23rd Attack: 内緒

 学校の備品でよかった、自分の『ヤンバルクイナ(♂)ロードバイク』じゃなくてよかったと、野々香ののかは心底ほっとしていた。

 ハンドルのゴム部分がごりっと削れていたり、雨よけに傷がいったりへしゃげていたりしていたが、練習で使っていたママチャリはまだ使える状態にあり、致命的なダメージを負ってはいなかった。

 野々香は、ホイールの振れ――ホイールが歪んだりたわんだりすること――が一番気になった。ホイールが振れていると乗り心地が悪くなり、最悪の場合は常にブレーキがかかった状態になってまともに走れなくなるからだ。

 試しに走ってみると、少し振れているのが野々香には感じられた。まぁ見るからに古いママチャリなので、最初から振れていた可能性も否定は出来ないのだが。


 日は大分傾いており、長い影が芝生の上に伸びている。

 智哉が「ちょっと、その辺で休んでいこうよ」と言うので、三人はベンチに移動した。瑠衣と智哉の二人はベンチに腰掛けたが、野々香は瑠衣の後ろに立った。

「佐渡さん、髪の毛整えてあげるね」

 瑠衣の髪の毛は酷い状態だった。長い髪の毛にたくさん芝生の草や土が付着しており、髪の毛同士も絡まっている。昨日触れたときに感じた艶やかさはすっかり失われていた。

「あの、自分でするから大丈夫です」

「佐渡さんがケガしたの私のせいだから。それに、後ろは手が届かないでしょう? せめてこれくらいやらせて!」

「わ、分かりました」

 そう言うと、野々香は一つずつ瑠衣の髪の毛に付いた異物を取り除き始めた。瑠衣も自分の手の届く範囲で同じことをしている。

 手持ち無沙汰の智哉は、リュックのポケットに突っ込んであったペットボトルを取り出し飲んでいる。その後「飲む?」と言って瑠衣にそれを差し出したが、丁重に断られていた。

「ところで、フラーレン。聞きたいことが山ほどあるんだけど」

 野々香は作業を続けながら口を開いた。

「俺もあるけど、お先にどうぞ」

「なんでこんなところにいたのよ」

「ランニングしてた」

「何のために?」

「体力作り。医者になるには体力が必要だ」

 謎だ。この男、やはり謎だ。

「それだったら……陸上部とかに入ればいいんじゃないですか?」

 野々香の思っていたことを、そのままずばり瑠衣が聞いた。それに対する智哉の答えはとてもシンプルだった。

「部活は自分のやりたいようにやらせてくれないからな。体力をつけたいだけなら、週三回のジムとランニングで十分だよ」

 そこで野々香ははたと気付く。

 学校にいるときは制服の下に隠れていて分からなかったが、改めて智哉のことを見ると、彼は非常に良い体つきをしていた。

 肩幅が広い。背中が大きい。

 発達した僧帽筋――首回りから背中にかけてついている筋肉――が素晴らしい。上腕二頭筋も太く引き締まっている。競輪選手はともかく、長距離主体のプロロードサイクリストにはあまり見られない体型だ。

「俺の体、そんなに変か?」

 野々香がまじまじと見つめていることに、智哉は気付いたらしい。野々香は慌てて視線を瑠衣の方に戻した。

 丁度異物も取り除けたようなので、野々香は彼女の乱れた髪を根元から手櫛で整え始めた。しかし、整えようとすればするほど、彼女の髪の毛は余計絡まっていくように感じられた。

「痛たたた……」

「大丈夫? まだどこか痛むの?」

「違うんです。その……髪の毛が引っ張られて……」

「ごめん! 私、ロングにしたことがなくってさー」

 ヘルメットを被るのに長い髪の毛は邪魔。ただそれだけの理由だ。

「もしかして山城さん、女子力低いですか?」

「そ、そんなことないもん!」

「自転車力はマックスだ」

「もー、ほっといてよ!」

 瑠衣と智哉が肩をふるわせている。どうやら笑いをこらえているようだ。

 瑠衣は、ロングヘアーをメンテナンスする方法を野々香に教え始めた。

 長髪の場合、髪の根元からこうとするとものすごい絡まったり髪の毛が抜けるので、毛先の方からちょっとずつ上へ上へといていくのがコツらしい。

「ここで全部するのは時間がかかりすぎちゃいますから、ほどほどでいいですよ」

 そうは言うけどなー、と野々香は思う。

 やり始めたら、とことんやらなければ気が済まない。

 絡まりをほどいてそっとくしけずると、絹糸のような黒髪が野々香の指の間をさらさらと流れていく。落車の後で土の匂いが混じってはいるが、髪の毛が放つシトラスの香りは失われていなかった。

「瑠衣ちゃん、なんか気持ちよさそうだね」

「……」

 瑠衣は何も答えなかった。彼女の後ろに立っている野々香には、彼女の表情が分からない。

「そう言えば、もう一つ聞きたいことがあるんだった。なんで救急セットとか持ち歩いてるのよ。あと、もう一つの変な箱は何? 雷みたいなマークが入っててちょっと物騒な感じだったけど」

「あぁ、そのことか。『備えよ常に』さ」

「……ボーイスカウトですか?」

 瑠衣が顔を上げて智哉を見た。

「瑠衣ちゃん、よく知ってるね」

「うち、お兄ちゃんと一緒に入ってたことがあるんです。ボーイスカウトのおかげで歩くのだけは苦になりません」

「そっか。瑠衣ちゃんとはスカウト仲間だね」

 智哉がそう言うと、普通の軍隊で使われるものとは違う変わった敬礼した。全部の指を伸ばすのではなく、人差し指、中指、そして薬指の三本だけを伸ばし、折り曲げた小指は親指で押さえられている。

 野々香にはちんぷんかんぷんだった。

「ぼーいすかうとって何?」

「簡単に言えば青少年の社会奉仕ボランティア団体かなぁ。キャンプとかハイキングもするけどね。駅前の募金活動とか、見たことない?」

「そう言えばあるかも」

 野々香の脳裏に、緑色のベレー帽を被って駅前で募金を呼び掛ける可愛らしい子供たちの姿が浮かんだ。

「俺も小さい頃にやっててね。『備えよ常に』っていうのはボーイスカウトのポリシーなのさ」

「正確にはモットーですね」

「そう、モットー」

 智哉は笑った。

「ボーイスカウトの活動では、誰かが救急セットを持ってるのが当たり前なんだ。すごいいい心がけだと思って、俺はボーイスカウトを辞めた後もその習慣をずっと続けてる」

「じゃぁ、あのオレンジ色の箱もそれと関係が?」

「あれはAEDだ」

「えーいーでぃー?」

自動Automated体外式External除細動器Defibrillator

「いや、そんなこと聞いてるんじゃない。駅なんかに置いてある、AED?」

「おう」

 智哉は得意げに解説を始めた。

「AEDとは、心室細動……つまり心臓が止まった患者に対して電気ショックを与えて延命処置を施すための機器だ。使う際には音声ガイドが流れるようになっているから、俺たちみたいな全くの素人でも扱えるようにデザインされているぞ」

 えらい詳しい。知識をひけらかされると、自分がバカに見られてるんじゃないかと思って嫌な気分になるが、ここまで来ると突き抜けちゃってて溜飲が下がる。

 野々香は、『倒れた人がAEDによって九死に一生を得た』とか『マラソン大会でAED自転車隊が大活躍!』というニュースを聞いたことがあった。人の命を助けられる道具だというのは、なんとなく知っている。

 しかし――

「なんであんたがそんなもの持ってるのよ」

「自分で買った」

「買った!?」

 思わず、一生懸命髪の毛をいていた野々香の手が止まる。

「あれって個人で買えるの!?」

「買えるよ」

「いくら?」

「んー、くらい?」

「……は?」「……え?」

「だから、二十万円」

「いやいやいやいや、高すぎる。高校生が買うものじゃないって!」

「山城さん、あなたが言うセリフじゃないですよ」

「そうかなー?」

「だって、自転車――」

「あれは『出世払い』でお願いしてお父さんに買ってもらった」

「そうだったんですね……」

 野々香は段々智哉のことが分かってきた。

 部活に入らなかったのは、体力作りの他にもきっと理由があるのだ。AEDを買うお金を稼ぐため。つまり、アルバイトをしたかったからに違いない。

「いくら『備えよ常に』って言っても、それはやり過ぎでしょー……」

「昔、悔しい思いをしたことがあってね」

「え?」

「俺の目の前で人が倒れたんだ。後で聞いたら、心臓発作だったそうだ。AEDがあったらなんとかなったかもしれないって言われたよ」

 そう言う智哉の口調は、それまでの軽さが嘘のように消し飛んでおり、もの悲しい雰囲気が漂っている。野々香の位置から見える智哉の横顔はとても寂しそうに見えた。

「……そんなことがあったんですね」

「だから俺は常にAEDを持ち歩いてる。あんな悔しい思いは二度とごめんだ」

 野々香は、智哉の言い回しになんとも言えない違和感を覚えた。喉に魚の骨が刺さったような気分だ。それがなんなのか、はっきりとはわからないけれど――。


 日没の時間が迫っていた。今日は雲が多く、いつもより暗くなるのが早く感じられる。

「山城さん、そろそろ帰りましょう。もう十分です」

「いや、後もう少しだから最後までやらせて!」

 残りわずか、ここまできたら何が何でも全部やってやる。

「そう言えば……」

 智哉にいつもの軽さと明るさが戻っていた。

「二人はこんなところで何をしてたのさ」

「それは――」

 瑠衣が何かを言いかけたところで、野々香はそれを遮った。

「いやー、ちょっと運びたい荷物があって、佐渡さんに手伝ってもらったんだ!」

「山城さん……!」

「私にあわせて」

「あぁー……」

 雰囲気を察したのか、それとも二人の会話がもろに聞こえていたのかは分からないが、智哉はこう続けた。

「言いたくなかったら、言わなくていいよ。誰だって人には内緒にしたいことの一つや二つ、持ってるさ。女の子に無理矢理喋らすなんて俺の――」

「ポリシーに反する?」

「そうだ」

 そう言われて、野々香は胸が締め付けられた。


 内緒にしたい、誰にも知られたくないこと。

 野々香は、皆がそれぞれ秘密を抱えていることに気がついた。


 リンリン鈴原先生は、誰にも何も言わず自転車の世界から去った。その原因が何なのかは全く分からない。

 佐渡さんは、彼女が自転車に乗れないことを頑なに隠そうとしている。きっと、馬鹿にされていじめの材料になることを恐れているんだ。私と同じように。

 フラーレンは――喉につっかえていた小骨の正体が今分かった。彼の目の前で倒れたのか名言しなかった。多分、言いたくないのだと思う。もちろん、赤の他人でも目の前で倒れたらショックだろうけど、それがきっかけで医者を目指す人が果たして何人いるだろうか?

 そして、自分の場合は一型糖尿病であること。

 私が患っている病気は、いろいろな面で世の中に誤解されている。原因のこと、症状のこと、薬のこと、生活面で気を付けなければいけないこと。

 それらに対する理解がないと、社会から冷たい目で見られてしまう。ひどいいじめを受けてしまう。そんなこと、私は絶対許せないけど……。

 怖いのだ。受け入れてくれるかどうか。それは告白してみないと分からない。


 そんなことが野々香の頭の中をぐるぐると駆け巡っていたため、二人の声が野々香の耳には全然届いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る