9th Attack: 相棒

 小さな一室に、様々な種類の音が鳴り響いていた。

 鳥の鳴き声、けたたましいベルの音、無機質な電子音が奏でる荘厳なクラシック音楽。

 その全てが、部屋のあるじに『起きろ!』とがなり立てている。

「うーん……」

 眠い。寒い。毛布を被り直したい。野々香はベッドの上でそんな衝動に駆られた。スマホの画面で時刻を確認する。

 四時二分。

 スマホ、デジタルやアナログの目覚まし時計を三つ、合計で四種類も目覚ましの手段を用意しているのに、なかなか起きることが出来ない。

 やっぱり、なぁ。

 やっとの思いで体を起こすと、野々香は全ての目覚ましを止めた。

 自分の部屋を出て、眠たい目をこすりながら洗面所へ向かう。

「おはよう……」

 隣の部屋で寝ている彼女の両親は、当然まだ起きていなかった。

 野々香は一人っ子で、東京二十三区の外側――地理的には東京の真ん中よりやや東側――に建っている賃貸マンションに両親と共に暮らしていた。近くには多摩川が流れており、その河川敷を走るサイクリングロードを利用して野々香は毎日通学している。

 洗面所でよく手を洗ってからリビングへ移動すると、野々香はいつものルーティーンを始めた。

 棚の上に置いてあったケースを開けて、太い万年筆状の器具と液晶表示のついた手のひら大の装置を取り出し、机の上に並べた。

 万年筆状の器具は穿刺せんしペンと呼ばれるもので、小さい針を皮膚に刺してごく少量の血液を取り出すために使用される。もう一つの装置は、簡易血糖計だ。穿刺ペンで取り出した血を吸って、血糖値を測定することができる。

 野々香は、穿刺ペンに新しい針をセットした。

 今日は薬指にしよう。

 まず、右手の薬指を消毒液が染み込んだ脱脂綿で丁寧に拭いた。次に、万年筆状の器具を左手で持ち、先ほど拭いた右手の薬指に押し当てる。穿刺ペンのボタンを押すと、チクッとした痛みが指先に走った。

「っ……」

 それほど痛いわけではない。長いことやっている内に慣れてしまった。しかし、いつまでたっても不快であることに変わりはない。

 穿刺ペンをどけると、そこにはごま粒ほどの赤い塊が浮いて出ていた。

 野々香は、穿刺ペンからあらかじめ電源を入れておいた簡易血糖計に持ち替えると、器具の先端を血液の塊に触れさせた。すると、器具は自動的に血液を吸い取り始めた。

 血液採取完了を知らせるピーッという電子音が鳴ったので、野々香は血糖計を指先から離す。待つこと数秒、液晶画面に血糖値が表示された。

 七十五mgミリグラムdlデシリットル

 。朝起きられないのは、絶対これが原因よね。

 測定結果にがっかりしつつ、野々香はそそくさと穿刺ペンと血糖計をケースにしまった。

 次に取り出したのは、穿刺ペンとほぼ同サイズでやはり筒状の器具だ。インスリンを注射するための専用注射器である。

 軽く振ってインスリンが均一に混ざったのを確認した後、新しい注射針をセットする。薬剤の量をメモリで調節し、パジャマをたくし上げて腹部を露出させ、注射器を左手で握り混んだ。親指は、注射器のお尻に添えられている。

 今日はこの辺でいいかな。

 血糖値測定のときと同様にアルコール綿で消毒してから、左脇腹に注射器を刺し、親指で注入ボタンを押し込んだ。

 一、二、三、四、五……。

 心の中でカウントし終えると、野々香は静かに注射器を引き抜いた。痛みはほとんど無く、出血も無い。針を外し、使用済みの針がたくさん入っている専用の箱に放り込む。注射器を元の状態へと戻し、ケースを片付けた。

 野々香は、これを毎日続けている。糖尿病が発覚した直後こそめんどくさいと思っていたが、今では完全に生活の一部だ。お手洗いに行く感覚とほとんど変わらない。

 これらの器具は恐らく一生お世話になるだろう。そう考えると人生のパートナー、相棒とも言える。

 さて、朝ご飯にしよう。低いテンションを上げなければ……。

 野々香にとって朝食は欠かせない。欠食してしまうと、低血糖になって様々な症状を引き起こしてしまう恐れがあるからだ。

 パンをトースターにセットしたり、目玉焼きを焼く準備をしながら、野々香はあれこれ考えを巡らした。


 なんか不思議な気分だなー。あの『リンリン』が先生に、しかも自分のクラスの担任だなんて。昨日用務員室でばったり遭遇したとき、一目でリンリンだって分かった。

 本当にびっくりした。神様が舞い降りたのかと思った。ちょっと恥ずかしかったけど、そんなことは消し飛ぶくらい嬉しかった。

 これで、私は本格的に自転車をすることができる。

 この病気になってから自分で試行錯誤しながら自転車を続けてみたものの、あんまりうまく行かなかった。でも、リンリンならきっと私を導いてくれる。何せ、リンリンは最強のサイクリストなんだから。

 私、どこまでもリンリンに付いていく!

 ――まずは部員集めね。クラスメイトはほとんど部活に入っちゃってるけど、ダメ元で誘ってみよう。他の方法も考えてあるし。今日学校に行ったら、早速実行しなきゃ……!


「いただきまーす」

 野々香はトーストを頬張りながら、テレビとレコーダーの電源を入れた。おととい録画された番組を選択し、再生する。

『さぁ、今年もやってまいりました。ベルギーのフランドル地方で開催される春のビッグレース――クラシックの王様とも称されるロンド・ファン・フラーンデレン! 地元ベルギーでは視聴率がなんと八十パーセントを超えるという超人気レースです』

 実況アナウンサーの興奮気味なイントロがテレビのスピーカーから流れる。野々香はこのレースを途中まで見ていたので、早送りボタンを押してレース終盤まで中継をスキップした。

 再生が再開されたのは、丁度最後の戦いの火蓋が切って落とされたところだった。

『あ、最後のコッペンベルグでサガン選手がアタックです! 先ほどから何回も紹介しているように、この石畳の坂は距離こそ六〇〇メートルしかありませんが、平均勾配十一・六パーセント、最大勾配はなんと二十二パーセントもあります!』

 いつもひょうひょうとした口調で喋る解説も、このときばかりは興奮を隠せない。

『優勝候補筆頭が自ら動きましたね! このアタックに反応できる選手はいるのでしょうか?』

グレッグGファンVアフェルマートA選手が食らいつきます。母国開催レース悲願の初優勝に向けて、ここで遅れる訳にはいかない!』

 このアタックを皮切りに、手に汗握る展開がレース最終盤まで続く。逃げ、追走、アタックの応酬、そして独走――野々香は食い入るようにテレビの画面を見続けた。

 レース後は、優勝した選手が流ちょうな英語でインタビューに答えていた。同時通訳で日本語も流れてくる。

『私はこのレースが好きです。自転車を愛しています。レースに勝つことが出来て本当に夢のようです。今まで自分を支えてくれた家族やチーム、全てのファンに感謝します』


 ……そう言えば、リンリンが『自転車は嫌いだ』とか言うなんて流石に予想外だったなー。なんであんなこと言ったんだろう。なんで自転車をやめちゃったんだろう。

 なんで『ツール・ド・おきなわ』三連覇の夢を目前にして突然消えちゃったんだろう。

 ブログを見る限り、レースに向けた調整はすごく順調そうに見えた。怪我? 病気? 機材トラブル? でも、そんな逆境は過去にもあったし、リンリンはいつも跳ね返してた。

 自分で理由は聞かないって言った手前すごく聞きづらいけど、やっぱり気になる。本当、なんでなんだろう。


 ご飯を食べ終わると、スマホで友達とのやりとりを確認しつつ、通学用の服装に着替え始めた。

 んー、今日はどれにしようかな。

 クローゼットに掛けられている数種類の長袖ジャケットから、一番好きなオレンジ色のものを手に取った。下は、選択の余地がないのでいつもの黒い冬物のタイツだ。

 白いヘルメットを被り、姿見の前で自分の格好チェックする。

 よし、完璧。

 野々香は、着替えの制服や教科書を詰め込んだ大きなリュックサックを背負うと、家の玄関へ向かった。そこには、一台のロードバイクが土足スペースからリビングへ通じる廊下に渡って半分以上を占領する形で壁に立てかけられていた。

 トップチューブ、ダウンチューブ、シートチューブ、全てが直線的。フレームの厚みは薄いが、それが逆に空気を切り裂いてやるぞと言う気迫を感じさせる。リアホイールのスポークは独特の張り方がされており、横から見るとさながらヨーロッパの伝統的な風車といった風情だ。ただし、風車は四枚羽根だがこちらは七枚羽根だ。

 野々香は、唯一所持するこのロードバイクに『ヤンバルクイナ(♂)』という愛称を付け、大変気に入っている。なぜなら、ダウンチューブに刻まれているブランドロゴが深いオレンジ色で描かれており、黒い塗装も相まって沖縄固有種のヤンバルクイナとそっくりだからだ。

 正式にはENVILIVエンヴィリヴと名付けられており、台湾の自転車メーカーGIANTジャイアントが創設した女性サイクリスト専門ブランドLivリヴのロードバイクとして世の中に出回っている。

「さぁ行こうか、ヤンバルクイナ号!」

 時刻は午前五時を過ぎたところだ。野々香は、相棒と共に月ヶ丘高校へ向けて家を出発した。

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