第7話 恋せよ乙女 2

「いってきま~す」


 今日は登校日だ。

 若草色を基調としたセーラー服を身につけ、愛弓が手作りした春嵐丸をモデルにしたマスコットを付けた鞄を手に、揚々と歩く。野穂(のほ)高校までの自宅から徒歩で十五分ほどの道のりを毎日のんびり徒歩で通っている。

 昨日に限らず、決闘で受けたダメージは全てデュオラが治療してくれている。

 身体を持たない彼女が、こちらの世界に来るに当たって練習してきたと聞いた時は正直ぶん殴りたくなったし、どうせなら体力も回復できるようにして欲しかった。


「おかげで負け続けるし」

『ひとの所為にしない』

「あんたに言われたくないっ」


 じろりと睨んでみても、そこにいるのは春嵐丸だ。しっぽをぴん、と立てて歩く彼を見ていると怒りも和らいでしまう。

 言葉を交わす内に、赤煉瓦のおしゃれな壁が見えてきた。あの壁がぐるりと囲むのが清香たちが通う野穂高校だ。

 文武両道を謳い文句にする野穂高校だが、現実は大きく違う。

 運動部の目立った活躍と言えば、野球部が何年か前に県大会のベスト8に上がったことぐらいであとは県大会に出られれば御の字。偏差値に目をやれば、中の上をキープし続け、風紀の乱れも教師が目をつぶれる範囲内なので、「自分の将来にある程度の妥協ができるなら、これ以上なくよい環境」として認知されている。

 ふたりを追い越していく自転車やバスに、少し懐かしい顔をいくつも見つけ、清香は歩調が早まるのを感じた。

 正門から昇降口までの約二十メートルを真っ直ぐに伸びる桜並木は鮮やかな葉桜を咲き誇らせ、足もとを吹き抜ける涼やかな風も相まって暑さをひと時忘れさせてくれる。


「愛弓来てるかな~」


 親友もうひとりも同じ教室にいることは極力思い出さないようにしていた。





 なのにあいつは教室の入り口脇に立ち尽くしていた。


「ごきげんよう。今日もお元気そうで何よりですわ」


 すらりと伸びた両腕をお腹の辺りでゆったりと組み、背筋に服装に一分の乱れも無い立ち姿は、男子だけでなく女子からも羨望のため息を誘い、同時に育ちの違いはこういう所に現れるのだろう、と言う諦めに似た空気はすっかり定着し、いつしか壁となっていた。

 普段ならそんな壁など易々と乗り越える清香だが、いまばかりは違う。


「おはよ」


 ちらりと見た後、ひと言だけの挨拶を投げつけて清香は、再会や宿題の進行状況に一喜一憂するクラスメイトたちが待つ教室内に入っていった。

 なぜならば、市民プールでの一件はまだ和解が成立していないのだから。

 紅薔薇は何かを口にしかけて、手を伸ばしかけて結局止めた。そのまま中央の列の一番前にある自分の席へと向かい、しずしずと座った。

 まあいいや、と清香もグラウンド側の窓際最後列にある自分の席へと向かう。


「おは。ねえ、まだ怒ってるの? 紅ちゃんちょっと辛そうだよ」


 駆け寄ってきた愛弓が小声で話しかけてきた。


「はよ。怒ってないけどあいつが謝るまではダメ。挨拶はしたんだから、少しは勘づくでしょ」

「そうかなあ……」


 愛弓が振り返った先にいる紅薔薇は、鞄から文庫本を取り出して書店のマークが入った赤い表紙カバーをただじっと見つめている。


「下界へ降りてきたのは、あいつの意志なんだから……」


 小さく絞った声はチャイムにかき消されて、愛弓の耳には届かなかった。


「どっちにしてもキューピッドならやるから、いつでも言ってね」

「なによそれ」

「清ちゃんだって、仲直りしたくてしょうがない、って顔してる」


 う、と言葉に詰まった。


「だって、清ちゃんのことだからこの間のハンカチ、今日も持ってるんでしょ?」

「な、なんで分かるのよ」


 愛弓の腕越しに見える紅薔薇が、一瞬ぴくりと動いた。なによ。聞き耳立てなくてもあんたの悪口なんか言わないわよ。


「ん~? なに見てるのかな~?」

「べ、べつになにも? 早苗ちゃん遅いなって思っただけ、よ」

「ふぅ~ん。まあいいけど~」


 にゃふふふ~、と笑いかけ、愛弓も自分の席へ戻っていった。

 もう、と鼻息荒く見送ると、こちらを向いていた紅薔薇と目が合った。先に目を逸らしたのは向こう。それが余計に気にくわない。ったくもう、と後頭部を睨んでおくだけに留めた。その横で愛弓がひらひらと手を振っている。


「分かってるわよ」


 唇を尖らせて窓の外を見る。開け放した窓から吹き込む風は少し温いが、汗ばんだ体には有り難かった。

 外はベランダに繋がっていて、夕顔や矢車菊、鈴蘭などが植えられたプランターがずらりと並び、設置した紅薔薇がせっせと世話をしている。名前に似合わず可憐な花が好きらしい。


「春嵐丸どこかな~」


 校舎内のどこかにいる同居人のことをぼんやり考えていると、ドアが眠そうに開いた。


「うぃ~す。みんないるね~」


 ふらふらと入ってきたのは、黒のくたびれたジャージとぼさぼさの短髪がトレードマークの担任教師、田村早苗だ。


「……んー?」


 ちらり、と早苗が目に留めたのは紅薔薇だ。

 花で例えればひまわりのような彼女が、珍しくしょげている。それで眠気が覚めた彼女は、ふむ、とひと言漏らす。それに引かれるようにクラス全員の視線が紅薔薇に集まる。落ち込みの度合いが強いのか、紅薔薇は教室の変化に気付いていない。

 にいいっ、と口角を上げて教壇に立ち、清香に視線をやる。


「あーのーさー、清香ー?」


 ざっ、と今度は清香に視線が集まる。

 その視線に得体の知れない恐怖を感じた清香は思わず身構える。


「な、なに」


 はあぁっ、とわざとらしいほどに大きなため息を零して、


「紅薔薇(ベニー)のテンションが低いと世界経済に影響出る、って何回も言ってるでしょ。あんた彼女なんだからちゃんと面倒みておいてよ」

「はぁっ?!」


 特に告白をしたわけではないが、清香と紅薔薇の関係は全校公認だ。三人で行動することが多いのに、紅薔薇との会話の回数で言えば愛弓の方が多いのに、だ。


「だからなんであたしなのよ! そいつがしょげてるのはそいつがあたしに地雷を踏ませたからだし、今回はあたしに……」


 語調が段々しぼんでいったのは、紅薔薇の背中がぴくん、と小さく振るえたから。たったそれだけのことで清香の憤りは立ち消えてしまった。


「なーに、清香。あんたも責任感じてるんじゃないの。あんたたちお似合いなんだから、もうちょっとうまくやりなさい」

「だから、あたしはそいつとは……」


 これだけ大声を出しても、あいつは少しも顔を上げようとしない。反省しているのだとは感じるが、あんなにも淋しそうな背中を見せられては頑張って作っているあいつとの壁にヒビが入ってしまう。


「でも時代は進んだわよねー。わたしの現役の頃にはそういうのの珍しさは薄くなってたけど、まだまだ妄想とかテレビの世界だったし。清×紅かー。うんうん。おねえさん見守ってあげるわ」

「早苗ちゃん、紅×清なんだよ、ほんとは」


 愛弓が余計なひとことを言うものだから、教室が一斉にざわついた。


「へえええ。あーでも言われてみれば、清香は受け身よね、どっちかっていうと」

「愛弓!」

「だってホントのことじゃない。この間のお泊まりの時だってさ」


 おおおおお、と教室中がどよめく。

 もうそんな関係なの?

 さすがお金持ちは違うわね。

 ちくしょー、俺ファンだったのに。

 端々から聞こえてくる冷やかしや嫉妬やらに清香は恥ずかしさと、結局自分が地雷を踏んだことに端を発している事実に顔中真っ赤にして叫ぶ。


「あたし帰る!」


 机の脇に掛けてある鞄を取ってずんずんと歩き出す。

 この期に及んでもまだ紅薔薇は顔を上げない。だったらもう捨て台詞でもぶつけていかなければ気が済まないところまで清香は追いつめられていた。


「あんたが悪いんだからね!」


 反応を見ることもせずに清香は乱暴にドアを閉める。ほぼ全員がその轟音に身を竦ませ、余韻が消えるのと同時に静かに紅薔薇は立ち上がる。


「先生。気分が優れないので早退させていただきます」

「ん。なんかごめん」

「なんのことでしょう」


 感情が乗っていないのが余計に恐い。

 愛弓以外の全員が息を呑み、緊張感が張りつめる。


「それではみなさん、新学期でお会いしましょう」


 スカートの両端を摘んで典雅に腰を折り、急ぐ様子も見せずに退室する。

 ドアが閉まると同時に全員がはあっ、と呼吸を再開する。


「清ちゃんの意地っ張りっ」


 愛弓の呟きは誰の耳にも留まらなかった。

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