第3話 十六夜月
長いようで短い夜が明けて、マイカが死ぬことになっている日の朝を迎えた。
こちらを向いて寝ているマイカの寝顔をずっと眺めていた私は、当然ながら目覚めたマイカと目がぱっちりと合い、マイカははにかんで頰を赤らめた。
そんな彼女を見て私も頰が熱くなり、彼女を抱きしめた。
今日はマイカの学校が休みであったため、二人でどこかへと出かけることにした。
朝食を食べ終わった後で、お昼ごはん用に二人でサンドイッチを作り、マイカに言われてできる限りのオシャレをした。
別々に支度をし、先に玄関の前でマイカの準備が整うのを待っていると、階段からマイカが降りてきた。
「どう、かな?」
そう少し照れながら言ったマイカが着ていたのは、薄手の白色のセーターの上にレンガ色のカーディガンを羽織り、チャイティーのロングスカートと少し大人びた秋の装いであった。
「とても大人っぽくて似合ってますよ」
「ほんと?ありがと!ヨツバも黒のモノトーンがかっこいいね。さすが死神」
「ありがとうございます。では行きましょうか」
そう言って私が差し出した手をマイカはおずおずと握る。
マイカに連れられてやってきた場所は、紅葉した木々が並び、そして大きな池のある公園だった。
池の畔にシートを引き、二人で腰掛ける。
そして二人で作ったサンドイッチをつまみ、落ち着いた時間を過ごしていた。
「ここね、おじいちゃんによく連れ来てもらった公園なんだ。ほんとは春に来れたらよかったんだけど」
「春だと何かあったのですか?」
「桜がね、綺麗に咲くんだ」
「なるほど。それでも私はこの落ち着いた風景が好きになりましたよ」
「うん、私も好き」
少し肌寒い風が吹き抜け、温め合うようにヨツバとマイカは距離を詰める。
そしてお互いの視線が重なり合い、どちらともなく目を閉じる。
「元気でね、ヨツバ」
その言葉に私が目を開くと同時に、マイカとの唇がそっと重なった。
ついばむような優しいキスは数秒で終わり、唇と唇が離れる。
「マイカ、先ほどの言葉の意味は?」
その答えをマイカから聞くより先に、私はガラスの箱の中に閉じ込められていた。
「これは…」
ガラスの向こう側にいるマイカは優しい笑顔に涙を浮かべ、無言のまま立ち上がってこの場を離れていく。
「マイカ?マイカ!」
私の呼びかけにマイカは応えず、こちらを振り返ることもなく走って遠ざかっていった。
何が起きたのか分からず、呆然としている私の前にどこからともなく一番が現れた。
「なぜ貴方がここに」
「四番、お主は人としての感情を持ちすぎた。これ以上は普通の死神として機能することができない。自分でも分かっておるな?」
「…それが何か?」
「故に四番、お主を次の一番の後継とする」
「何を言って…?」
「儂も死神といえど十分な歳じゃ。いつ消えてもおかしくない。そして消えゆく前に儂の後継、感情を持つ死神を育てる必要があった。四番をここまで感情豊かにするとは、あの少女は本当によくやってくれた」
「…マイカを利用したのですか?」
「それは違う。お主があの少女の元へと赴く前の日、儂は少女に一冊の本を与えた。少女自身について書かれた白い本じゃ。それで自らの未来を読んだ少女が自分で進むべき未来を選んだまで。儂は一切、少女の行動に口出ししてはおらぬ」
「…自分の未来を知っているのなら、わざわざ死を受け入れるとは思えないのですが?」
「しかしながらあの少女は今、事故が起きる現場へと向かっているようじゃが」
「!なん…で…」
「さあ、未来を読んだ少女が自分で決めたことじゃ。自分の命よりも何か大切なものが、あったのかもしれんのう」
一番はこちらに視線を向けてくる。
「今の感情を持ったお主が死神の力を行使できるのはあと一回。そのガラスを割るには死神の力が必要じゃ。あの少女が死を迎えるまで割らなければ、お主は死神としてあの少女の魂を導くことができる。じゃが、もしもそれまでに割ってしまえば、お主は力を使い果たして死神でなくなり、数刻もせぬうちにこの世から消え去る。…少女の想いを無駄にせぬようにな」
そう言い残して一番は姿が掻き消した。
「待て一番!まだ話は終わっていない!」
誰もいない公園に虚しく叫び声が響き渡る。
風に吹かれた枯れ葉が池に落ち、水面でユラユラと揺られていた。
「くそっ!」
やるせない気持ちを吐き出すように、私はガラスの壁に拳を力強く打ちつけたが、目の前のガラスは傷一つ付かなかった。
おじいちゃんが死んだ日に、私は死神と名乗る老人から白い本を手渡された。
その本には私のこれまでと、これからの未来について書かれていた。
そしてこれから本に書かれた通りに行動し、明日から二日間同じ時を過ごすことになる死神の感情を引き出すことができたなら、私の次の人生は温かい家族に囲まれ、友達にも恵まれ、充実した人生を送ることができると。
そうとも書かれていた。
そんな来世を迎えられるならと、最初は本に記された通りに決められた未来をなぞっているだけだった。
この死神の人としての感情を引き出すために、会話をして、一緒にご飯を食べて、喧嘩して。
ただただ自分の来世を良いものにするために、
この悪夢のような救いのない人生から逃れるために、
上辺だけの関係を演じていた。
本と違う出来事が起きた。
私はあの時レイナちゃんに髪を切られるはずだった。
その後絶望に塞ぎ込み、次の日に自殺する私を見て死神は感情を手に入れるはずだった。
でも彼は私を救ってくれた。
恐怖で震えていた私の手を優しく握ってくれた。
希望を見出せなかったこの人生に、一筋の光が差した気がした。
気づけばたちまち彼に惹かれていった。
思い切って一世一代の告白をした。
生い先短い運命だし、ここで言っておかないときっと後悔する。
相手は死神。
正直言って望みは0に等しい。
でも彼は受け入れてくれた。
顔を真っ赤にしながら返事をくれた。
初恋は実らないって聞くけど、案外そんなことないのかも。
家に帰ってから私は先に一人で白い本の中を確認した。
未来が変わっていた。
私は明日、交通事故に巻き込まれて死ぬらしい。
そして私が死を受け入れなければ、代わりに彼の存在が消えてしまうという。
こんなのってないよ…
もっと彼のそばにいたい。
笑った顔を見ていたい。
彼の温かさを忘れたくない。
死にたく…ないよ…
私は溢れてくる涙を袖でゴシゴシと拭って、笑顔を浮かべて彼を出迎えた。
制服の上にエプロンを着て、お玉を持って、長い髪を後ろで纏めて結って。
いつか憧れていた新婚の奥さんみたいに。
恥ずかしくてご飯とお風呂のあとに、私にする?なんて聞けなかったけどね。
それでも彼は真っ赤に照れていたからよしとしよう。
隣で寝転んでいる彼は少し寂しそうだった。
寝たら明日を迎えてしまうから。
明日は私がこの世からいなくなる日だから。
ここで釘をさしておかないと、きっと彼は私を助けようとする。
彼がいなくなることだけは、私が好きになった人が消えてしまうのは絶対に嫌だ。
だからごめんね。
こんなずるい私を好きになってくれてありがとう。
彼と唇を重ねた。
正真正銘、私の最初で最後のファーストキス。
お昼に食べたサンドイッチの卵の味がほんのりとして、でも甘くてフワフワと幸せな気分になった。
離れたくない…
離れて行かなくちゃ。
ずっとこのまま…
早く立って向かわないと。
躊躇いがちに、ゆっくりと唇を離していく。
そして彼と私は無機質なガラスで遮られた。
バイバイ…私の死神様。
私はもうすぐ死を迎える。
十三年という短い人生ではあるが、それなりに充実したものだった。
特にこの二日間の彼との時間は私にとってかけがえのないものだとなった。
生きる希望のなかった私に、あろうことか死神が幸せをくれた。
苦しくて辛く、思いつめた心も含めて彼は救ってくれた。
生まれて初めての恋を教えてくれた。
もう十分だろう。
こんな私が、この命を捧げるだけで愛する人の魂を救えるというのなら、これ以上ない人生の終わり方だ。
私はゆっくりとした足取りで、白い本に記された交差点へと向かっていった。
手元に開いた白い本に涙が一つ、また一つと落ちて文字を滲ませていく。
ごめん。
ごめんマイカ。
君の想いに気づいてやれなくて。
独りで全部抱え込ませてしまって。
君は最初から最後まで知っていて、あんなにも沢山の笑顔を、思い出を、幸せを私にくれたというのに。
私は自分の想いを君に伝えることを躊躇ってしまった。
怖かったんだ。
君はいつも笑顔だったから。
そんな君を悲しませてしまうのではないかと。
でも違った。
心の中で君はずっと泣いていた。
泣いて泣いて、それでも気丈に振る舞っていた。
本当は死ぬのが怖くてしかなかったはずなのに。
今からでもまだ間に合うだろうか。
私はまだ君と居たい。
同じ時を重ねて歳をとりたい。
私が死神で、君が今日死ぬ運命だとしても。
来年の春にまたここに来て、君の好きだという桜を一緒に見たい。
その気持ちを君に、余すことなく言葉にして伝えたい。
閉ざされたガラスの壁を前に、私は覚悟を決めた。
左手を宙に掲げて指を弾く。
ーパチン…
目の前のガラスの壁が音を立てて粉々に崩れ落ち、それとともに残されていた死神の力が無くなってしまうのも感じ取れた。
時刻は十四時三十二分。
私は無我夢中でマイカの元へと駆け出していた。
走って、走って、走って。
追いついた先では今まさにマイカが車に轢かれようとしている瞬間であった。
マイカは自らの死を受け入れるかのように、じっとその場に立ち止まっている。
「マイカ!!!」
私の叫び声に気づいて驚きを露わにするも、今更車を避けることなど到底できない。
私はマイカの元へ飛び込み、そしてその華奢な身体を抱えて倒れ込んだ。
間に合った。
助けることができた。
だが世界は無情だった。
瞬き一つ後に続いて私の視線の先に映ったのは、電柱に突っ込んだ自動車と、少し離れた位置で頭から血を流して倒れているマイカだった。
「なん…で?だって今助けて…」
世界の強制力。
そんな言葉が瞬時に脳裏をよぎった。
私は膝から崩れ落ちそうになる体を必死に奮い立たせてマイカの元へと向かう。
私はマイカの元へと駆け寄り、その体を優しく抱きかかえる。
「マイカ!しっかりしろ!マイカ!」
そう呼びけるとマイカは薄っすらと目を開けて私の顔を見た。
「ヨツ…バ?」
「そうだよ!わかるか?」
「ダメ…じゃん、ここに来たら…」
「いいんだ!もうそんなこと気にしなくたっていいから!」
私の瞳から溢れ出す雫がマイカの頰を濡らす。
「ふふ…死神でも…涙を流すんだね…」
マイカは左手を伸ばしてその細い指でそっと私の涙をはらう。
「死神だって人と何も変わりませんよ。それを私に教えてくれたのはマイカなんですから」
「そっか…」
「そうですよ」
「…ねえ、私の魂は…ヨツバが導いてくれるの?」
「…はい」
嘘だ。私にそんな力はもう残っていない。
「そっか…なら私はきっと…優しい世界に行くことができるね…」
「何を…言って?」
「…こんなに優しいヨツバが…連れて行ってくれる世界なら…、きっとそこは優しい世界だよ…」
「そんなの…」
「そこで私は願うんだ…。明日も明後日も…その次の日だって…私の死神様に会えますように…って。そうすればきっと…私たちはずっと…一緒にいられるよ」
「そんなこと願わなくたって、私はずっとマイカのそばにいますよ!来年の春にだって、またマイカとあの公園に行って桜を一緒に見たいんです!ずっとずっとマイカの側に居て、一緒に歳を重ねて…だから死なないでください…」
「…ふふ、ヨツバに…そこまで想って…もらえてたなんて…私は世界一の幸せ者だね…」
「マイカ…」
「愛してるよ…ヨツバ」
「私も心から愛しています…」
マイカがとびきりの笑顔を私に向けてくる。
それに対して、私は涙ながらの笑顔を返すことしかできなかった。
そしてマイカはそっとその目を閉じた。
マイカの命の灯火が消えるとともに、私は死神が儀式を行う暗闇の中にいた。
「…ここは?」
死神でなくなったはずの自分がなぜここにいるのか。
暗闇の中を少し歩くと、綺麗な空色の魂がフワフワと浮かんでいた。
その輝きはとても優しいものだった。
魂の側へと近づき、私は語りかける。
「大丈夫ですよ。マイカを独りになんて、絶対にさせませんから」
右手首に左手の爪をあて、一思いに動脈を切る。
溢れ出した鮮血で左手を真っ赤に染め、そのまま宙へと掲げる。
「感謝します、一番」
ーパチン…
指を弾く。
今までで一番綺麗な音を奏でたのを最後にヨツバは事切れ、そしてやがて二つの魂が寄り添うように天の光の先へと昇っていった。
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