7th Attack: 覚悟

 柔らかな光が差し込む応接室で、五人がテーブルを囲んでいた。

 上座には野々香と父親の桂太が、下座には校長の安中あんなか、保健の茂手木もてぎ、そして輪太郎が座っている。

「話し合いを始める前に……山城さん、体調の方はもう大丈夫かな?」

「はい、茂手木先生のおかげで元気になりました」

「そうか、それはよかった。では始めましょう。まずは、今日の朝の出来事についてですな。山城さんは、どう思うのかな?」

 指名された野々香がなかなか口を開かないので、父親の桂太がしゃべり出した。

「娘から朝の出来事について聞きました。野々香は許すと言っています。私は彼女の意見を尊重したい」

「はい……でも、改めて謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」

 輪太郎は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「ただねぇ……娘は一つ条件を出しているんですよ」

「自転車部顧問の件ですね」

「その通りです。是非、私からもお願いしたいのです。野々香の面倒を見てやって欲しいのです」

 桂太は、うつむいたまま黙っている娘を見やった。

「この子一人じゃ危なっかしいから、保護者というか、少しでも知識があって理解のある指導者が必要なんです」

 そして、予想外の一言が待っていた。

「娘は……一型いちがた糖尿病とうにょうびょうなんです」

 尿

 その言葉を聞いて、膝の上に置いた輪太郎の拳に思わず力が入った。

 一型糖尿病とは、インスリンというホルモンがうまく作用しなくなることにより、血糖値を正常にコントロールできなくなる病気だ。血糖値が高い状態をずっと放置していると、血管を傷つけて動脈硬化が進んだり、手足のしびれや起立性低血圧といった神経症状があらわれたり、最悪の場合は腎不全や脳梗塞により死に至る場合もある。

「発症したのは四年前です。糖尿病と言えば普通歳を食ったおじさんがなる病気だと思ってたので、最初は何が何だか訳が分かりませんでした」

 俗に言う『糖尿病』の原因として、運動不足や食べ過ぎなどの不摂生が連想される。しかし、これはほとんどの場合において二型糖尿病のことを指す。二型の場合、インスリンはきちんと製造される。しかし、生活習慣などが原因でインスリンの働きを妨げる物質が体内に多く存在するために、糖尿病になると言われている。

「私は娘がこの病気になってからいろいろ勉強しました」

 一方の一型では、ランゲルハンス島と呼ばれる細胞群が何らかの理由で破壊され、インスリンを作り出すことが全くできない。原因は、自己免疫疾患やウィルスによるものとされている。従って、年齢、性別、体型、生活習慣にかかわらず発症するのだ。

 根本的な治療法はなく、一生付き合っていかなければならない病気とされている。

「校長先生から伺いました。鈴原先生は一型糖尿病に多少お詳しいとか」

「……はい」

「それはよかった。前の担任は病気に関して理解のある人とはあまり言えませんでした」

「……校長は、僕が一型糖尿病に詳しいことを知っていたんですね?」

「はい。たまたまブログを拝見しましてな。あなたは以前、一型糖尿病を持った方とお付き合いされていたとか」

「たしかに、私の元カノは一型糖尿病でした」

 そういうことか。こんな形で過去をえぐり出されるとは思いもしなかった。

 輪太郎は、心の中で自嘲した。

 当初、輪太郎はブログに『彼女』のことを全く書いていなかった。ただ、一型糖尿病がどんな病気かをみんなに知ってもらいたいという『彼女』の強い意思に根負けして、輪太郎は記事を書き始めた。もちろん、『彼女』の身元がばれないように慎重には慎重を期したが。

「なんで今まで教えてくれなかったんですか。学級資料にはそんなことは一つも書かれていませんでしたよ」

「家族の強い要望で、他の先生方にはお知らせしてないんです。もちろん、生徒も知りません。今回も、家族から直接あなたにこのことをお伝えしたいということでした。今まで黙っていて申し訳なかったですな」

「なんで……」

「先生」

 そのとき、野々香がおもむろに口を開いた。

「先生がなんで自転車を辞めちゃったのか、私には分からない。三年前にブログの更新が止まっちゃったから。私、好きだったんだ。先生のことが」

 その直後、ハッとした表情になって慌てて「先生のブログが好きだった」と言い直した。

「……何か逃げたくなるようなことがあったんだよね?」

 輪太郎は何も答えられなかった。

 図星だ。僕は逃げた。三年前に起こった、僕と『彼女』を引き裂いた『あの出来事』から。僕はまだ……あの子を死に追いやったあの悪夢を引きずっている。

「だけど先生、私はこの病気から逃げられない。一生血糖値を測定して、インスリンを注射して、コントロールしないといけない」

 そうか、あの既視感は学級名簿だけが原因じゃない。

 野々香の腹筋の周りが赤く膨らんでいたのは、インスリンの注射痕だったのか。それが、『彼女』のお腹とダブって見えたのだ。

「私、なんどもくじけそうになった。辛かった。病気のことでいじめられて本当に死にたくなったこともあった」

 少し間を置いて、野々香は恥ずかしそうにつぶやいた。

「そんな私を救ってくれたのは先生なんだ」

「え……」

「先生がレースで優勝したときの記事、何度も読んだ。特に、『ツール・ド・おきなわ』で二連覇したときのやつ。レース動画も繰り返し見た。

 先生は怪我をしても、病気になっても、どんなに苦しい状況に陥っても、それでも立ち直って、最後はレースで優勝しちゃうんだもん。

 先生は、私にとってのヒーローなの」

 輪太郎は、自分がここまで他人の人生に影響を及ぼしていることに驚いた。最初は自己満足で始めたブログだ。こんなことになるなんて想像もしていない。

「ノーペイン、ノーゲイン」

「苦しみなくして……得るものはない」

「先生のブログのタイトル」

「知ってる」

「先生がなんで自転車辞めちゃったのかなんて、私聞かない。でも、一度、一度だけでいいから……自転車に戻ってきて。

 わがままなことを言ってるのは分かってる。

 でも私は、病気だろうが何だろうがスポーツができるってこと、みんなに見てもらいたい。病気だからスポーツなんてできっこない、そんな偏見と勝負したい。

 私、そのためならいくら苦しんだって構わない。

 だから先生、私と一緒に立ち向かってくれませんか」

 感情が一気にあふれ出る。

「逃げ出しそうになる私を……助けてくれませんか……」

 野々香の口調が、いつの間に敬語になっていた。大粒の涙をこぼして泣きじゃくる野々香を桂太がそっと抱き寄せる。

 輪太郎は呆然となった。

 あの出来事は僕から全てを奪った。それは事実だ。

 だがあのとき、僕は言い訳を探した。早く苦しみから逃れるために。

 そして見つけた。

 悪いのは自転車だ。全部自転車のせいなんだ。僕は自転車が嫌いだと、自分自身に言い聞かせた。納得させた……。

 僕は卑怯な人間だ。弱い人間だ。

 そうだ。分かっている。

 本当は僕のせいだ。自転車との関係を上手く制御できなかった僕のせいで『彼女』はいなくなった。僕は単に、自分ではどうすることも出来ない運命だと思って、自転車を身代わりに投げ捨てていただけだ。

 それに対して、山城野々香はなんて芯が強いんだ。自分の病気に真正面から向き合っている。自分の運命を呪ってなどいない。

 でも、山城はまだ高校二年生だ。不安で胸がいっぱいだろう。

 支えを求めている。道しるべを探している。共に笑って、共に泣いて、共に分かち合える、そんな存在を欲している。

 僕ならなれる。僕は弱いけど、山城を助けられる知識と経験はある。それに僕は教師だ。生徒を導くのは教師の仕事だ。

 やるんだ。『彼女』のときのように。

 輪太郎は覚悟を決めた。

「分かった。引き受けるよ。自転車部の顧問」

「本当?」

「あぁ、本当だ」

 野々香が顔を上げた。

 泣いて、怒って、驚いて……山城野々香という女の子が見せる、ジェットコースターのような感情の起伏。僕はこの子に『彼女』の面影を重ねていたのかもしれない。

「その代わり、残り四人、お前が責任を持ってちゃんと集めてこいよ?」

「はいっ! よろしくね、先生!」

 野々香は涙をポロポロと流しながら、満面の笑顔をたたえていた。

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