6th Attack: 有名

 茂手木は「ふうっ」と大きなため息をつくと、校長室のソファーに腰掛けた。輪太郎には、茂手木が少し疲れているように見えた。

「ところで鈴原さん、校長から聞いたわ。あなた、野々香ちゃんが着替えてる最中の用務員室に押し入ったそうね」

「押し入ったという表現はちょっと……」

「あぁ、ごめんなさい。でもまぁ、これくらいの冗談は言わせて頂戴。私にフォロー役がまわってきて朝から大変だったんだから」

「校長からフォローを頼まれたんですか?」

「そうよ。それも朝の七時半よ? 今日は始業式だったから、たまたま早く来てたのが運の尽きね」

「ちょっと待ってください。それはつまり、校長は最初から用務員室の女の子が山城さんだったって分かってたってことですよね」

「あの時間、あの場所でそんなことをしてるのは、野々香ちゃん以外あり得ないわ。校長でなくともここの先生ならだいたい知ってることよ。まぁ、あなたはここに来たばっかりだから無理もないか。

 ともかく、あなたにちゃんと謝罪の意思があると言っておいてあげたから、安心して頂戴」

「そうだったんですか……」

 茂手木は、ちょっとお茶の準備をするからと部屋を出て行こうとしたが、輪太郎も「手伝います」と言って、彼女の後についていった。

「山城さんとは仲がいいんですか」

「まぁそうね。よくお昼ご飯を一緒に食べるわ」

「そうですか」

「そんなことより、倒れた原因に何か心当たりはあるの?」

「はい……実は、ホームルームが終わった後、山城さんと直接話をしたんです。彼女は僕に自転車部の顧問になって欲しいと言ってきました。僕は断ろうと思って……彼女に向かってつい『自転車は嫌いだ』と言ってしまったんです。それでショックを受けたからではないかと――」

「なんですって! それはいくらなんでも言い過ぎだわ」

「分かってます。弁解のしようもありません」

「しかしまた、なんでそんなことを言ったのよ」

「……自転車には、辛い思い出しかないんです」

「辛い思い出、ねぇ……」

「それに、山城さんは僕が昔自転車をやってたことを知っていました。それが追い打ちをかけたかもしれません」

「どういうことなの、さっぱり分からないわ。あなたたち初対面よね」

「はい。ですが、僕は自転車の世界でちょっとした有名人でして……向こう側が一方的に知っているという状況はよくあります」

「なんか芸能人みたいだけど……なんかいまいちピンとこないわ」

「自転車の世界から一歩でも離れれば、僕も単なる一般人ですけどね。ゲームに出てくる雑魚モブと何ら変わりません」

「どうして有名なの?」

「どう説明すればいいかな……昔、自転車に関する情報をブログとかSNSで発信してたんです。例えるなら、自転車界のみで有名なユーチューバーみたいなものです」

「あなた、ユーチューバーなの?」

「い、いえ! 例えですよ、例え」

 輪太郎は茂手木に対して、自転車ブログ――特にレースに参加している場合――は、匿名で運営することがほとんど不可能であることを説明した。なぜなら、レースの結果はホームページで公開されるため、レースの順位とブログの記事を付き合わせれば大体個人を特定できてしまうのだ。

「ふーん。エゴサーチしたらすぐに出てくるのかしら」

 輪太郎は苦笑いしながら「……できればしないで頂きたいところです」と答えた。

 まさにデジタルタトゥーだな、と輪太郎は思った。

 デジタルタトゥーとは、インターネット上に一旦個人情報を書き込むと、拡散してしまったものを完全に消し去るのは不可能であることを指す言葉だ。たとえ自分自身で記事を全部削除したとしても、自分の意図しないところでバックアップやキャッシュといったデジタルデータは残り続け、人の記憶にも残り続ける。一度彫ってしまうと消すことが難しい入れ墨に例えた表現だ。

 過去がいつまでたっても追いかけてくる。

「だったら野々香ちゃん、なおさらショックだったでしょうね。野々香ちゃん、まさに自転車界の人間って感じだし」

「やっぱりそうなんですか」

「彼女、自転車の話しかしないわ。あのレースで誰々が勝ったとか言われても、私にはさっぱり分からない。知ってる名前と言えば……まぁ、ツール・ド・フランスくらいね」

「日本ではマイナー競技ですから、仕方ありません」

「私としては、もっと高校生らしく恋バナとかして欲しいわ」

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