第20話
ほどなく麻里は退職届を提出した。
勇夫は仕事は仕事とわりきり、麻里を失くしたこころの痛手を、できるだけ顔に出さないよう心がけてはいるのだが、麻里を失くす寂しさが背中にあらわれる。
「よう、勇夫。おめえ、元気だせよ。そんなに落ち込むのもわかるけどもよ」
「えっ、なに?おれが落ち込んでるって?あはは、そんなことあるわけねえじゃねえか。ほら、釣りさ。こないだなんて、とてもでっかいチヌを釣り上げてさ。もっか
ルンルン気分さ」
「ばかいえ、とてもそんなふうには見えねえぜ。女だろ?みんな知ってるぜ」
「ばかいえ」
勇夫のとりつくろいは、すぐにはがれてしまう。
もしやと思い、勇夫はひんぱんに事務所に通った。
「うふふふ、山本さん。そんなにわたしをご覧になって……、わたしの顔に何かついてますか」
麻里の代わりに入った新顔の事務員が笑う。
一か月も経たないうちに、勇夫は自堕落になった。
平気でひげづらで出社したり、言葉つきが無作法そのものになってしまった。
しばしば会社を休んだ。
「会社で何があったか知らないけれど、勇夫よ。もうちっと、しゃんとしてくれねえとな、うちはやってけねえぞ」
母に叱られると、勇夫は海辺に出かけては、沖を眺めた。
胸がしめつけられるような数か月が過ぎたある日の遅い午後、飼い犬のタロがなんとなく落ち着きがない。
「おい、タロ、どうした。いつもと違うじゃねえか」
するとタロは勇夫の顔を見あげた。だらりと舌を出し、鼻でクンクン鳴いた。
「こんな時刻に散歩ってか?」
勇夫の問いに、タロが顔をあげてしっぽを振る。
「よし、わかった」
この日、タロの足取りは力強かった。海辺に向かい、勢いよくかけ下った。
「おいおい、そんなに引っ張るなよ。おらがころぶじゃねえか」
首輪につながるリードを、砂浜に打ち上げられた流木の太い枝にからませ、身動きがとれなくなった。
秋の日は短い。
四時を過ぎると、たちまち辺りが暗くなり始めた。
夕日が海のおもてを茜色に照らし出す。
勇夫はあたりを見まわした。
(まったくな。どうしても思い出すよな。あの子、子どものくせして泳ぎがうますぎたよな。おらが竿ごと釣りにがした大魚をやすやすとつかまえてきたよな。あの子が麻里だったなんてことになったら、どうする?ありえねえよな。地球がひっくりかえってしまうよな。でも待てよ。あの子が人間じゃないとしたらどうだろう。あれだよあれ……、変身ってやつ……、そんなことありえないけどよう)
太陽が水平線に近づくにつれ、次第に大きくなった。
辺りがすとんと暗くなる。
「さあ、足もとが明るいうちだ、帰ろう」
勇夫がタロに呼びかけ、家路につこうとした。
だが、タロは家とは反対方向、海辺に向かってかけだそうとする。
「こら待て。どこさ行く」
勇夫はリードを力強くひっぱった。
しかたなくタロはあきらめ、しおしおと勇夫に従ってくる。
防波堤まであと五、六メートルというところで、タロはふいに動きをとめた。 両耳をしきりに動かす。
「おいおい、どうしたんだ。何か聞こえたのか」
タロは回れ右をすると、ううっと一声鳴いた。
彼の視線の先に何があるのだろう。
波がうねっているだけだ。
タロにはそれが暗い海でまるで巨大なエイがゆらりゆらりと動いているように見えるのだろうか。
ワンッ。
タロが駆けだそうとするのを、勇夫はなんとか阻止しようとした。
だが、彼は後足で立ち、両の前足を、中空で激しく動かす。
(何かあるんだな。犬にしかわからないことが……)
しかたなく、勇夫はタロがしたいようにさせることに決めた。
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