第18話

 「ひゃっ、なんだやこれは、ずいぶんでっけえな」

 勇夫の母は魚籠の中のチヌを見るなり、驚いて目をみはった。

 「おらが釣ったんだ」

 自然と声が小さくなる。


 「うそばっかり、どこぞで買ったんだろ。こんなのおめえに釣れっこねえ。父ちゃんだって、釣ったことねえぞ」

 「釣ったっていってるよ……、苦労したけど」

 「ふうん?まあいい、そういうことにしておくか。それより、さあ料理だ、料理」

 美子はさっそく割烹着に身をかため、台所で働きはじめた。


 魚籠からチヌを取り出そうとしたが、おもくてまな板の上にのせることができない。

 「勇夫、ちょっと手伝えや。これだけ大きいんじゃ、とてもひとりじゃむりだ」

 「母ちゃんは口は達者だけど、やっぱり、か弱いんだ」

 「うるさい。釣ってくるだけじゃだめなんだぞ、料ってなんぼだ」

 勇夫はチヌを胸の前で両手でかかえ、まな板の上にのせようとした。


 チヌはまるでじぶんの運命がわかるかのようで、それまでじっとしていたが、突然、口をぱくぱくさせ、残りの体力をふりしぼり、尾びれをぶるっとふるわせた。

 「つええな、こんなになってるのに、まだ生きてる、こいつ」

 勇夫は天井を仰ぎ、目を閉じた。


 「どうしたんだ。早く、まな板にのせろな」

 「母ちゃん、ちょっと待ってくれないか、おれ、こいつの魚拓とりたいんだけど。こんな立派なチヌ見るのは、もうこれきりかって思うとな」

 「ああ、そうだな。まんで魚の横綱だ。それっくらいやってやったらいかんべ」

 「うん」

 勇夫は座敷に上がった。


 畳の上に寝かせると、チヌはバタバタとはねた。勢いあまってとなりの部屋との間じきりになっている襖にあたった。

 仏壇の前で両手をあわせ、亡父に大魚の報告。

 チンチン鳴る音が、美子の動きをとめた。


 「どうしたん、母ちゃん、包丁の音が聞こえなくなったけど」

 「なんだか、料理する気がなくなったぞ。こいつめ命びろいしたな。今夜は殺生はやめだ」


 時刻は、八時近い。

 「まあ。お茶でも飲むがいい」

 美子は、勇夫を茶の間にまねいた。


 湯呑に残っていたのを、勇夫は土間にまこうとしたが、美子がとめた。

 「朝茶だからな、それ飲み干して。そしたらあったかいのいれてやる」

 「ああ、わかった」

 美子が勇夫の顔色をうかがう。

 「母ちゃん、なんでそんなに?じろじろ見るなよ」

 「おめえにしちゃ、めずらしい顔しとるから」

 「そうかい。まあ、いろいろあっから。海は魔物が住んでるっていうからな、何事もなく帰宅できて、さいわいだろ」

 「ああ、そうだそうだ。疲れたった顔じゃねえな。なんだかうれしそうだぞ」

 「そりゃ、うれしいに決まっとる、こんなバカでかいの、釣ったんだ」

 勇夫の腹がぐぐぐうっと鳴った。


 「ふふっ、やっぱり腹減っとる」

 「コンビニで午後早く、おにぎり一個買って食べただけだったから」

 ここまる一日、勇夫は胸がいっぱいで、ろくに食事をとる気にならなかった。


 海辺で出逢った少女とのこと、それに、入社したばかりのうら若い女性に誘われたはいいが約束の時刻を間違えて、のこのこ埠頭まで出かけて行ったこと、魔物らしきばあ様に出逢って苦労したことなど……。


頭の中でぐるぐるまわる雑多な思いが、勇夫の空腹感をまぎらしていた。

 


  

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