第2話 異邦人は流れ星に乗って 2

 手早く丁寧に道場の掃除を済ませ、春嵐丸にとっておきの猫缶を用意すると、シャワーもドライヤーもそこそこに清香は家を飛び出していった。


 集合場所は駅前のバスロータリー。三路線が乗り入れるこの野穂駅は市民や物流の拠点として栄え、近年改修が終わった駅ビル内の店舗も含めて清香たちもよく利用している。

 レモン色のパーカーにライトグリーンのTシャツ、水色のハーフパンツに着替えた清香は、水泳用具一式を詰め込んだナップザックを右肩に背負い、家からロータリーまでの約三十分の距離を走ってきた。


「お待たせー」

「清ちゃんおっそーいー。十一時に集合、っていったじゃない~。待ちくたびれちゃったよぉ」


 柴犬のイラストがプリントされたバッグをぶんぶん振り回しながら口を尖らせているのは、幼なじ

みでクラスメイトの藤枝愛弓。

 この日のために買った白いワンピースと、同じく白の麦わら帽子が、強く降り注ぐ日差しの中でも涼しげに見せる。


「ごめんごめん。春嵐丸が連れてけ、って駄々こねるからさ」

「まあ。春嵐丸さんが我が儘を仰るなんて、珍しいですわね」


 目を丸くして感心したのは、紅薔薇フォーゼンレイム。すらりとした長身に加え、艶と潤いをたっぷり含んだ黒のロングヘアは老若男女を問わず感嘆の吐息を誘うほど。

 日光に弱い瞳を大きめのサングラスで保護し、精緻な薔薇の刺繍の施された日傘を肩に掛け、楚々とした水色のブラウスとスカートは三人揃って同じ店で買い揃えたものだ。


「なぁんだ。いないのか。せっかく春ちゃんにいいもの持ってきたのに」


 バッグのポケットからささみの真空パックを取りだして唇を尖らせる。そういう仕草に嫌みやあざとさを感じないのは彼女の人徳だろう。


「いいって、そういうの。それに餌付けなんかしなくてももう十分仲良しじゃない」

「そういう問題じゃないの。分かってない清ちゃんにはこれ」


 差し出したのはスポーツドリンクのペットボトル。


「ありがと。さすが愛弓」

「でしょ。ちゃんと時間合わせて温くならないようにしたんだから」


 ふふん、と自慢げに胸を反らせる愛弓にもう一度礼を言って、清香は遠慮無くスポーツドリンクをごくごくと飲み始める。見事な飲みっぷりに、愛弓は思わず拍手した。


「ん? ってことはあたしが遅刻してくるのは予想済み、ってこと?」

「まぁね。清ちゃん朝弱いから」

「もうっ」


 そんなふたりに微笑みかけながら、紅薔薇は清香にハンカチを差し出す。


「うふふ。春嵐丸さんなら連れていらしても良かったのに。あそこには動物用のプールもありますから」


 もらったハンカチで汗と口元を拭いて、清香はこう返した。


「あー、だめよだめだめ。あいつ猫のくせに水浴びとかお風呂とか大好きだからさ。一回贅沢覚えさせたら、毎日連れてけって騒ぐに決まってるから」

「仲がよろしいんですのね。少し妬けてしまいますわ」


 サングラスを少しずらしてウインクをするものだから、清香は少しどきどきしてしまった。


「ば、ばか、なに言ってるの」

「あ、清ちゃん照れてる~」

「照れてないっ」


 囃し立てる愛弓の気を逸らそうと、清香は話題を変えた。


「このハンカチ、いい香りするわね。何の香り?」

「オレンジをベースに、清香さんの快活なイメージで調合しました。気に入ったなら差し上げますわ」

「いいよいいよ。洗って返すから、今日は借りておく」

「でもすごいねー、紅ちゃんってアロマオイルの調合も出来るんだ」

「趣味程度ですわ。ちなみに、愛弓さんのもあります」

「え、どんなの? 見せて見せて」


 うふふ、と微笑みながら取り出したハンカチは、ミントの溌剌とした香りがした。


「わー、いい香り。暑さも吹き飛ぶよ」

「愛弓さんはいつも元気いっぱいですから。香りもそのように調合しました」

「にゃふふ。紅ちゃんは分かってるね~」


 清香がハンカチをじっと見つめている様子を、目ざとく見つけた愛弓が改めて囃し立てる。


「どしたのさ、清ちゃん。紅ちゃんのプレゼントがそんなに嬉しいの?」

「そ、そ、そうじゃないわよ! あたしのイメージ、ってこんななんだ、って思っただけよ!」

「へ~、そうなんだ~」

「なによ、その言い方」

「べっつに~? 清ちゃんって昔からすぐ表情に出るよね、って話~」


 こういう時の幼なじみは厄介だ、と清香はいつも思う。図星を突かれた動揺で上手い返しが思いつかなかったので、一番シンプルな言葉を選んだ。


「もう、ばかっ」


 睨まれても愛弓は涼しい顔だ。それどころか、


「でもさ、紅ちゃんの中で清ちゃんって結構美化されてるよね」

「どういう意味ですの?」

「だって清ちゃんって春ちゃんより猫っぽいんだもん。ダメな方の意味で」

「なによそれ」

「そんなの、胸に手を当てて考えてみたら? あ、紅ちゃんが清ちゃんのに当ててもいいけど」


 その姿を想像し、うん、と一度頷いてから急激に頬が額が赤くなっていく。


「な、な、何言ってるのよ!」

「えー、いいじゃない。ハグの延長みたいなもんだよ」

「全然違う!」


 まあまあ、と紅薔薇が宥める。


「ほら皆さん、バスが来たようですわね」


 うん、と頷いて清香はバッグを背負いなおした。


 このときに気付いておくべきだったんだ。

 夏休みまっただ中の今日、市民プールへ直通するこの停留所に、自分達以外誰ひとり並んでいなかったことに。



 三人が向かう市民プールを、そこらに転がっている市民プールと侮ってはいけない。

 一日かけても遊び尽くせないほど広大な敷地と、高級ホテルや遊園地まで完備された総合レジャー施設でありながら、市民であれば、高校生の料金は五百円と破格なのだ。


「……なんで誰もいないの?」


 直通バスを降りればすぐに、普通の市民プールだった頃のまま使われている手狭な入り口があり、すぐに更衣室へと続く。そこを通ればレイム社が総力をあげて造ったプールの数々が来場客を待ちわびている。

 繰り返すが今日は夏休みど真ん中。最高気温三十七度の予報が出ている絶好のプール日よりなのに。ちびっ子ひとり姿が見えない。

 ふいに紅薔薇が入り口の前に躍り出て、優雅にお辞儀する。


「今日はオーナー権限で貸し切りにいたしましたわ」


レイム社の社長令嬢にして、自らが一から興したいくつもの会社の経営を行う敏腕社長。それが紅薔薇のもうひとつの顔だ。


「はい?」

「三人で遊ぼう、とのご提案でしたので」


 なんでこいつはいつもこうなんだろう。

 胎教から義務教育までを家庭教師で済ませた紅薔薇にとって、清香たち庶民と触れ合うのは高校に入学してからが初めてだ。

 いままでもこういったトラブルは多々あったが、その度に清香と愛弓の尽力で事なきを得ていたし、二年生になってからは無闇に権力を行使することは無かったので、清香たちも安心していたのに。


「何で貸し切りになんかするのよ」


 固い声だった。


「えっと、清香さん? 怒ってらっしゃるのですか?」


 不思議そうに顔をのぞき込まれて清香は、ばっ、と顔を逸らした。


「分からないならいい。もう帰る」


 パーカーのフードを深く被り、きびすを返して歩き出した。


「ちょっと、清ちゃん!」


 愛弓が呼び止めるが、清香は無視してずんずん進む。帰りのバス停は、市民プール入り口前の道路にある横断歩道を渡らなければいけない。清香が横断歩道に到着すると青信号は点滅を始めていた。怒りにまかせてダッシュで渡りきる。


「待っててよ! 先にバスに乗ったら怒るからね!」


 愛弓たちが到着したときにはもう赤信号に変わってしまった。


「なにを怒ってらっしゃるのですか?! 教えてくださいまし!」


 紅薔薇は清香の怒りの原因が分からず、すっかり混乱している。


「うるさい! あんたが余計なことするから怒ってるの!」

「余計な……? ここを貸し切ったことですか!?」

「それ以外の何があるって言うのよ!」


 片側二車線の道路を挟んでの口論は、清香のいる停留所へバスが到着したことで中断された。


「ダメだからね! 待っててよ!」


 信号は一向に変わる気配を見せず、愛弓の声も届いたかどうか。

 エンジン音を残してバスが去っていく。清香はまだいた。愛弓は、ほっ、と胸をなで下ろし、信号が変わるや否や紅薔薇たちは走り出した。

 駆け寄りながら、バス停のベンチに座る清香へ紅薔薇が問いかける。


「どういう意味ですの!」

「うるさい」


 じろりと凄まれて紅薔薇は大きく後退し、遅れてきた愛弓の後ろに隠れてしまった。


「も~~~、なんでそうやってすぐに拗ねるのよ、清ちゃんは~~~っ!」


 愛弓の不満も深く被ったフードに遮られ、結局三人は無言のまま次のバスに乗り込み、三人バラバラに座って野穂駅まで帰っていった。






 野穂駅のバスロータリーに三人が戻ってきた時、時計の針は十一時三十分を指していた。

 アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち上り、したたり落ちた汗もすぐに蒸発してしまう。


「いい加減ふたりとも機嫌直してよ~~」


 渋面を作るのは愛弓。

 バスを降りた足で清ちゃん帰っちゃうんだろうな、と半ば諦めていた愛弓だが、清香は何故か乗ってきたバスが去った後も停留所に残っていた。

 だったらこの際色々とわだかまりを吐き出してもらおうと、バッグに入れておいたタオルを首に巻いて説得を始めた。


「そうは行きませんわ、愛弓さん」


 口火を切ったのは紅薔薇。困惑していた気持ちは、バスに揺られる間に整理され、いまは清香への憤りに切り替わっていた。


「わたくしはわたくしが出来る最善を尽くしたのです。それを無下に否定されては、いかに大親友の清香さんと言えども、そうそう怒りを収めることなどとてもできません」

「全部あんたが悪いんじゃない」


 低く、押し殺した反論は当然清香。パーカーのフードを深く被り、ふたりと目を合わせようともしない。


「悪いとはなんですか」


 紅薔薇も善意を台無しにされて僅かな憤りを見せている。

 それが余計に清香の怒りへ油を注ぐ。眉を吊り上げて一気に詰め寄り、ビンタをする代わりに胸ぐらを掴んで怒鳴る。


「あんたまだ分かってないの?! 超セレブのあんたが生まれ育った環境の流儀がどうだか知らないけど、あたしたちの遊び場で遊ぶってことは、あたしたちの流儀に合わせることだって何回も言ってるじゃない!」


 ここまで強く怒りをぶつけるのはお互い初めてだ。

 清香の怒りの根源は、自分たちのせいで無関係な他人を大勢巻き込んだことにある。


「わたくしなりに、おふたりに合わせたつもりですわ!」


 反論は、清香の怒りを憤怒に変えてしまった。


「なによそれ……っ! あたしが、いつ、あんたの世界の住人になったって言うのよ!」

「ど、どういう意味ですの? わたくしは、そのようなことを強いたつもりはありませんっ」

「強いたじゃないの! あんなところで遊ばせようなんて、セレブの傲慢にもほどがあるわ!」


 紅薔薇にすれば全く意味が分からない。今日の約束を提案したのは愛弓だし、話を進める間清香も目を輝かせていた。だから三人で誰にも邪魔をされないよう貸し切りにしたのに、その意図がまるで伝わっていないのだから。

 もういいですわ、と紅薔薇は自らの困惑をねじ伏せ、きっぱりと言った。


「正直申し上げてわたくしは、清香さんが仰る友情とは別のものをイメージしてお付き合いしていたようですわね。そのような状態だったことに気付かず、善意を受け入れていただこう、なんて思い上がっていましたわ!」

「なによその言い方! 自分を責めるフリして結局あたしを責めてるんじゃない!」

「あら。お気付きになったようで安心しましたわ。さすがわたくしの認めた方」

「ばかにするんじゃ、ないわよ!」


 投げ捨てるように紅薔薇から手を離し、


「あんたが余計なことしなきゃ、いまごろみんなで楽しく泳いでたんじゃない!」


 きびすを返して足音強く歩き出す。


「ちょっと清ちゃん、いいの?」


 残念そうに愛弓が追いかけて呼び止める。彼女にも不快な思いをさせてしまったことが、清香をさらなる自責の念へと駆り立てる。


「うん。ごめん。愛弓だって楽しみにしてたのに」

「それはいいんだけどさ」

「また今度ね。じゃあ」


 苦しそうに清香は歩き出す。

 もう、と愛弓は追うのを止めた。長い付き合いからこういうときの清香はひとりにした方がいいと知っている。でもメールぐらいは出しておかないともっと拗ねるので注意が必要だ。

 高校に入ってからの付き合いになる紅薔薇はそれをまだ知らないので、清香が去ったのとは逆方向を向いて見送ろうともしなかった。

 まったくもう、と愛弓は鼻息荒く紅薔薇の前に出てじっと睨みつける。


「な、なんですの」

「紅ちゃんが謝らないでどうするの。悪気はなくても清ちゃん怒らせたのは事実なんだからさ」

「わたくしはなにも悪いことなんか……」

「悪いことじゃなくても、正しいことじゃない、だよ。お金でワガママ通すなんて」


 愛弓にまで断罪されて紅薔薇は唇をきゅっ、と強く結んだ。

 彼女がやったことはもう仕方ないとして、このまま放置しても何も良い結果に結びつかないと判断し、愛弓は一計を案じた。


「うん。紅ちゃんを責めるつもりはないよ。でもさ、いまでも本当に、自分が正しいことをした、って思ってる?」

「分かりません。清香さんがあそこまでお怒りになっているのかも含めて」

「……んー、じゃあね。全部教えちゃうのはフェアじゃないからヒントだけね」


 こくりと頷く。謝るにしても、清香が何に対して怒っているのかを理解しておかなければいけないから。


「じゃあ言うよ。ああ見えて清ちゃんはとっても優しいひと。これが限界かな」

「そんなことは重々承知しておりますわ」

「ウソ言っちゃだめ。知ってたらあんなことはしない。絶対」


 断言されて、紅薔薇はさらなる思考の迷宮に迷い込んでしまった。


「どう、結びつくのです……?」

「それは答えられないよ。わたしからの宿題。いままで紅ちゃんが清ちゃんに怒られたことが過去問ね。でも答え合わせは清ちゃんしか出来ないから、注意してね」

「……はい」


 優しく諭されて紅薔薇はこの場で迷宮から脱出することを中断することにした。


「こんな炎天下で考えても、きっと良い答えは浮かびません。清香さんのことはひとりで考えること

にしますわ」

「うん。そうした方がいいかもね」


 実のところ愛弓も、この押しつぶされそうな熱気にうんざりしていたところだった。

 紅薔薇は携帯電話を取り出し、繋ぐ。


「わたくしです。……そうです。プールは開放してください。今日は歩いて帰りますから、黒夜叉を連れてきてください。わたくしは駅前のロータリーにいます。……ええ、ええ。歩くと言っているでしょうっ」


 少し苛立ちながら通話を終え、ぺこりと会釈する。


「わたくしはここで黒夜叉を待ちます。ごきげんよう、愛弓さん」

「わかった。でもちゃんと謝るんだよ? 二学期始まって、三人バラバラにお弁当食べる事になってもわたし、知らないからね」


 さすがにこれは堪えたのか、僅かによろめく。


「わたしだってケンカしてるどっちかに肩入れなんて出来ないもん」


 さらなる追い打ちに紅薔薇はさすがに恐怖を覚えた。


「だとしても、筋違いの謝罪をしたところで清香さんはきっと許しては下さらないと思います」

「そこを分かってるならいいや。でもね、謝るなら早くにしないと、清ちゃんずーっと許してくれないよ」

「心に留めておきますわ」


 なら大丈夫だろう。愛弓もそれ以上の追い込みをしなかった。


「じゃあわたしも帰るよ。暑くて疲れちゃったから。黒ちゃんにもよろしく」


 手をひらひらと振って歩き出す。


「ええ。ごきげんよう」


 会釈を受けて愛弓は二、三歩歩き出す。ふいに足を止めてくるりと振り返り、少し真剣な声色でこう言い残した。


「わたしだっちょびっとは怒ってるんだからね」


 会釈した紅薔薇の笑顔が、音を立てて固まった。


「にゃふふふふ。じゃあね~」


 一番見たかったものが見れた愛弓は口元に手を当てて笑い、軽い足取りで帰路についた。

 完全にカウンターとなった最後のひと言に衝撃を受けた紅薔薇は、呼びつけた執事が到着するまでぴくりとも動けなかった。

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