19th Attack: 微動
ある場所が野々香の目に入る。
芝生が広範囲にわたって丁寧に整備されており、地面の凹凸は少なそうだ。周囲に人はいるものの、自転車で走ったとしても迷惑をかけるほど密度が高いわけではない。
自転車の練習をするのにはうってつけだ。
「あそこが広くて丁度よさそう!」
野々香はその場所を指さし、喜々として駆け出そうとしたが――
「ままま待ってください山城さん。こんなところで練習するんですか!?」
こんなところ? アスファルトのようななめらかな地面じゃないことが不安なのだろうか?
無理もない、と野々香は思った。
ママチャリは本来舗装された道路を走るものだ。芝生や泥の上といった荒れ地を走ることは想定されていない。
しかし、それでも芝生の上で練習することには理由がある。野々香は、まるで幼稚園の子供を諭すように言葉を並べた。
「そうだよー。運動場やコンクリートの上だと、転んだときに危ないからね。怪我をしちゃうかも知れない。でも、芝生の上なら転んでもあんまり痛くないと思うんだ。ちょっとでこぼこしててハンドルの操作はしにくいかもしれないけど大丈夫だよ! 私がバッチリ支えてあげるから!」
そう、自転車の練習で転倒することはよくあること。
いくらヘルメットを被っていても、アスファルトに頭を打ちつけたら大事故になりかねない。その点、芝生の上ならクッション性があって安心だ。
「あの、そういうことじゃなくてですね――」
あれ、違うの? 芝生の上を走るのが怖いのかと思ったんだけど。
「――もっと人のいない所に行きませんか」
「ん? 広いところじゃないと、転んだときに危ないよ?」
「……人に見られるのが、嫌なんです」
「よく分かんないけど、佐渡さんがそう言うならそうしよっか」
うーん、佐渡さんの考えてることがよく分からない。別に人に見られても大したことないと思うんだけどなー。どうせあっという間に乗れるようになると思うし。
二人は周辺を歩き回り、人に見られにくそうでかつ芝生が生えている場所を探した。幸いそのような場所がすぐに見つかり、自転車に乗る練習を始めることにした。
野々香は瑠衣をママチャリの左側に立たせると、ハンドルを彼女に持たせた。
「まずはこれを被ってー。私のヘルメット、貸してあげる」
野々香がママチャリの前カゴからヘルメットを掴む。そして、女王に王冠をかぶせるように思いっきり両手を伸ばして瑠衣の頭に乗せた。
しかし、野々香にとって瑠衣の頭の上はギリギリ手が届く距離だったので、ヘルメットが少しずれてしまった。
ロードバイクで使用するヘルメットは、工事や作業用のもの――通称『ドカヘル』とは素材も形状も違う。ドカヘルは基本的にどのメーカーでもほぼ同じデザインだが、スポーツ用は多種多様なものが存在する。野々香のものは表面にいくつもの凹凸があり、その凹んだ部分には穴が開いていて空気が通るようになっていた。
「どう? 軽いし被り心地もいいでしょ」
「はい、とても軽いです……」
「これねー、発泡スチロールで作られてるんだよ」
「……! 発泡スチロール!?」
片手でヘルメットの位置をいじっていた瑠衣は、軽く目を見開き、確かめるようにその表面を撫でた。
「まさか発泡スチロールでできてるなんて……」
「なんで? って顔してるねー」
おそらく、もっと頑丈な素材でできていると思っていたに違いない。
野々香は笑いながら説明する。
「スポーツ用のはね、ぶつけたら潰れるような素材でわざと作られてるの。潰れることで衝撃を吸収して頭を守るように設計されてるんだー」
「それって……転んだときにもし地面に頭を打ったら、ヘルメットが壊れちゃうんですか? 次からもう使えなくなりませんか?」
「そうだよー」
自転車競技においてヘルメットを被る目的は、落車――事故などによりライダーが自転車から転落することを指す競技用語――したときに受ける衝撃から頭を守ることだ。言い方は悪いがスポーツ用のヘルメットは使い捨てで、一回の落車事故から頭を守りさえすれば十分というコンセプトで作られているのだ。
そんなことを知ってか知らずか、瑠衣の顔色が悪くなっている。
「佐渡さん、どうかした?」
「い、いえ」
瑠衣は笑顔に戻るが、少し引きつっている。
「まぁ、私のメットだとちょっと小さいと思うけど我慢してね。それで、顎ひもを締めてっと――」
野々香は、両耳付近から伸びている二本のひもをそれぞれ瑠衣の顎下に手際よく回すと、プラスチック製の留め具でひも同士を繋いだ。
「これでよし! 次はサドルの高さをセッティングしよう」
そう言って、野々香はママチャリを挟んで瑠衣とは反対側に立ち、サドルの根元付近のネジを回しから高さを微調整した。
それが終わると、彼女は意気揚々と宣言した。
「お待たせ、佐渡さん。準備完了だよ!」
大丈夫大丈夫。自転車なんて子供からおじいちゃんおばあちゃんまで乗れるんだから、ちょっと練習したらすぐ乗れるようになるさ!
そんな野々香の思いとは裏腹に、対する瑠衣の表情は硬い。緊張しているのがひしひしと伝わってくる。
「自転車にまたがってみて」
「はい」
瑠衣は自転車にまたがり、サドルに腰を下ろした。両足の踵はほんの少しだけ浮いている。
野々香がママチャリの後ろに回り、後ろの荷台に両手をかけた。
「コツは下を見ないこと。できるだけ遠くを見るようにしてね」
「はい」
「私が後ろで支えてるから、怖がらないで」
「はい」
「思い切りが大切だよ」
「はい」
「じゃー、行くよ。ペダルに右足を乗せて」
「はい」
あれ? 佐渡さんが固まって動かない。
「ペダルに右足を乗せてー」
「はい」
やっぱり動かない。私の声が聞こえてないのかな? だったら――
「新しい担任のことは好き?」
「はい――って、何言わせるんですか!?」
「アハハハ! ごめんごめんー。だって微動だにしないんだもん。聞こえてないんじゃないかと思って」
「もう」
瑠衣は振り返らなかった。よっぽど恥ずかしかったのだろう。
「冗談はさておき……佐渡さん、まずは右足をペダルに乗せよっか」
「分かりました」
今度は野々香の言われたとおり、瑠衣がペダルに右足を乗せた。
「私が合図するから、それと同時にペダルを踏み込んで。ゆっくりでいいからね」
「はい」
「合図するよ。三……二……一……はい、ペダルを漕いで!」
「はい!」
……。
「漕いでー!」
…………。
動かない。
瑠衣の体がピクリとも動いていない。
「佐渡さん、どうしたの? ペダルを漕がないと前に進めないよ」
「分かってます……。でも、体が動きません」
野々香は、少し苛立ちを覚えた。
いやいや、これくらいできるだろう。いくら運動音痴とは言え、走ることはできるんだし。そんなに変わらないじゃん、ペダリングも。
なんでこんな簡単なことができないんだろう……?
そうだ、きっかけがないからに違いない。
ちょっと動かしてきっかけを作ってやったら、ペダルをこぎ始めるかも知れない。
「佐渡さん、私が自転車を押すからね。いい?」
野々香はママチャリをほんのちょっと押して前へ進めようとした。それこそ、距離にして数センチメートル動くかどうかという力加減で。
「ちょ、ちょっと待って――きゃぁ!?」
そのとき、瑠衣が激しい金切り声を上げた。
瑠衣の頭が下を向く。それと同時に自転車がぐらついて左側へと傾き始め、ハンドルと共に前輪も左側に曲がる。
あ、やばい!
瑠衣の左脚は地面に付いているが、明らかに踏ん張れていない。このままだと……落車する!
野々香は荷台を掴む腕に目一杯の力を注ぎ込んで自転車を引き起こそうとする。しかし、それで体勢を立て直すのは無理だと判断した野々香は、とっさに瑠衣の左側に回り込み、自分の体を瑠衣に押しつけた。
……危なかった。
なんとか落車を免れることが出来た。
「だ、大丈夫? 佐渡さん」
一瞬の出来事で野々香自身どう動いたのかよく分からなかったが、野々香が瑠衣を下の方から抱きかかえているような格好になっている。
息づかいがはっきり聞こえてきた。ほとんど何もしていないはずなのに、彼女の息は上がっている。彼女の熱気が、心臓の鼓動が、野々香の体に直で伝わってくる。
瑠衣の長髪が野々香の頬に触れていた。乱れてはいるが、いつまでも触れていたくなるようなさらさらとした肌触り。思わずお菓子が食べたくなるようなシトラスの芳香が野々香の鼻腔を刺激する。
うっすらと涙を浮かべながら紅潮している瑠衣の顔を見て、野々香の顔も真っ赤になった。
「山城さん……」
「あ、ご、ごめん!」
野々香は慌てて瑠衣を直立の姿勢に戻すと、彼女から離れた。
「山城さん、うち……」
瑠衣は目を一回拭うとそれ以上泣くことはなかったが、酷く落ち込んでいる様子だった。
「うーん、困ったな……ここまでとは」
その後も、野々香によるあの手この手の指導が瑠衣に飛んだが、この日は結局両足を地面から離すことすら出来ずに一日が終わった。
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