22nd Attack: 震盪

 山城やましろ野々香ののかは慌てていた。

 あまりに一瞬の出来事だったので、野々香にはなすすべが無かった。何のフォローもできなかった。単に見ていることしかできなかった。

 瑠衣るいと自転車の練習を始めて数分。片足をペダルに乗せた状態で、もう片方の足で地面を蹴る。言うなればけんけんするような形でようやく両脚を地面から離せたと思った矢先――


 風が吹いた。


 別に突風という訳ではない。桜の花びらを舞い上がらせるには十分だが、大きな旗をたなびかせるには力が足りない。


 普段なら、ほんのちょっと強いなと感じる程度の取るに足らない風。


 しかし、瑠衣のバランスを崩すには十分だった。自転車がぐらついたと思った次の瞬間、彼女は地面に投げ出されていた。

「佐渡さん! 大丈夫!?」

 野々香は瑠衣のそばにしゃがみ込んだ。

「ううぅ……」

 か細い声で瑠衣がうめいている。彼女は右肩を下にする形で地面にうずくまっていた。

「どこか痛いの? 打撲は? すり傷は!?」

 しかし、瑠衣は何を言っているのか分からない喘ぎ声を漏らすだけで、どんな感じなのかがまったく伝わってこない。

 こんなときにどうすればいいのか分からず、野々香は今にも泣き出しそうだった。

 瑠衣が落車したとき、ヘルメットもプロテクターも着けておらず、衝撃に対して完全に無防備な状態。最悪の事態が野々香の脳裏をよぎる。


 どこか骨折していたら? 内出血していたら? 頭を打っていたら……?

 私は何をすればいい。どうすればいい。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……!


 野々香はパニックに陥っていた。

 まずは不明瞭な意識をどうにかしなければ。野々香が瑠衣の体を揺すろうとしたまさにそのときだった。

「動かしたら、ハァ、ハァ……ダメだ!」

 聞き覚えのある声がしたかと思うと、半袖ランニングシャツにハーフパンツの格好をした男が駆け寄ってきた。彼は背中に小型のリュックを背負っている。

「あんた……フラーレン!」

 小平こだいら智哉ともやだった。その辺を走っていたのか肌が汗ばんでおり、息が上がっている。

「野々香ちゃん! それに……瑠衣ちゃん!?」

「こんなとこで何してるの!?」

「そんなことより、瑠衣ちゃんが先!」

「あ……うん!」

 智哉はリュックサックを地面に置くと、二人の元へと駆け寄った。瑠衣の口元に耳を寄せた後、その細い手首をとる。

「ど、どうしよう。佐渡さん、意識が朦朧もうろうとしてるみたい……」

「呼吸と脈拍は問題ない」

 智也は顔を上げると、「瑠衣ちゃーん! 俺のことが分かるー?」と叫び始めた。野々香に瑠衣の声は聞こえなかったが、彼女が小さく頷いたように見えた。

「大丈夫、俺の言葉に反応してる。意識もちゃんとあるよ」

 智哉は、野々香を安心させるようにゆっくりと言った。

 人が来てくれたという安心感と、その人が智哉だったという不安感が入り交じり、野々香の涙は止まらない。

 しかし、そんな野々香の見せる激しい動揺とは裏腹に、智哉は実に冷静だった。

「落ち着いて。俺のバッグに救急セットが入ってるから出してくれる?」

「救急セット? なんでそんなものが?」

「そんなこと今はどうでもいいから、早く出して」

 早くと野々香をせかしてはいるが、智哉の声はやはり落ち着いている。

 野々香はバッグの中をまさぐった。何やら箱が二つ入っている。どっちが智哉の救急セットか分からなかったので、両方とも取り出した。

 一つはオレンジ色の箱だ。表面には白いハートマーク、その上になぜか稲妻が描かれている。もう一方の箱には赤十字のマーク。

 ちょっと冷静であればどちらが救急セットかは一目瞭然なのだが、今の野々香はテンパっていてどっちがどっちだか分からなくなっていた。

 その間に、智哉はゆっくりと瑠衣の体を仰向けの状態にしていた。

「フラーレン、救急セットってどっち!?」

 両手に箱を持って、野々香は智哉に見せる。

「右手右手! そっちの中からガーゼと消毒液を用意しといて」

「分かった!」

 野々香が救急セットの箱を開けたとき、瑠衣がようやく意味のある言葉を発した。

「……小平……君……ごめんね」

 とても弱々しい声。まるで遠くを眺めるように、瑠衣の目は細く開かれている。

「瑠衣ちゃん、よく聞いて。俺の質問に答えて。声が出せないなら頷くか首を振るだけでいい」

 瑠衣は首を小さく縦に動かした。

「頭は痛い?」

 智也の問いに、「少し」と瑠衣は弱々しい声で返事をする。

「吐き気はする?」「めまいは?」

 首を横に振る瑠衣。

「この顔は誰か覚えてる? できればフルネームで」

 智哉は野々香を指さしながら聞いた。

「……山城……野々香さん」

「そうだ」

 その後も、智哉は何個か質問を続けた。

 智哉に言われたとおりガーゼと消毒液を準備した野々香だったが、次に何をすべきかということまで考えが及ばず、ただただ二人のことを見つめることしか出来なかった。


 不甲斐ない。さっきから、後悔の念しか沸いてこない。

 自分はなんで佐渡さんの言い分を素直に聞いてしまったのだろう。ヘルメットやプロテクターを無理にでも着けさせていれば、衝撃を吸収できていたはずなのに。たとえ頭を打ったとしても、たいした事故にはならなかったはずなのに。

 なのに、私はつけなくてもいいなんて思ってしまった。

 自信過剰だった。

 昨日、転倒しそうになった佐渡さんを助け起こせた。だから今日も大丈夫だと慢心していた。でも、それは間違いだった――


 質問を終えると、智哉は少し安心した表情になった。

「大丈夫。頭はちょっと打ったかもしれないけど、軽いと思う」

「……何を調べてたんですか?」

 瑠衣の声はまだ小さかったが、落車直後に比べると随分生気が戻っていた。

脳震盪のうしんとうだよ」

「脳……震とう」

「瑠衣ちゃん、質問に答えてくれてありがとう。今は楽にしといて。傷の手当てをするから」

 智哉は野々香から消毒液とガーゼを受け取ると、傷の手当てを始めた。

「脳震とうって、アメフトとかサッカーでよく聞くあれ?」

「そうだよ。とても危険だ」

 テレビで見たことがある。選手同士が激しくぶつかってしまった後、しばらく動けなくなるやつだ。ロードレースでも、落車に巻き込まれた選手がストレッチャーに固定されて救急車で運ばれるシーンを野々香はたまに見ていた。

「脳震とうは、脳が強い衝撃を受けたとき一時的に発生する脳機能障害なんだ。一般的には交通事故や階段からの転落によって発生することが多いけど、激しいコンタクトのあるスポーツ選手は特に脳震とうのリスクが高い」

 野々香は、あまりにも難しいことをすらすらと説明する智哉に驚いた。

「でも、落車したとき、速度ほぼだったよ? ママチャリで転んだだけだよ?」

「野々香ちゃん、脳震とうを甘く見ちゃいけない。ちょっと転んだだけだと言って軽視すると、大変なことになりかねない」

 手際よく傷の手当てを続けながら、智哉は脳震とうの更なる危険性について語り出した。

「セカンドインパクト症候群って聞いたことある?」

「ないけど……」

「脳震とうは一回なるだけでも十分危ないけど、二回目になるとさらに重症になるリスクが高くなるんだ。例え二回目が軽い脳震とうだったとしてもね。下手すれば死ぬ」

「そんな!」

「もっとも、瑠衣ちゃんが脳震とうになったことがあるかどうかなんて分からないけどさ。とにかく、今は吐き気とかないみたいだけど、症状が遅れてやって来る場合もある。二十四時間は要経過観察だ」

「っていうか、あんたやけに詳しいわね」

「そりゃな。俺は医者を目指してるから」

「え……」

 意外すぎる答えに、野々香は目を丸くした。

 出会って以来、智哉のことを単に軽くて女たらしでどうしようもない男だと思っていた。考えていることはいつも女の子のことばかり、その場の空気とノリで今だけを見て生きていると思ってたのに。

 だけど――自分なんかよりずっと、先のことを見据えている。今しか見ていないのは自分の方じゃないか。

「……私、フラーレンのことちょっと見直した」

 野々香は、智也のことを素直にかっこいいと思った。

「そうか。なら、これで俺を友達だと認めてくれるかな?」

「そ、そうね」

 智哉は「よし」とつぶやくと、ガーゼなどを救急セットに片付け始めた。瑠衣の手当が終わったらしい。

 野々香はほっと息をついた。

 見た感じ、右手の甲に軽い擦過傷ができただけで済んだようだ。服の下に隠れている腕――特に打ちやすい肘あたりも、血がにじんでいる様子は見受けられない。

 しかし、次に智哉が取った行動に対して野々香は思わず叫び声を上げた。瑠衣に向き直った智哉は、今度は彼女の胸の上あたりを触りだしたのだ。

「バ、バカッ! どこ触ってんのよ!?」

「勘違いするな。鎖骨が骨折してないか見てるだけだ」

「あ、そう……」

「瑠衣ちゃん、この辺痛い?」

「ううん」

 瑠衣は首を横に振りながらはっきりと答える。

「ごめんなさい、小平君。なんか迷惑かけちゃったみたい」

「何を言ってる。困った女の子を助けるが俺のポリシーぞ」

 瑠衣の受け答えがはっきりしている。元気を取り戻しているようだった。

 もう起き上がっても大丈夫だろうと智哉が言うので、二人は瑠衣が立ち上がるのを補助した。

 野々香は瑠衣の制服に付いた汚れを落とすのを手伝う。制服に破れたような箇所は無いが、眼鏡は少し傷ついてしまったようだ。

 智哉は他の部分に打撲や擦過傷が無いか瑠衣の体を観察している。その間、瑠衣は顔を真っ赤にしていた。

 いくつか瑠衣に質問し終わった後、彼はようやく安堵の表情を浮かべた。

 智哉曰く、肩から落ちたことで腰から下に目立った外傷はなく、骨折も無し。軽い打撲だけで済んだらしい。ただし、吐き気とかめまいとかちょっとでも気分が悪くなったらすぐに病院へ行くようにと瑠衣に釘を刺している。

 瑠衣は野々香と智哉に丁寧にお礼を言った後、こう付け加えた。

「ところで、自転車は大丈夫なんでしょうか?」

「あーっ!」

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