ひねくれ猫の変愛と次元の迷い子たち

月川 ふ黒ウ

第1話 異邦人は流れ星に乗って 1

 栗原道場。

 野穂市に古くから根付く武術の道場だ。

 手狭ではあるがよく整備された道場を構え、今日も朝早くから、白の道着に紺袴を纏った少女がひとりで拳術の稽古に励んでいる。


「はぁっ!」


 右の正拳を放つ。振り抜いた反動で散った汗が差し込む朝日を反射しながら床に落ちる。

 名は栗原清香。

 太めの眉と、切れ長の目が印象的だ。

 清香が毎朝の稽古を行う際にイメージする相手はいつも決まっている。

 身長は自分よりもたっぷり頭ひとつ分高くてスタイルも良くて、リーチも容姿も顔の造作も全てが上。道着を着ればどんな猛者だって軽々とやっつけてしまうのに、普段はそんなことを微塵も感じさせないのに。いつもうふふ、と穏やかに笑っていて、


『腰が入っていませんわ!』


 イメージの中のあいつが警告する。いけない。いまは稽古の最中だ。


「せっ!」


 あいつが繰り出すジャブを左手で払いながら、あいつの左側に回り込む。そのまま右拳に力を込め、脇腹へたたき込む。しかし手応えがない。イメージのあいつは、拳を払われた勢いを使って前進、さらに加速して清香の拳を回避したのだ。


「っ?!」


 イメージにしても度が過ぎる。


「シッ!」


 動揺を振り払うように、後頭部へのハイキック。ほぼ死角からの攻撃に、あいつはしゃがんで避ける。振り払ったはずの動揺は、あいつが放つ足払いへと変換されて清香は背中からダウン。そこへあいつが馬乗りになって拳を振り下ろす―


「はあぁっ」


 深いため息であいつのイメージを消し、稽古を終了する。

 負けた。この稽古で多分百敗はしてると思う。

 あいつの設定を強くし過ぎているのだろうか。

 いくらあいつでも、あそこまでの芸当は出来ないだろうけど、イメージの中のあいつは軽々とやってのける。一度リセットするためにも、本人と組み手をやった方がいいのだろうけど、自分から誘うなんて恥ずかしくてとてもできない。

 矛盾に呆れつつ、ぼんやりと天井を見つめる。浮かぶのはあいつのしとやかな笑顔だ。


「なんで、あいつの顔が……」


 まだ稽古の余韻が残っているのだろうか。だったら自分の顔が赤くなっていることにも理由がつく。だってあいつはともだちなんだから。


「よっ、と」


 あいつへの想いを封じ込めるように立ち上がって道着を直し、神棚と菖蒲の描かれた掛け軸のある上座へ向かって正座をして深く礼をする。


「ありがとうございましたっ!」


 あとは床掃除で今日の稽古は終わり。外の空気を入れようと、締め切った木戸を開ける。


「にゃっ」


 愛らしい鳴き声に呼ばれて足もとを見れば、茶虎柄の猫が姿勢良く座っていた。栗原家の居候猫、春嵐丸だ。稽古が始まった頃からずっと、まるでナイトのように待ち続けていたのだ。


「おはよ、春嵐丸。ごはん?」


 抱き上げて自分の鼻で彼の鼻をつつくと、春嵐丸も嬉しそうに啼く。


「ん。じゃあ雑巾がけするからちょっと待ってて」

「にゃぁん」

「ありがと」


 期待に目を輝かせる春嵐丸を下ろして頭を撫で、雑巾がけを始める前に廊下から庭に降りて空を見上げる。


「うん。暑いけどいい天気。プール入ったら気持ちよさそう」


 今日はこれから友人たちと市民プールへ遊びに行く予定だ。

 終業式が終わった足で駅前のショッピングモールで水着と着ていく服を新調し、柄にもなく部屋のカレンダーに二重丸を付け、毎朝それを眺めてはほくそ笑んでいた。

 自分でもちょっと気味悪いぐらいに楽しみにしていた日が、ついにやってきたのだ。


「にゃっ」

「言っとくけど、あんたは留守番だからね」

「にゃぁっ!」

「文句言わないの。あんな人がいっぱいいて滅茶苦茶広いところ、あんたが行ったらすぐ迷子になって誰かに踏んづけられちゃうんだから」

「にゃうぅ~」


 うなだれる仕草が何とも言えず愛らしい。しょうがないなぁ、とひとつ提案する。


「あんたとは明日いっぱい遊ぶからさ、機嫌なおしてよ」


 本当か? といぶかしげに視線を向ける春嵐丸。本当だってば、とにんまり笑う清香。ならいい、と鼻を鳴らしてその場に寝そべった。


「あ、朝ご飯ね。えーと……」


 母さんにもらってきて、と言いかけたが、じろり、と強く睨まれたので清香は苦笑するしかなかった。


「分かったわよ。ちゃちゃっと済ませるから」

「にゃっ」

「ん」もう一度春嵐丸の頭を撫でて、「よしっ、やるか」ぐい、と袖まくりする。


 空を見上げる笑顔が、強い日差しにきらりと輝いた。

 今日は七月二十八日。時刻は午前十時三十九分。

 夏休みはまだ始まったばかりだ。

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