第3話 異邦人は流れ星に乗って 3

 一方、ふたりと別れた清香は、どことも知れない住宅地の路地を歩いていた。

 暑いのは平気だが、じりじりと照りつける日差しは、やはり遠慮したい。あんなことがあったせいで日焼け止めも塗っていないから余計に日陰を選んでしまう。

 時折振り返ってみても、この暑さのせいなのか小学生も猫の子一匹も愛弓(あゆみ)の姿も見かけない。


「じゃあね、って言っちゃったしな……」


 ひとりになって少し冷静になった。

 あいつは子どもっぽいことをしたけど、あたしは大人げない対応をした。

 行き着いた結論に一応の納得は見せたものの、やはり紅薔薇(べにばら)を許すことはできない。


「三人で遊ぼう、って言ったのはあたしだけどさ、額面通りに受け取る莫迦がどこにいるのよ」

 あいつが貸し切りにした所為で、今日しか市民プールに来れないひとはひどくショックを受けただろう。

 自分たちが遊ぶことよりも、自分たちのせいで誰かが傷ついたかも、と思ったから、あんな風に怒鳴り散らしてしまった。

 けれど、全部のきっかけが自分にあることが耐えきれなくて怒鳴った自分も確かに居る。

 そういう意気地なしな自分がもっといやになる。

 自己嫌悪に陥る前に、こっそりと紅薔薇へ責任をなすりつけておこう。


「こっちの世界に馴染まないあいつが悪いんだ。絶対っ」


 本物の上流階級だけが暮らす天上の世界から、玉石混合な生活が広がる下界へふらりとやってきた、正真正銘掛け値なしのお嬢様の紅薔薇だが、彼女が突拍子もないことをやるのは何も今日が初めてではない。

 それでも入学したての頃は、それこそ借りてきた猫のようにおとなしくしていたと思う。

 最初に問題を起こしたのは五月の連休が明けてすぐ。

 それから彼女は一日おきに何かしらトラブルを起こし、週に一回は清香にどやされていた。二年生に上がった頃にはそれが一ヶ月に一回になり、今年に入ってからはまだ一度も問題を起こしていない。

 安心しきっていたし、だからこそ油断もしていた。


「も~~~っ!」


 天を仰いで絶叫してみても心のもやもやは晴れず、押しつぶされそうな熱波に体力を浪費しただけに終わった。


「こんなに暑いのもあいつのせいだ。絶対」


 ぐずぐず言いながら歩き出すと、携帯電話がメールを受信した。


「あいつだったらぶん殴ってやる」


 憤然としながらメールを一読し、もやもやは少し晴れた。


『紅(べに)ちゃん反省してるよ。会いに来たら許してあげなよ』


 自分だって腹を立てているだろうに、仲裁役をやってくれる愛弓はやっぱりいいやつだ。


「謝り方次第だよ、っと」


 愛弓のことを思い出したら少し元気が出た。

 ケンカ別れした過去はもうどうにも出来ない。ならば謝ってきたあいつをいかに許すか、だ。

 あんな大見得を切っておいて、簡単に許すのは絶対にかっこわるい。

 あいつが謝って謝って、わんわん涙流すまで謝らせてからそっと肩に手を置いて、慈悲深い顔で

「もう謝らなくていいってば」―うん。これだ。


「……ばかみたい」


 そんなことして欲しいんじゃないのに。

 今日はただあいつと愛弓と三人で遊びたかっただけなのに。

 夏休みが終わればイヤでも大学受験が現実味を帯びてくる。その前にたっぷりじっくり遊んで、これから先の糧にしようと思っていたのに。

 ふわ、とどこからかオレンジの香りが漂ってきた。言われるまでもなく、ポケットにしまったままのハンカチからだ。


「……なによ。こんなのまで用意して……」


 あいつが今日のことをどれだけ楽しみにしていたのか、この一枚で十分推し量れる。

 それをぶち壊したのは自分だ。


「もう、やだ」


 いっそ泣き出してしまいたい。

 愛弓みたいにいつも笑っていたいのに。

 紅薔薇みたいにいつも自信たっぷりでいたいのに。

 何で自分はいつもこんなに融通が利かないんだろう……。


「にゃあっ」


 足もとから、聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。

 はっとなって、下を見れば春嵐丸(しゅんらんまる)がくるくると踊っている。

 彼のひと声で自己嫌悪の闇は払われた。感謝しつつ抱き上げて顔を寄せる。


「なに、春嵐丸。励ましてくれてるの?」

「にゃ」

「なまいきだ、ぞ」

「うにゃ」


 よいしょ、と頭に乗せて一緒に帰ることにした。

 心が少し落ち着くと、どたばたと家の中ではしゃぎ回る子どもたちの叫声や、準備を始めた昼食の香りが感じられるようになった。ふと掠めた焦げたソースの匂いが焼きそばを連想させ、空腹感と共に怒りがぶり返してきた。

 今日は三人ではしゃぎ回ったり、かき氷や焼きそばを食べたりする予定だったのに。自分がへそを曲げなければ、と正論が首をもたげる。


「だめだめ。あくまでも悪いのはあいつなんだから」


 湧き上がった正論をもみ消すように頭を振ると、


「にゃにゃっ」


 頭の上でだらりと伸びていた春嵐丸がアスファルトへと落ちていった。


「あ、ごめん。忘れてた」

「にゃうっ」


 自分へ反論したのかと思ったが、どうやら違う。視線は油断無く周囲に飛び、顔を低くヒゲをひくひくと振るわせ、しっぽは高くぴんと伸ばしている。狩りの姿勢だ。


「……?」


 半野良の春嵐丸は清香にもらう猫缶以外にも自分で食料を調達する。外でネズミを狩っているところを偶然目撃したことがある清香だが、それらの狩りとは少し違うように感じた。

 ひゅっ、という風切り音と共に、耳元を石粒が掠めていった。


「わっ!」


 驚く清香とは対照的に春嵐丸は狩りの体勢を崩さない。危ないなあ、と背後を振り返っても悪ガキの姿は見えず、不気味な静寂だけがあった。顔を戻したそこへ、石粒が目の前を猛スピードで横切る。


「わわっ!」


 地を滑る蛇のように、空を切り裂く蜂のように飛ぶ石粒を春嵐丸は全身の感覚を研ぎ澄まして捕捉し続ける。接触は一度きり。一撃必殺で仕留めなければ自分が反撃に遭うことを、彼は骨身に染みて理解している。

 狩りの邪魔をしてはいけない、と清香はゆっくりとブロック塀に背中を寄せ、春嵐丸の視野をさらに広げた。その刹那、石粒が清香の喉元目がけて迫ってくる!


「うにゃあっ!」


 気合いの咆哮と共に春嵐丸がジャンプ。石粒と清香の中間に割り込み、自慢の右パンチを繰り出す!


「にゃふっ!」


 どさり、と灼けたアスファルトに落ちたのは春嵐丸だった。


「春嵐丸!」


 石粒のことはどうでもいい。いまは勇敢な同居人だ。しゃがみ込んで抱き上げると、気絶しているだけだった。


「びっくりさせないでよ、もう……」


 抱いたままゆっくりと歩き出す。掛かり付けの動物病院へは母に車を出してもらう必要があるので、どちらにしても一度家に帰らなければいけない。手の中の同居人はお腹を緩やかに上下させ、寝言のような小さな声を漏らしている。


「寝ちゃったか。良かった」


 家まではあと五分ほど。お昼ご飯は何にしよう、とぼんやり考えながら歩く。


「うにゃっ?!」


 急に顔を上げて清香の手の中で立ち上がり、慌ただしく周囲を見回す。そして清香の顔を見つけると、


『しまった~。この子に入っちゃったか~』


 喋った。女の声で。


「えぇっ?!」

『も~~、こんな体じゃ何にもできないじゃないっ』


 何が起こっているのか分からない。春嵐丸は男の子で、猫で、いままで一度も喋ったことなんか無くって。

 混乱する頭がとにかく情報を求めてくるにも関わらず、口は何を言えばいいのか分からない。落ち着け、落ち着け、と繰り返して念じてみるが混乱は一向に収まらず、ついに自分の手の上で悔しそうにしている春嵐丸に助けを求めた。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!」

『あ、ごめん。なに?』

「あんた、誰!」


 春嵐丸は清香の顔を見つめ、うにゃうにゃと何か呟いて、意を決したように言った。


『私はデュオラ。六次元世界からやってきてこの猫くんの体の中にいるわ。信じなくてもいいけど、手伝って欲しいことがあるの』


 目の前で起こっている状況がどうであれ、こんなにも胡散臭い話はない。


「やだ」

『即答しないでよ!』

「あたしいま、ともだちと大げんかしてすっごい機嫌悪いの。宇宙人だか幽霊だか知らないけど、春嵐丸の中にいるなら、いますぐ出て行って他を、」

「うにゃあぁっ!」


 突如春嵐丸が怒り声をあげてアスファルトへ飛び降り、一目散に駆けだしていく。


「ちょっと春嵐丸!」

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