第4話 異邦人は流れ星に乗って 4

「ちょっと春嵐丸!」


 もう、とため息を吐いて追いかける。

 これだけ熱せられたアスファルトの上を走るのはさすがの彼もいやだったのか、すぐに木陰の多いブロック塀に飛び乗って、時折清香を振り返りながら進んでいく。


「ったくもう、なんで今日ばっかり!」


 紅薔薇のことで頭がいっぱいなのに。

 同居人の不満も無視して春嵐丸は進む。人が通れないような細い道などは使わず、清香が労せず通れるような道を選んで。


「そういう優しさが、好きなんだけど……っ」


 汗がだらだらと流れ、下着やシャツを体に貼り付けてくる。アスファルトや民家の外壁の照り返しが鋭く目を灼く。失った水分を求めようと喉がからからに渇いていく……。


 ―­あー、もう。水浴びしたいなぁっ。


 湧き上がった欲求を即座に紅薔薇への怒りの力でもみ消し、春嵐丸に意識を戻す。


「ちょっと待ってってば」


 でも、どこへ行くつもりなのだろう。

 追いかけながら周囲を見回す。

 確かこの道は、廃墟寸前の公園に続いていたはず。ブランコもジャングルジムも滑り台もぼろぼろに錆びて、遊べるのは雑草が伸び放題になっている広場だけだったと記憶している。


「なんで、こんなところに用なんて」


 すっ、と春嵐丸が角を曲がる。そうだ。あの角を曲がればボロ公園の入り口が見えてくる。


「あら、春嵐丸さん。ごきげんよう」


 角の向こうから聞こえてきた声に清香の眉はつり上がり、


「にゃあっ」


 同居人の嬉しそうな鳴き声に眉の角度がもう一段階上がった。

 角を曲がる。錆びきってなんと書いてあるかさえ読めない看板の前に、紅薔薇が立っていた。


「あんた、なにやってるのよ」

「さ、清香さん……」

「しかも何、その恰好。暑くないの?」


 紅薔薇は漆黒の毛皮を纏っていた。

 首から上だけを出して、つま先から指の先まで全身くまなく。なのに着ぐるみや厚手のコートのようなもこもこした印象は受けず、すらりとした彼女のシルエットの一切を崩していない。

 なにより、きれいだった。

 その艶は夜の闇を落とし込んだよう。煌めく艶は星々を写し取ったに違いなく、紅薔薇の白磁の肌は満月に等しかった。


「し、少々捜し物をしていますの。毛皮は、暑くありませんわ」

「ふうん。捜し物だったらこの辺りの土地も買い占めたら?」

「そんなことはいたしませんわ!」

「地面はやらなくてもプールならやるのね」


 酷いことを言っている。それは自分でも分かっている。でも止められない。


「わ、わたくしは……っ」


 反論をせずにうつむく紅薔薇が、清香の心をかき乱す。今までならとっくにお互いに謝って仲直りしているのに。


「なによ。あたしに言わなきゃいけないことがあるのに、そんな高価そうな毛皮着て捜し物するなんて、よっぽど覚悟があるようね」

 偉そうに、と自分自身に呆れかえる。こんな暴言を吐いておいて、向こうから絶交されたら一生立ち直れないくせに。


「も、申し上げなければ、ならない事なんて……」

「あるでしょうが。あたしや愛弓に」


 煮え切らない態度が、ふたりの距離を引き裂いていく。


「あ、あ……、ありませんわっ」


 視線を反らし、唇を固く結ぶ。


「ならいい。春嵐丸、おいで。帰るわよ」

『待って。用があるのはここなの』


 紅薔薇の足もとで寝そべっていた春嵐丸が立ち上がって、デュオラの声で喋りかけてきた。


「あら、春嵐丸さんも、ですの?」

「春嵐丸……も?」


 口が過ぎましたわ、と口に手を当てて一歩下がる紅薔薇。


「……そうですわね。清香さんが求めるものと、わたくしが探すものはきっと同じ。でしたら」


 気が付いた時、すぐ目の前に紅薔薇の端麗な顔があった。

 一瞬で距離を詰められたことの驚きで清香は一歩も動けず、緩やかに上がる紅薔薇の口角から目を離すことが出来なかった。

 うふふ、と微笑んで口を清香の左耳に寄せ、紅薔薇は囁いた。


「決闘で奪い合うとしましょう」

「は?」


 いわれた意味が分からず、顔を左に向ける。正面から左へと移動する清香の視界のぎりぎり右端から、毛皮に覆われた紅薔薇の拳が迫っている。


「ぅわっ!」


 反射的に上体を反らして避け、体勢を戻しながら怒鳴りつける。


「いきなりなにするのよ!」

「決闘で奪い合う、と申し上げましたわ!」

「だったらなんで笑ってるのよ!」


 紅薔薇は満面の笑みを浮かべている。清香がいままで見たことのないぐらい輝いた笑顔を。


「わたくしも武を学ぶ者のはしくれ。清香さんとは何度か手合わせをしてきましたが、その度に感じたことのない幸福を味わっていましたから!」


 紅薔薇は帝王学の一環として武術も学んでいる。

 小学生の頃に栗原流の道場で出稽古をしたこともある、と高校に入ってから言われても清香はほとんど覚えていなかったのだが。


「だ、か、ら! 自分の勝手や趣味を押しつけるな、って何回言わせれば分かるのよ!」

「いいえ。清香さんもきっと理解していただけますわ。真に強い方との決闘は、愛の語らいにも通じる素晴らしい行為だと!」


 満面の笑みと共に高らかに宣言する紅薔薇。

 友人の口からは初めて聞く単語と、その意味に清香は湯気が出そうなほどに顔を赤くした。


「あ、あ、あ……愛とか言うな!」

「あら、生き物にとって至極当前の感情ですわ。なにを照れていらっしゃるんですの?」


 口元に手の甲を寄せてくすくすと笑うその仕草は、清香に一層の羞恥心を湧き上がらせる。


「うるさいっ!」


 全てを吹き飛ばすつもりで叫んでみても、紅薔薇はそれを掻い潜って間合いを詰めてくる。


「さあ、再開しましょう!」


 恍惚とした笑みは崩さず、紅薔薇は拳の間合いに入ると同時に左ストレートを放つ。清香はしゃがんで回避。それを読んで紅薔薇は右アッパーを置いてある。左へ飛ぶ。転がりながら草の生い茂る公園の中央近くへと入る。


「もう、いい加減にしなさいよ!」


 怒声も紅薔薇は笑顔で受け流す。疾走する狼のように軽やかなストライドで迫ってくる。


「行きますわよ!」


 錆びだらけの門柱の前で紅薔薇は大きくジャンプ。立ち上がって逃げる清香だが、膝の高さまである雑草に阻まれてうまくいかず、ついに草に足を取られて顔面から転んでしまう。


「いった~」


 鼻を全身を強かに打った。草は思ったほどクッションにならなかったどころか、無数の擦り傷を清香の柔肌に刻み込んだ。


「観念なさいませ!」


 上から振ってくる紅薔薇の上気した声に、どうにか体を捻って仰向けになる。起き上がろうと足に力を込めると激痛が走る。転んだ拍子に右足を挫いたようだ。


「ったくもう!」


 こんな時に言うことを聞かない足に悪態をつきながらも、どうにか立ち上がって逃げようと歩き出すが、激痛とまとわりつく草が妨害し、またも体勢を崩してしまう。


「うわわっ!」


 苛立ち紛れに踏ん張ったのは、挫いた右足だった。声も出せないほどの激痛が全身を駆けめぐり、仰け反った勢いで仰向けに倒れてしまう。


「もうっ!」


 なんでこんな目に遭っているのだろう。

 考える間でもなく自分がヘソを曲げたからだ。


 ―ああもう、いいわよ。好きなだけ殴ればいいじゃない


 激痛が弱気を呼び込み、弱気は諦めを生んだ。

 大の字になって紅薔薇を見上げる。酷く哀しそうな顔をしながらも、彼女の拳はしっかりと握られていた。


「そんな姿は清香さんらしくありませんわ!」


 ―なにがしたいのよ、あんたは


 自嘲に任せて全身の力を抜き、あいつが落下してくる姿を見つめる。ふと動かした右手に何かが触れた。


「え、石?」


 それは、赤く濡れた石だった。


『それよ!』


 デュオラが春嵐丸の口を借りて歓喜に満ちた叫びをあげる。


「にゃあうっ!」


彼からすればジャングルのような草地を春嵐丸が駆けてくる。


『サヤカ、その石をしっかり握っててね! シュンランマルくん、お願い!』

「にゃあっ!」


 春嵐丸が高く高くジャンプし、清香と紅薔薇を結ぶ直線上に躍り出る。


「ちょっと、なにする気なの、あんたたち!」


 混乱の中でも赤い石を握り締めていたのは、きっと藁にもすがりたかったからだろう。


「にゃあん」


 胸元の春嵐丸は柔らかな笑顔を浮かべ、清香に口づけをした。


「っ?!」


 刹那、握った赤い石が眩く輝きだし、清香の全身はその朱い光に包まれた。透明度の低い光は清香たちの様子の一切を隠してしまう。


「にゃぅおぉぉ……ん」


 朱い光の中から聞こえてきたのは春嵐丸の愛らしい雄叫び。その残響音が消えたのと同時に朱い光は弾け消え、残ったのは茶虎の毛皮を纏った仰向けの清香だった。


「な、な、なによ、これ!」

「さあ、これで条件は同じですわ!」


 泣き出す寸前だった紅薔薇の表情は一気に晴れあがる。仰向けのまま動揺する清香めがけてまっすぐに落下してくる。もう接触までいくらもない。


「もうっ!」


 あの満月のような笑顔を見ていたら段々腹が立ってきた。悪いのは向こうだって同じなんだから、こちらが一方的に殴られてやる理由なんて、


「どこにも無いんだからぁっ!」


 ハンドスプリングで勢いよく立ち上がり、真っ直ぐに落ちてくる紅薔薇の顔目がけて渾身の右ストレートを放つ!


「それでこそ清香さんです!」


 拳を振り上げた反動を使って清香は紅薔薇の拳を避ける。いまの一発は避けることを主眼に置いた一撃。清香の狙い通り互いの拳は空を切る。軽やかに着地する紅薔薇。清香は大きく間合いを離す。


「そうよ! あんたなんかに負けるもんですか!」


 人差し指を突きつけて見得を切ったところでふと気付く。


「あれ、足?」


 挫いて脳天まで突き抜けるような激痛が居座っていた右足は、全く問題なく走ることができた。不思議に思ってると口が勝手に開き、デュオラの声で勝手に喋った。


『わたしが治したわ。練習しておいて良かった』

「わあっ! なんで!? デュオラの声?!」

『そうよ。少し不便かも知れないけど、」

「そんなことより、春嵐丸はどこへ行ったのよ!」

『あなたがいま身につけてる毛皮に変身してるわ。命に危険は無いから安心して』


 自分の口から発せられた言葉に、全身総毛立った。


「安心なんか出来るわけ無いでしょ! 宇宙人だかなんだか知らないけど、ひとのともだちにこんなことさせてあんた、何様のつもりよ!」

『……分かったわ。一度解除する』


 デュオラの嘆息の後、清香のからだをもう一度朱い光が包み、はじけると彼女の肩には春嵐丸の姿があった。


「にゃあんっ」


 元気な啼き声に安心しつつも清香は春嵐丸を両手で抱えて自分の顔の前まで運ぶ。


「大丈夫? 痛いところも苦しいところも無い?」

「にゃんっ」


 いつものきらきらした目。毛づやもきれいだ。声だって元気いっぱい。安心すると同時に湧き上がってくるのは、疑問と窘めの気持ちだった。


「なんで、こんなことするのよ」

『彼が言い出したの。「サヤカを助けたい」って』


 デュオラからすれば通訳を買って出ただけなのだが、清香からすればそれは余計なお世話でしかなかった。


「あんたに訊いてない!」

『じゃあどうやって答えればいいのよ』


 いいから黙ってて、と釘を刺してもう一度問いかける。


「……本当なの? 春嵐丸」

「にゃ」


 飼い猫はよくひとの言葉を無視するが、それは理解しているからだと清香は思う。

 だから信じられる。

 春嵐丸と同居して一年足らず。

 特別なことは何もしていないのに。こんな姿になってまで助けようとしてくれるなんて。

 泣きそうになったが、紅薔薇の前で涙を見せるのはもっとイヤだった。


「少しでもイヤな気持ちになったら、すぐに言ってよ」

「にゃ」

「……………………ん。分かった。ありがと。ほんとにごめん」

「にゃあん」


 嬉しそうに、照れくさそうに啼く春嵐丸の姿がせめてもの救いだ。


「デュオラ、いいわね。ちょっとでも春嵐丸が辛い思いをしたなら、あたしはあんたを絶対に赦さないから」

『それでいいわ。いきなり色々押しつけておいて何の責めも受けないんじゃ、釣り合いがとれないからね』


 少しは話の通じる相手なのかも、と一瞬だけ思った。


「……すごいイヤだけど、いいわ。もう一回やってあげる」


 攻撃するチャンスならいくらでもあったのに、それをやらない紅薔薇にほんのちょっぴりだけ感心した。勿論そんなことで燃えさかる怒りの炎に翳りが出るはずも無いのだが。


「春嵐丸に免じて、だからね」


 言葉の最後に紅薔薇を見たのは、清香には深い意味があってのことではない。けれど紅薔薇は顔を逸らし、唇をきつく結んだ。

 その仕草は清香の怒りを加速させるのに十分な燃料となった。


「で? 決闘は再開でいいのね」

「……え、ええ。そうですわ。同じ力を得たのなら、一切の手加減は無用になりましたから。お覚悟なさいませ! おーっほほほ!」


 口元に手の甲を寄せて高らかに笑う。

 もう容赦するもんか。


「分かったわ。ごめんなさいするまで、絶対に赦さないから!」

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