20th Attack: 勝手

 翌日の朝、佐渡さど瑠衣るいは学校に向かって歩いていた。その道中、瑠衣の心境は複雑だった。

 自転車に対する恐怖、こんなことであのお店に行けるのかという不安、そして――山城やましろ野々香ののかという人物に対して湧き上がる漠然としたある感情。

 自転車の練習を始めた後は、頭が真っ白になって記憶が曖昧だ。しかし、あることが瑠衣の心に強い印象を残していた。

 それは、気がついたら野々香に体を受け止められていたこと。

 後で聞いたら、転びそうになった自分のことを助けてくれたらしい。

 華奢な体、細い腕、小さな胸……。瑠衣の身長は野々香に比べて非常に高いので、彼女にとって自分は重かったに違いないと思いを巡らす。

 それでも、野々香は必死で支えてくれたという事実が瑠衣の心を熱くした。

 確かに感じた、ドキドキとした高揚感。

 怖かったからなのか、安心したからなのか、それとも……。瑠衣にはそう感じる本当の理由が分からなかった。

 野々香はちょっと強引なところはあるけど優しい人だと瑠衣は思った。きっと、彼女なら自転車に乗れるまで付き合ってくれるだろう。


 いや、自転車に乗れるようになるまで山城さんに付き合わされる、と言う方が正しいかな……?


 まぁどっちでも同じことだと、瑠衣は心の中で笑った。

 新しい友達ができそうなことに期待を持ちつつ、瑠衣の考えは今自分を悩ましていることに移る。

 それにしても……どうやったら自転車に乗れるようになるんだろう。

 確かにうちは運動恐怖症だ。今まで色んな痛い思いをしてきた。

 ソフトボールのフライをキャッチしようとして、ボールが脳天に直撃する。

 バスケットボールのスピード感に全くついていけなくて、顔面にボールが直撃して眼鏡が吹き飛ぶ。

 これらの出来事は、すべて自分の動きがどんくさかったから起きたことだと瑠衣は自認している。しかし――


 うちってあそこまで動けなかったっけ?

 なんで? どうして? うちは頑張ってるよ。なのに、体はどうして言うことを聞いてくれないの?


 瑠衣は考えれば考えるほど自分に嫌気がさした。

 別に、今更運動ができるようになりたいなんて思わない。せめて理由が分かれば納得するのに。

 昨日のことを思い出せば、何か掴めるかも知れない。

 そう思って瑠衣が必死になって放課後のことについて振り返っていると、あることが思い当たった。

 そう言えば……ヘルメットだ。

 あんな一回転んだだけで使えなくなるようなヘルメットを貸されても……もしも練習中に転んじゃったら、うちはヘルメットを弁償しないといけなくなるかもしれない。そんなの、プレッシャー以外の何物でもない。

 もしかして、体が動かなかったのはヘルメットのせい? ……うん、そうに違いない。あんなもの、百害あって一利なしだ。よし、次の練習では被らないでおこう。


 そんなことを考えてる内に、瑠衣は教室の前までたどり着いた。扉を開けて中に入る。

 いつもは自分が中に入ったところで気付く人など誰も居ない。静かに移動して、静かに自分の席に座る。それが彼女の日常だ。

 しかし、この日は違った。

「おはよー、佐渡さん!」

 扉から一番遠い窓側の席に座っているはずの山城やましろ野々香ののかが、自分めがけてまっしぐらに駆けてくるではないか……!

 野々香の行動はとにかく目立つ。クラスメイトからの視線が痛い。

「お、おはようございます……って、何するんですか!?」

 瑠衣は手首をガシッと掴まれ、「こっちに来て!」という野々香になすすべもなく引きずられると、そのまま野々香の席まで強引に連れてこられた。

 そこには、風切かざきり銀杏いちょう小平こだいら智哉ともやの姿があった。

 先に口を開いたのは智哉だった。

「お、野々香ちゃん。いつのまに瑠衣ちゃんと友達になったの?」

「昨日だけど何か」

 智哉に向かっては急に冷淡な口調になる野々香。一方の智哉は笑顔を崩してはいない。野々香の態度をあまり気にしていないようだ。 

 瑠衣は二人の微妙な関係に戸惑いを覚えつつ、とりあえず挨拶をしなければと思い智哉の方へ向いた。

「……お、おはようございます」

「おはよう、瑠衣ちゃん。俺は小平智哉。俺と話すのは初めてだよね?」

「はい。あの……なんでうちの名前を――」

 瑠衣と初めて話す人は、印象が薄くて大抵彼女の名前を覚えていない。上の名前はともかく、下の名前は絶対と言っていいほどだ。野々香のときもそうだった。しかし、目の前の人物は違っていた。

「もちろん知ってるさ。クラスメイト全員の名前を覚えておくのが俺のポリシーぞ」

 それに対して、銀杏があきれた顔をしながら投げやりに言った。

「はいはい、どうせどの女の子が可愛いか情報収集した結果なんでしょ」

「うっ、何故それを」

「そんなことくらいお見通しだって。幼稚園の時からの腐れ縁なんだから」

「え、いっちょんとフラーレンって幼馴染みなの?」

 野々香が目を丸くしていた。

「そうよ。あれ、言ってなかったっけ?」

「聞いてないー。どおりで仲がいいわけだ」

 野々香がニヤリと笑い、銀杏の顔を指でつつく。銀杏は「ちょっと、やめてよ」と顔を少ししかめた。

 それに対して、智哉も表情を曇らせて銀杏に対する不満を述べる。

「仲は良くないぞ。やれ部活に入れだの、女の子に言い寄るのはいい加減にしとけだの、うるさいったらありゃしない」

「わ、私はそんなこと言った覚えはないんだけど」

 銀杏の顔が少し赤くなっている。

「いーや、いつも言ってるぞ。春休み最後の日曜日は地獄だったな。折角マリンちゃんとデートしてたのに、どこで聞きつけたのか強制介入してきやがって」

「デート? あれが『で・え・と』だって本気で言ってるの? 動物園で女の子にひたすら鳴き真似させてたじゃない。それを笑って見てるなんて、智哉はいったいどんな神経してる訳?」

「何を言う。あれは――」

「問答無用よ。智哉が女の子と動物園に行くなんて、私は今後一切認めないから」

「それだよそれ! 俺はその説教のことを言ってるの。銀杏ちゃんは自覚ないのかなぁ」

「説教じゃない。折檻よ!」

「なに!?」

 銀杏と智哉がヒートアップしている。瑠衣は二人を止めなきゃと思いつつ、オロオロするばかりで声を出すことができなかった。

「だいたいなんで銀杏ちゃんがあのとき動物園にいたのさ」

「それは――」

「大方、俺のことを追いかけて動物園まで来ちゃったんだろう?」

「そんなわけないでしょ!」

 そのとき、それまで二人を笑顔で見守っていた野々香が、清々すがすがしい声を上げた。

「いやー、まるで浮気のことで喧嘩してる夫婦みたいだね!」

「「誰が夫婦だ!」」

 銀杏と智哉の反応がピッタリと重なった。それに対して、野々香は腹を抱えて笑っている。

 自分にはこんな言い合いができる友達がいないな、なんだか微笑ましい光景だなと、瑠衣はちょっと羨ましく思っていた。

 銀杏は「……ったく、ののりんは笑いすぎなんだよ」と独り言のようにぼやいた後、瑠衣に向かって右手を差し出した。

「挨拶が遅れてごめんね。私は風切銀杏だよ。サッカー部所属。よろしくね」

 瑠衣は銀杏と握手し、自分の名前を名乗った。

「ところでさー、佐渡さん。日曜日は暇?」

 さっきまで笑ってた野々香が、急に真剣な表情で瑠衣に尋ねてきた。

「日曜日? ええっと……予定は何もありませんが」

「そっか」

 何やら嫌な予感がする。そんな気配を瑠衣は感じ取った。

「……じゃぁ、佐渡さんも参加だね!」

「……え? 何にですか?」

「あのお店にみんなで行くことになったんだ。自転車で」

 智哉が言った。

 三人から話を聞くと、自分がポスターに書かれていたカフェに行きたがっていることを野々香は二人に話したらしい。瑠衣はお兄ちゃんのことも話してしまったんじゃないかと一瞬野々香のことを疑ったが、どうやら彼女はそのことまでは話していないようだった。

「俺と銀杏ちゃんはここが地元なんだ。瑠衣ちゃんの家は、ここから歩いて十五分くらいの距離なんだって?」

「そうですけど」

「なら、野々香ちゃんだけロードバイクで高校まで来てもらったら集合しやすいね」

「あの、うち――」

 まだ自転車に乗れません。

 瑠衣はそう言いかけてハッとした。

 野々香はともかく、銀杏と智哉はこのことを知らない。自転車に乗れないことは誰にも話したくない秘密なのだ。

「どうしたの、瑠衣ちゃん」

「い、いえ。うちもそう思います」

 瑠衣は、愛想笑いを浮かべながらとっさにそう答えた。

「私の部活なんだけど、土曜日が校内練習試合で日曜日が部活休みなんだよね」

 銀杏が話を続ける。

「もし土曜日にやっちゃうと、後でキレセン栴檀先生に何か言われるかもしれないし、丁度いいでしょ」

「いや、でも……」

「ねぇ、行こうよ瑠衣ちゃん。俺がちゃんとエスコートしてあげるから」

「あ、ほらまたそうやって女の子を口説こうとしてる!」

「なんだと? 人に優しくして何が悪い!?」

 銀杏と智哉の口論はあっという間に過熱し、またまた痴話ちわ喧嘩けんかを始めてしまった。

 その間に、野々香は瑠衣にだけ聞こえる小さな声でささやいてきた。

「大丈夫大丈夫。今日を入れて後四日もあるんだよ? その間に乗れるようになるって」

 昨日の出来事を経ても、野々香はとても楽天的に構えているようだった。

「それに、今日は『秘密兵器』も持ってきたから楽しみにしといて!」

 そして彼女の極めて前向きな自信は、どうやらその秘密兵器がもたらしているらしい。

「うち……がんばります」

 そうは言ってみたものの、瑠衣は全く自信を持てなかった。と言うより、さらにプレッシャーが増していた。

 うちは、

 そう思うと、瑠衣の心は沈没していく船のようにどんどんと深い闇に吸い込まれていく。

「よし、決まり。日曜日はみんなでサイクリングだー!」

 野々香は大きな声でそう言うと、二人の喧嘩に割って入っていった。


 山城さん……あなたという人は、随分と勝手だ。


 瑠衣は、野々香という人物がよく分からなくなっていた。

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