第19話

 翌日、勇夫はいつもより早く出勤した。

 しかし、始業時刻が過ぎてしばらく経つというのに、青梅麻里は勇夫の目の前になかなか現れない。


 (きのうのきょうだし、おかしなことだな。約束すっぽかしたんだし、すぐに来てもよさそうなもの。果たしておれと会う意思があるのかな。あるとすれば、ことは簡単、前にそうしたように何かにかこつけ、事務所からおれのいる工場に出向くことだってできるのに……)


 これから起きそうなことについて、勇夫はあれこれ、考え始めた。

 しかし、それらはほとんど妄想と言ってよく、一本筋がつきそうにない。


 (恋愛下手だし、この歳まで奥さんがもらえないんだ。女の人をぐいぐい引っ張る力量がないからだけど……。いっそのことすべて神さまに任せてしまおう)


 昼休みのチャイムが鳴るとすぐ、勇夫は外に出た。

 以前、麻里と出逢った小公園に自然と足が向いた。

 猫背でとぼとぼ歩いてしまう。

 これじゃだめだぞと、途中で、背筋をすくっとのばした。


 イチョウはほとんど実を落としていた。

 以前、麻里と出会った時いっしょに腰かけたベンチ一面に、小梅くらいの大きさの実が積もっていた。


 イチョウの実は勇夫にとって思い出深い。

 今は亡き母方の祖母が、ねしょんべん治しだと幼い勇夫にむりやり食べさせたことがあった。

 「おめえ、ねしょんべんするんで、母ちゃんに始終おこられとるって聞いたぞ。だから、ばあちゃん、おめえを助けてやろうと思ってな」

 いくつもの小粒の実がフライパンの上で熱せられ、ころころ転がっているうちに、間もなくきつね色に変わった。

 勇夫はやみつきになった。


 「あら、イチョウの実、もう、こんなにいっぱい」

 ふいに麻里の声が聞こえた。

  勇夫のまなざしがしっかりしたものになり、胸が高鳴る。


  ふと麻里の声が飛んだ。

 「木村さん、あのう……」

  麻里は言いよどんだ。


  勇夫はその先を自分なりに読んだ。

 「いいんですよ、青梅さん。約束の時間、ぼくが間違ってしまってね、失礼しました。おかげで埠頭でいろいろありましてね、風変わりなおばあさんに出会ってね。その人から、大魚をもらいましたよ」

 と言った。


 何かしゃべらないことには、ことが始まらない。

 口を突いて出てくる言葉に、勇夫はじぶんの運をまかせることにした。


 麻里は一瞬、眉間にしわを寄せた。

 しかし、じきに笑顔をとりもどし、

 「あっ、そうそう、そうでした。舌っ足らずですみません。間違っていませんわ。勇夫さんは。実はあたし、あの日。急用ができて第三埠頭に行けなかったのです。わたしのほうからお誘いしておいて、ほんとに失礼しました。あなたのおっしゃるおばあさまって方は……、あたし、ちょっと心当たりがありませんけれど……」


 勇夫はこころの中が空っぽになった気分だ。

 なにがなんだかわからない。

 麻里は若い女性だ。一時の気の迷いで何だって口から出まかせでしゃべるなんてこともありうる。


(どのみちうまくいくものなら、海の神さまが……)

 勇夫は自分を奮い立たせた。


 「もらった魚ってね、チヌなんです。大きな、大きなクロダイ。おれが釣ったやつだと思うんです。とてもとてもぼくだけの力で釣りあげることができなかったんですよ」

 勇夫は顔を紅潮させていった。


 「そうですか。でもね。よくご自分の釣果だとおわかりに?」

 「ええっ。特徴がそっくりでしたし」

 勇夫は首をひねった。思考がますます混乱する。


 ふたりの間にしばし、沈黙が訪れた。

 それをやぶったのは麻里のほう、ため息をひとつつき、

 「実は、第三埠頭で、どうしてもあなたにお話ししておきたいことがあったのですが……、結局、何もお伝えしないほうがあなたのためになると思いました」

 「はあ……、そうですか」


 勇夫は麻里の次の言葉を待った。

 「実はわたし、入社したばかりで申し訳ないのですが、やめることにしました。一身上の都合です」

 「えっ、おやめになる?お若いし、ことぶき退社なんでしょうね……。せっかくお知り合いになれたのに……、残念です」

 「すみません。あなたにはとっても良くしてもらいましたのに。それではこれで、人の目もありますし」


 急な話で、勇夫の表情が暗い。麻里は顔を伏せた。

 そしてゆっくりあとずさりながら、

 「あのね、もしももしもですよ。わたしにお会いになりたいとお思いになったらね……」

 麻里は言いよどんだ。


 勇夫がここぞとばかりに切り出す。

 「会いたいと思ったら、どうします」

 「ふたつ岩って、ご存じですよね。その近くの浜辺に来てくだされば、わたしがあなたのもとにまいります」


 抑えに抑えていた言葉が、麻里の心の奥からもれだしてくる。

 麻里の目に涙がにじんだ。


 「ふっ、ふたついわ、今、ふたつ岩っておしゃいましたよね」

 「ええ、そうです。それでは……。あえてさようならは言いません」

 麻里はさっときびすを返すと、じぶんの持ち場へといそいだ。


 (ふたつ岩って、なんなんだよ。あんな言葉を麻里の口から飛び出すなんて。まったく。一体、どうなってるんだ。おれとあの海辺の少女しか知らないことなに……)

 勇夫の疑問は大きくなるばかりである。

 

 勇夫はどう心を整理したらいいかわからない。

 しばらくぼんやりと銀杏の木に寄りかかっていた。

 とにかく少し休もうと、ベンチにすわった。

 腰につるしたタオルで、ベンチにまばらに落ちた銀杏の実を寄せる。

 何気ない仕草がこころのなかの混沌を、ひょっとして秩序立ててくれるかもしれないと勇夫は思った。


 銀杏を寄せると、何かがキラリと光った。どうせ瓶か陶器のかけらと思ったが、よく見ると貝殻の破片だった。  

 勇夫はそれらを手の平にのせ、鼻に近づけた。


 ぷんと潮の香りがした。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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