教室のトナカイ
「聞いてるんですか、先生? 教師というものは本来……」
口煩い教頭の質問に辟易する。聞くフリをしながら、私は頭の中で教頭に胴回し回転蹴りを決めてやる。
一本! 勝者私!
……もちろんそうはならないのが、社会人の辛いところである。私は大きな溜息をついて、もう一度教頭に謝罪した。
「……私の監督不行届きです。申し訳ありませんでした」
「本当にわかっているんですか。次こんなことがあれば、教師の適正がないと自覚して下さいよ」
言い終えた教頭は、やっとのことで私の席から離れて行った。あぁ、解放された。いちいち長いんだよ、教頭の話は。
適正がないだって? そんなのは痛いほどわかってる。つまりは向いていないのだ。教師という職業に。
そう思いながら、私はマグカップのコーヒーに口をつける。すっかりぬるい。まるで今日みたいな、気怠げな朝のよう。
深呼吸をしながら階段を登り、廊下を進む。目指す私の教室は、一番奥の六年二組。
さて、今日は終業式。授業はなく午前中で終わりだ。しかし懸念事項は既にある。さっき教頭から受けた説教の原因がそれ。
私のクラスのある子が、昨日家出をした。それが悩みのタネである。
終業式が終わったら、その子を呼び出さないといけない。さて、どうやって呼び出そうか。
私は教室の扉の前でもう一度深呼吸をする。ともすれば深い溜息に聞こえるそれを、どうにか空元気で誤魔化した。
……よし、行こう。二学期最後。朝のホームルームの始まりだ。
「……それで、どうして家出なんてしたの。先生に説明してごらん?」
放課後。と言っても終業式が終わった昼過ぎ。私は教室に残り、件の家出少年と二人で話をしていた。
彼は少し特殊な事情の男の子だ。授業態度は至って真面目で、成績もトップクラス。何が特殊かと言えば、昨年両親が離婚していることだ。
「聞いてる?」
「……家出じゃない」
ぽつりと漏らす彼。視線を私に合わせることなく、ポケットに手を突っ込んでいた。
「あのね、キミはまだ小学生なんだよ? 今回はお父さんに偶然会えたからよかったけどさ。会えなかったらどうするつもりだったの」
「偶然会えたんじゃない。僕が父さんを探し当てたんだ」
「先生は、そうは思えないけどなぁ」
「先生がそう思うのなら、それでいい。僕は父さんに会いに行こうと思って、一人であの街に行ったんだ。そして目的を達成した。だから家出じゃない」
「でも、最後はお父さんに送ってもらったんでしょ? 車に乗せてもらって、お家まで。それって自分一人じゃどうにもならなかった、ってことよ」
「それは……」
彼は口籠る。実際、昨日は大事になる寸前だった。私は彼のお母さんから連絡を貰い、昨日はそれにかかりきり。クリスマスイヴに予定が入ってなくて、ある意味良かったのかも知れない。いや悲しいけど。
彼は目を伏せたまま黙っている。さてどうしたものか。優秀な彼が家出をするなんて、まさに寝耳に水だった。
よりによってクリスマスイヴに家出なんて。サンタが父親に会わせてくれると思ったのだろうか。
「……先生。質問してもいい?」
「なにかな」
「大人ってさ、いつからなれるものなの?」
「なにそれ。法律的にってこと? それなら、しばらくは二十歳になったらだけど」
「そんなことは知ってるよ。僕は、そういう意味で訊いてない。昨日父さんに、大人になれって言われたんだ」
「それは、お父さんが怒ってたからじゃない?」
「父さんは怒っていなかった。大人になれば、悲しいことも乗り越えられるって言ってた。だから僕は早く大人になりたいんだ」
大人になりたい、か。なるほど。
私も思う。大人になりたいと。
今年で二十五歳になった私。世間的には完全に大人だ。でも、ただ漫然と歳を重ねただけ。
透き通った目で問う彼の、純粋な心が痛い。教師に助けを求める目。でも教師だって完璧じゃない。そんな完璧じゃない人間に、子供を導く資格などあるのだろうか。
「先生、教えてよ。早く大人になる方法を」
純度の高い、穢れのない質問。それは何も悪くない子供だけに許された特権のよう。
確かに子供は何も悪くない。悪いのは自分の都合で子供をどうこうしようとする大人。そして私も、その一員だ。
そんな汚れきった私が、この質問に小手先で答えられるはずはない。
だから。
私は先生としてではなく一人の人間として、答える事にした。それしかないと、そう思ったから。
「……今から言うことは、先生としての言葉じゃないからね。それでもいい?」
「うん」
「本当にわかってる?」
「うん」
「本当かな。まぁいいや。私はね、自分が大人だなんてまだ思えてないよ」
「先生が、大人じゃないって?」
「そうだよ。今日も教頭先生に怒られたしさ。教師に向いてないって言われて、何も言い返せなかったよ。そりゃそうだよね。私、強い気持ちで教師を目指した訳じゃないし」
私の言葉を無言で聞いている彼。教師である私が、こんな事を言うはずがないと思っているような表情だ。
「たまに思うの。私、このままでいいのかなって。私みたいな教師にさ、教えられるキミたちが可哀想に思えてきて。大人になり切れてない私に、子供を導く資格があるのかどうか悩んでるの」
「先生でも、悩むんだ」
「当たり前じゃん。だからさっきの答えはね。早く大人になる方法なんてないの。キミが大人だと思っている人も、案外まだ子供なんだよ」
「それじゃあ、僕はずっと大人になれないのかな」
「大人になろうと無理するんじゃなくて、受け入れればいいんだよ。自分がまだ子供だってことをね。すると余裕が出てくるでしょ? それが大人になる第一歩、なのかも知れないね」
途中から、自分に言い聞かせているみたいだった。無理に「こう在ろう」とするんじゃない。できない自分も含め、ありのままを受け入れること。それが大切だったのかも知れないと思う。もう、遅いけど。
「ありがとう、先生。難しいけど、何となくわかった気がする。僕は無理に大人になろうとするんじゃなくて、今の自分を大事にするよ」
「それがいいよ。頑張ってね」
「うん、頑張る。あ、そうだ。先生にお礼」
彼はずっとポケットに入れていた手を出した。その手に握られていたもの。それは小さなトナカイのぬいぐるみ。つぶらな瞳が可愛いヤツ。
「ただのトナカイじゃないんだ。願いを叶えてくれるんだよ。僕もこれに願いを叶えてもらったんだ」
「そんな大切なもの、貰っていいの?」
「うん。でも叶う願いはひとつだけ。叶ったら別の誰かに渡さないといけない。先生、約束できる?」
「うん、約束するよ」
小さなトナカイを受け取る。そのトナカイと目が合うと、不思議と問いかけられている気がした。
それは「どうして教師を志したのか」という問いだ。何かきっかけがあったはず。なのに思い出せない私。情けなくて、少し涙が出そうになる。
「先生、泣いてるの?」
「泣いてないよ。大丈夫。嬉しかっただけ」
「そっか。先生、ありがとう。先生が僕の先生で、良かった」
──あぁ、それだ。
私はその言葉を言って貰いたくて、教師を志したんだ。
こんな簡単なこと、忘れていたなんて。
「先生の願いも、叶うと良いね。メリークリスマス」
「ありがとね。メリークリスマス」
やっぱり一筋、涙が溢れ出た。
でも大丈夫。これはきっと、嬉し涙だから。
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