


「清香さん!」

「いま、やる!」


 とんっ、と巨人の肩口でジャンプした清香は、体勢を崩した巨人の右側頭部へ渾身の回し蹴りを放つ。見た目以上の鈍重さが災いして咄嗟に手をつくこともできず、鉄骨を床板を巻き込みながら激しく横転した。


「よしっ!」思わず歓喜の声が口をついて出る。

「まだですわ!」


 降り注がれる瓦礫の雨から逃れつつ、紅薔薇が注意を喚起する。ぎぎぎ、と鉄骨の軋む音と共に巨人は片手をついて体を起こし始めている。なんとかしなきゃ、と思った直後に清香はもう走り出し、天井近くまでジャンプしていた。


「このおっ!」


 流星のような蹴りで巨人の側頭部は大きく陥没。その勢いで再び床板に押しつけられ、全身の半分以上をめり込ませた。


「はああっ!」


 横転した反動で跳ね橋のように持ち上がった巨人の右腕を絡め取った紅薔薇は、巨木のような腕を逸らせていく。


「いい加減に、なさいませ……っ!」


 ぴしいっ、とガラスに亀裂が入ったような音が響き渡った直後、破片を蒔き散らしながらへし折れる。それではまだ足りない、と紅薔薇は窪んだ側頭部へとどめの拳を放つ。手を付くこともできず、巨人は再び激しく横転した。


「これ……で……っ、どうですの!」


 舞い散る破片を避けながらの着地はしかし大きく乱れ、膝から崩れ落ちてしまう。


「ほら、しっかりして」


 紅薔薇のすぐ傍に降り立って清香は彼女に肩を貸す。普段なら絶対しないのにな、と小さく笑う余裕はまだあった。上気し、玉のような汗に濡れる彼女の横顔に一瞬目を奪われたが、すぐに巨人へと意識を戻す。


「もう終わりにしてよ……」


 自分が繰り出せるのは、渾身のパンチ一発が限界。紅薔薇もきっと同じぐらいの体力しか残っていない、と彼女の鼓動と呼吸が教えてくれる。

 二度、三度心臓が脈打つ。

 巨人はぴくりとも動かない。


「終わった……?」

「その……ようですわね」


 ようやくふたりは安堵の吐息を吐いた。

 くたり、と膝から崩れ落ちると同時にふたり変身を解く。朱い光に包まれ、弾ける。脇に現れた春嵐丸たちも二度の変身で体力を使い果たしたのか、すぐに伏せの姿勢に崩れてしまった。


「あ~もう、何だったのよ~」

「かすかに、ですが龍血核の反応を感じました。後でわたくしのパートナーに訊いてみますわ」


 うん、あたしも、と言いかけ、すぐに口をつぐむ。その原因を紅薔薇は音で察知する。

 巨人が動き出していた。

 床下の鉄骨部分に深くめり込んだ体を、さらに下にある左腕一本で起こしている。横っ腹に積もった瓦礫がばらばらと転がり落ち、やっと落ち着きかけた埃がきらきらと舞い踊り始めた。


「そんな……」


 呻く紅薔薇の顔は青く染まり、清香は頼りない足取りでどうにか立ち上がる。


「あたしが時間を稼ぐ。あんたはここでしばらく休んでて。……春嵐丸、もう一回だけお願い。終わったら猫缶いっぱいあげるから」

「にゃ……」


 よろめきながらも彼が立ち上がったのは勿論猫缶の為では無く、同居人を守るためだ。


「ありがと。大好き」すくい上げるように顔に寄せ、優しく口づける。


 朱い光に包まれながら清香は巨人へと飛びかかる。


「だあぁっ!」


 光が弾けるのと巨人が起きあがるのはほぼ同時だった。そして巨人が起きあがるまでの数十秒のうちに回復した体力で時間稼ぎなんかできるはずが無い。

 それでも。

 紅薔薇は目を閉じて深く長く呼吸を始める。

 一粒でも多くの酸素を体内に取り込むための呼吸法だ。まぶたの向こうで懸命に闘う清香の姿が感じられる。劣勢だ。それでもまだ紅薔薇は動かない。約束だから。まだ和解していない自分を信じてくれた清香と春嵐丸の気高い勇気に応えるために。


「……清香さん!」

「りょーかいっ!」


 そのスキは本当に一瞬だった。アイコンタクトの為に紅薔薇へ視線を向けた一瞬を狙って巨人は、清香の左肩を真横から殴りつけた!

 殴り飛ばされた悲鳴をあげるよりも早く清香は反対側のバスケットゴールに叩き付けられ、ずるり、と頭から落下する。


「黒夜叉!」


 紅薔薇の形をした朱い光が落下地点に滑り込み、弾ける。優しく抱き留めはしたが、今度は清香を朱い光が包み、弾ける。清香のお腹の上で春嵐丸がくたりと倒れ込んだ。清香が背中を優しく撫でて、ごめん、と呟く。そして、


「なにやってるのよ、ばか……っ!」


 ぐい、と奥襟を掴んで紅薔薇を責める。瞳には憤りと、奥底に感謝が滲んでいた。


「……にゃにゃっ」


 苦しそうに顔を上げた春嵐丸がふたりの背後に向かって吠え立てる。いけない、と紅薔薇が振り返った時にはもう遅い。

 巨大な拳がふたりへと迫っていた。

 白い羽根が舞い降りてくるのを、清香は確かに見た。

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