第二章 うちは遠くへ行きたい

8th Attack: 戦友

 輪太郎は、静寂の中で自然と目が覚めた。

「ふぅ……」

 時計を見ると、時刻は丁度朝のを回ったところだった。念のため四時半にセットしているスマホの目覚ましを解除して、輪太郎はさっさと布団から這い出した。

 これはロードバイクでレースに参加していた頃の名残である。

 別に、『早起きは三文の得』を信じている訳では無い。アマチュアの自転車レースは、スタート時間が早い。朝の七時開始とかはざらにある。そんなスケジュールに普段から体を慣らすために、この習慣が出来上がったのだ。

 もっとも、自転車から離れた直後こそ昼と夜の区別が無い荒んだ生活だった。しかし、教職を目指すようになってからは、十キロメートルの早朝ランニングを日課としていた。

 輪太郎は一戸建ての実家に暮らしている。実家と言っても、両親は海外で仕事をしており、滅多に帰ってくることはない。一人で暮らすのに四LDKの間取りは広すぎるため、輪太郎は行動範囲をできるだけ限定し、使わない部屋は封印していた。

 彼の寝室は二階にある。

 カーテンを開けると、丁度配達員が一軒一軒新聞を配り回っている光景が目に入った。日はまだ昇っておらず、家の外は真っ暗である。

 一階のリビングダイニングに降りると、輪太郎はルーティーンを始めた。

 体重、六十五・八五キログラム。体脂肪率、五パーセント。血圧、上は一一三の下が七十一。起床時心拍、。体温三六・三度。

 

 輪太郎はノートパソコンを立ち上げ、計測したデータを素早く記録する。さらに、ブラウザを起動して活動量計のデータも確認し、自分の体調の良さに満足した。

 昨日はいろいろあって精神的に大変だったが、肉体フィジカルにはあまり影響がなかったらしい。

「さて、次はっと……」

 輪太郎はノートパソコンを所定の場所にしまうと、リビングの隅に設置してある小さな経机きょうづくえ――仏壇の前に置いてある香炉やりんを置いておく台――の前に正座した。

 経机は木製で、何の塗装も施されていない極めて質素なものだ。本来経机の奥にあるべき仏壇は見当たらない。その上、机の上に乗っているのはろうそくを立てる燭台だけで、写真や位牌などは一切置かれていなかった。

 輪太郎はろうそくに火を付け、何も飾られていない壁に向かって手を合わせた。


 なぁ、お前は今何をしている? 楽しいか?

 いよいよ新学期が始まったよ。

 昨日は、僕が受け持つ生徒たちに初めて会った。彼らがどんな子たちなのか、まだよく分からない。だけど、一人一人が豊かな個性を持っているに違いないんだ。

 まず、山城野々香という生徒のことを知った。

 彼女はロードバイクをやっている。

 分かってる。自転車は、お前を地獄に――いや、天国へ導いてしまった。

 だけど、彼女のことを守ってやりたいんだ。

 同じ過ちは、二度と繰り返さない。約束する。だから、再び自転車に向き合おうとしている僕を許してくれないだろうか。

 僕は山城野々香を守りたい。先生として。


 輪太郎は、しばらく黙祷してからろうそくの火を消した。

 コーヒーメーカーのスイッチを入れた後、輪太郎は一旦寝室に戻った。彼は自転車用の長袖インナーとジャケット、冬物のロングタイツを取り出し、素早く着替え始めた。

 自転車用の服装をまとった輪太郎は、少し異様だ。

 ビヤ樽のようにガッチリとした体躯から細長い腕が生えており、お世辞にもバランスの良い体型とは言えない。動物に例えるなら、まるでオラウータンのようだ。その上、太腿ふとももは太いのにふくらはぎは二の腕同様細いのが、体に密着したタイツの形状から分かる。

 着替え終わると輪太郎は再び一階へ降りた。そして、玄関に一番近いある部屋の扉を開けた。

「久しぶりだ」

 その部屋は十畳の広さがあり、かなり埃っぽい。床材はフローリングで、半分ほどが絨毯で覆われていた。その上には二台のロードバイクが専用のスタンドに支えられて屹立している。壁には一面を覆うようにさらに四台のロードバイクがラックに掛けられており、他にもホイールやトレーニング器具といった自転車に関連する物品が整然と並べられていた。

 輪太郎は、ここを『自転車ベース』と呼んでいる。

 ロードバイクの保管、整備から室内のトレーニングまで、なんでもここで行っていた。しかし、自転車を辞めてからの三年間はほとんど使用されることもなく、封印されていた。

 最後にこの部屋に入ったのはいつだろうかと、輪太郎は思案した。もしかしたら、一年以上入っていないかもしれない。

 昨日まではランニングだったが、今日からまたロードバイクのトレーニングを再開だ。長い間放置してしまって、本当にごめん。いきなりいなくなって寂しかっただろう。

 輪太郎は別の部屋からタオルを持ってきて、一番手前に置いてあったロードバイクを拭き始めた。

 前輪と自転車本体を繋ぐ支柱――すなわちフロントフォークは、直線的で前後の幅が広く質実剛健さを漂わせる。一方、フレームの上側を構成する支柱――ハンドルを支える支柱とサドルを支える支柱を水平方向に繋ぐトップチューブは、アーチェリーの弓のように緩やかに湾曲しており、優雅でしなやかさを感じさせる。

 空気抵抗や地面から伝わる振動軽減を考慮して設計されたこれらのフォルムは、全て炭素繊維カーボンでできている。そのフレームは赤く塗装されており、ダウンチューブ――フレームを構成する三角形のうち下側を斜めに走る支柱には、白いアルファベットでTREKトレックと刻まれていた。

 Madoneマドン SLRエスエルアール

 それがこのロードバイクの型式であり、輪太郎の愛車だ。愛称を付ける習慣を持ち合わせていないので、輪太郎は普段からこう呼んでいる。

「またよろしくな、戦友」

 埃を綺麗に拭き取り、注油やブレーキの確認など簡単な整備を終えると、輪太郎はコーヒーメーカーで作った淹れ立てのコーヒーを二杯飲み干した。

「さて、行くか」

 ヘルメットと色の薄いサングラスを手にとる。

 、輪太郎は『戦友』と一緒に玄関の外へと出て行った。

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