第2話 満月
私はマイカの部屋の前で腰をかけて夜が明けるのを待った。
マイカの人生について書かれた本の続きを、なぜか私は読む気になれず、その代わり彼女の発言の意図をずっと考えていた。
本を読めば彼女の心情も分かり、胸のモヤモヤも解決するのだろうが、それはするべきではないと直感的に思ったのだ。
気づけば廊下の窓から朝日の光が差し込み、私の頰を照らしていた。
ポケットから取り出した携行食を一口かじるも、その味は普段より些か物悲しくて腹が満たされることはなかった。
ーガチャ…
部屋の扉が開いて、寝癖のついた長い髪を手櫛で少し整えながら寝巻き姿のマイカが中から出てくる。
部屋の前で座り込む私を見て少し驚いた様子となるが、やはり私に声をかけることもなく目の前を通り過ぎ去っていく。
学校に行く支度を終え、家から出るマイカの後に私はついていく。
「いつまでついて来るの?」
マイカは私に視線を向けることなく、前を向いたままそんなことを言った。
「マイカが死ぬまでですよ」
「どこかに行ってくれない?」
「…分かりました」
そう答えてマイカからも見えないように姿を消す。
マイカには嘘を吐くことになるが、死神の義務として対象者の側を離れることができない故の苦肉の策だ。
マイカはそれを横目で確認すると、無言のまま通学路を歩いて行った。
学校に着いてからのマイカは、昨日の夜話していたマイカとは別人だった。
明るくて可愛らしい笑顔の彼女は鳴りを潜め、常に俯いたまま暗い陰鬱な雰囲気を纏って独りでいた。
周りの少年少女たちはそんな彼女を当たり前のものとして気にかけることもなく、ただ物理的にも精神的にも距離を置いていた。
そんなマイカのもとに一人の男の子が昼休みの時間に訪ねてきていた。
マイカの前の席の椅子に座り、ひたすら何かを楽しげに語っていた。
もっとも対するマイカは笑みを一つも浮かべることなく、ただ最低限の相槌を打っているだけだったが。
そんな二人を廊下から憎らしそうに眺める女の子に、マイカはきっと気付いているのだろう。
授業が終わり、早々と帰路につこうとしたマイカの前に一人の女の子が現れる。
「ねえちょっといい?」
「…何か用レイナちゃん?」
「いいから来なさい。でないとハブるだけじゃなくてもう学校に来られないようにするわよ?」
「…分かった」
そしてマイカが連れられた先は、レイナと呼ばれた女の子の家のようだ。
周囲よりも一段と高級感のある家にレイナとマイカの二人は入っていく。
レイナは自室のベッドに腰掛けて肩上で切り揃えた髪を指でいじりながら、目の前で佇むマイカを睨みつける。
「コウキくんね、綺麗な髪の長い女の子が好きなんだって」
「…そうなんだ」
「私ね、コウキ君のことが好きなの。でもコウキ君はあんたのことを気にかけてるみたい」
「…」
何も答えないでいるマイカに向けて、レイナは銀色の鋭利なハサミを差し出す。
「その鬱陶しい長い髪、今ここで切って」
「…や」
「何?」
「…いやだ」
「ふーん、私に逆らうんだ」
その言葉にマイカはビクッと体を強張らせて少し後ずさる。
「別にいいよ。マイカが自分でやらないって言うなら私がやってあげるから」
そう言ってレイナは目の前で動けなくなっているマイカの髪を無造作に掴み引っ張る。
「いっ、痛い!やめて!お願いだから髪だけは許して!お願いだから!」
「このっ、大人しくしなさい!」
レイナの手を振りほどこうとマイカが暴れたために、マイカの髪が数本千切れてレイナの手を離れ、マイカは尻もちをついて倒れる。
その時の反動でレイナはハサミを落とし、レイナの手にはハサミによる切り傷ができていた。
「あっ…」
「ーッ…、痛い。あんたが暴れるせいで怪我したじゃない!代わりにあんたの髪を切らせなさいよ!でないと学校で言いふらすわよ!」
それでもマイカは自分の髪をレイナから隠すように庇う。
「どうせあんたのことなんか誰も見てないんだから!ずっとずっと独りぼっちのくせに!」
その言葉にマイカは大きく動揺し、目には涙を浮かべていた。
そして何かを諦めるようにうなだれ、髪を庇うのをやめた。
「フン、最初からそうしてればいいのよ」
そう言って落ちたハサミをレイナは拾おうと腰を屈める。
「独りじゃありませんよ」
ーパチン…
指を弾く音が部屋に響く。
するとレイナは腰を屈めたところで、前のめりに床のカーペットに倒れ込んだ。
「えっ?」
目の前で何が起きたのか分からず呆然としているマイカの前に私は姿を現す。
「行きますよマイカ」
「ヨツバ…」
私は手を差し伸べてマイカの震える手を握りしめて立ち上がらせる。
「レイナちゃんは?」
「眠っているだけですよ。しばらくは起きないでしょうね」
「…現実に手を出すのはルール違反じゃなかったの?」
「さあ、生憎と私は何も知りません。貧血でも起こしたのでは?」
「…りがと」
私の服の裾を掴み、俯き気味にマイカは呟く。
「では早く帰ってご飯にしましょう。なぜかこれでは物足りなくなってしまったので」
そう言って空になった携帯食料の箱をマイカに見せると、彼女はフッと笑った。
「ヨツバは何か食べたいものある?」
「マイカが作ったものならなんでも」
「もうっ、そういうことを素で言わないで」
「ならカレーがいいです」
「どうして?」
「…マイカの得意料理だと、マイカの祖父の記憶にあったので」
「そっか、ならまずは買い出しに行かないとね」
そう言って私とマイカは、レイナの家を後にしてスーパーへと向かった。
夕日が空を紅く染める中、周囲の人気はほとんどない。
そんな中、買い出しを終えた家への帰り道でマイカがおもむろに語り始めた。
「この髪ね、確か小学校三年生くらいの頃から伸ばし始めたんだ」
そう言ってマイカは自分の髪を、スーパーの袋を持っていない方の手で横に流す。
「おじいちゃんがマイカの髪は綺麗だねって褒めてくれて、それから伸ばし始めたの。おじいちゃんが将来先に死んじゃっても安心できるよう、良い人に巡り会えますようにって願いも込めてね」
マイカ自身、自分が大人になる前に祖父が亡くなるとは思ってもみなかったのだろう。そんなマイカの思いが言葉の端々に溢れていた。
「でもね、もう私の成長を見てくれるおじいちゃんはどこにもいないの。だから、」
マイカは私の正面に立ち、私を見上げて顔をしっかりと見つめる。
「私が死ぬまで、ヨツバに私のことを見ていてほしい」
私とマイカの距離が少し縮まる。
「本の中の私じゃなくて目の前の私を見て、感じて、知って」
マイカは私の胸に顔を埋めるように抱きつく。
「私ね、久しぶりに名前を呼んでもらって嬉しかったんだよ」
マイカの言葉が、
「私ね、久しぶりに誰かと話せて嬉しかったんだよ」
一言一言に込められた感情が、
「私ね、久しぶりに誰かとご飯を食べることができて嬉しかったんだよ」
その全てが余すことなく私の胸をうち、
「今の私は、久しぶりに人の温もりを感じられて、ほんとの本当に嬉しいんだよ」
目の前の少女をとても愛おしく感じさせた。
しばらくの沈黙が続いたのち、その空気に耐えきれなくなったのかマイカが茶化すように言った。
「何とか言ったらどうなの?この朴念仁」
そう言って体を離して顔を上げようとするマイカを、私は焦って・・・止めようとする。
「いっ、今顔を上げてはダメです!」
「どうして?」
そう疑問を口にしながら顔を上げたマイカは、私の顔を見て二マーっと頰を緩めた。
「ヨツバの顔、真っ赤じゃん」
「それは、ゆ、夕日のせいでそう見えるだけですよ」
「この死神はまたベタなことを」
「それに、それをいうならマイカだって顔が真っ赤ですよ」
「それは、一世一代の大告白を今したんだから当たり前じゃん」
マイカがそう言うとお互いに気恥ずかしくなり俯いてしまう。
「…それで、ヨツバの返事は?」
上目遣いでこちらの様子を窺うマイカを前に、私は高鳴る胸の鼓動を抑えることができなかった。
今まで知らなかった感情。
この感情を人はきっと恋と呼ぶのだろう。
私は目の前の少女に、マイカに恋をしているのか。
その答えに気づいたと同時に、私は自分が死神であることと、マイカの命が明日までのものであることをひどく恨めしく思った。
「…こんな私でよければ」
そう返事をした途端、マイカは満面の笑みを浮かべて私にもう一度ギューっと抱きついてきた。
私はそんなマイカの背にゆっくりと手を回した。
(今だけは…)
いつしか陽は沈み、黄昏時が二人を世界からそっと消していた。
少女と死神。
二人の時間は誰にも邪魔されることなく、ただただ優しくすぎていった。
ヨツバとマイカ、二人は手を繋いで歩いた。
家の門前まで帰ってきたところで、マイカが何かを閃いたように無邪気な笑顔を向けてくる。
「ねえヨツバ、私が先に家に入るから少しだけ玄関の扉の前で待ってて」
「別にいいですけど、何かあるのですか?」
「それは見てからのお楽しみってことで」
そう言われてから待つこと数分、マイカから家に入る許可が下りる。
「もういいよー、入ってきてー」
言われるがまま扉を開けて家に入ると、そこにはこれ以上ないくらい可愛い生き物がいた。
「お、おかえりなさい、あ、あなた。ご飯にする?それともお風呂にする?」
その可愛い生き物は、長い黒髪を後ろで縛ってポニーテールとし、制服の上にエプロンをつけて片手にはお玉を持ち、恥ずかしさで顔を真っ赤にしたマイカだった。
「た、ただいまマイカ」
私はそう言うのが精一杯で、後には何も言うことができなかった。
「「………」」
何とも言えない沈黙が場を支配する。
「さ、さてご飯もできてないしお風呂も入れてないから準備にとりかからないとね」
「き、今日は私も料理手伝いますよ」
「じゃ、じゃあお願いしようかな」
そう二人してそそくさと台所へと向かい、夕飯の支度を始めるのだった。
新婚のような甘い空気と、付き合いたてのカップルのようなぎこちない空気を醸しながらも、二人で作ったカレーは格別に美味しいものだった。
その夜は二人で同じベッドで眠ることとなり、私はマイカのベッドに横になっていた。
一人用のベッドであるため少し窮屈ではあったが、互いに相手の温もりを感じられて幸せだった。
眠りについてしまう前に、マイカが私に問いかける。
「ねえヨツバ」
「何ですか?」
「私がいつ死ぬか、ヨツバは知ってるの?」
「…知っていますよ」
「そっか」
「いつなのか知りたいですか?」
「いや別に」
「そうですか」
「………」
「………」
「…私が死ぬことになっても、ヨツバは手を出しちゃダメだよ」
「それは…」
「それが死神の仕事とルールなんでしょ?」
「………」
時計の針が刻を刻んでいく音が、静かな部屋に響き渡る。
「私が死んだらさ、ヨツバが私の魂を導いてくれる?」
「…もちろんです」
「じゃあ約束しよ」
そう言ってマイカは小指を差し出してくる。
「あれ、ヨツバこれ知らない?」
「知っていますよ」
私も小指を出してマイカの小指と絡める。
「じゃあいくよ?」
「「指切りげんまん 嘘ついたら 針千本のーます 指切った」」
離れた小指をマイカは大事そうに胸に抱く。
「ヨツバ」
「はい」
「好きだよ」
「私もマイカのことが好きですよ」
「ん…おやすみ」
「おやすみなさい」
マイカが眠りについた後、私は彼女を起こさないようにそっとベッドを降り、家の屋根の上へと向かった。
白い満月が世界を煌々と照らす中、一人の老人がいた。
「何か御用でしょうか?一番」
私が一番と呼んだ老人は空を仰いだまま微動だにしない。
「今宵の月は大層綺麗なものだな」
「そうですね」
私が同意を示すと、一番はゆっくりと振り返り、その長い白髭に手をやりながらこちらを観察するように視線を向ける。
「あの生真面目が、随分と感情を表に出すようになったものだ」
「見ておられたのですね」
少し語気を強めに言葉を返すも、一番は揺らぐこともない。
「そう怒るでない。一番肝心なところはなぜか儂でも見れんかったしのう」
「そういう問題ではないのですが」
「ほっほ、まあ今日儂がここに赴いた理由じゃが」
一番は少しの間を置き、そして告げる。
「お主は死神、その責務は理解しとるな?」
「…もちろんです」
「ふむ、ならばこれで儂の用は済んだ。あとはあの少女の側に居てやるが良い」
そう告げると一番はこの場から姿を消した。
懐の手帳を取り出して開くと、そこに書かれていた情報は前に見たものと変わっていた。
桜本 舞花
十月十六日 十四時三十六分 交通事故ニテ死ス
一度定められた死から人は逃れることはできない。
世界の強制力。
仮に過程に変化が生じても必ずどこかで辻褄を合わせるために修正が入る。
マイカは明日死を迎える。
私はしばらく夜風に吹かれた後に、マイカの元へと戻っていった。
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