第17話
「そうそう、いまひとつ、大事なものを忘れるところだった。やれやれ、歳はとりたくないものよな」
老婆は腰をかがめ、わきにある白っぽい容器を両手でつかむと、勇夫の前に引きずりだそうとする。うんうんうなって、目的を果たそうとするが、箱は思うがままに動かない。
勇夫は気味がわるいのか、ぼうっと突っ立てるだけで、手伝おうとはしない。
「近ごろの若いのは、まったく、心配りがなってないわな」
小声で言う。
「あっ、すみません。これはこれは気の利かないことで」
勇夫は何かにボンと背中を押されたように、一歩前に進みでて、
「おれにやらせてください」
持ち上げようとしたが、勇夫はぎっくり腰の気があるのを思い出し、ずずずっと引きずった。
「ほうら、重いだろ、あんちゃんよ」
「ある人って、いったいどなたでしょ?おぼえがないんですが」
勇夫が首を大げさにひねるので、老婆はにやりと笑う。暗い中でも、歯が黄ばんでいるのがわかった。
「若い女じゃよ」
「名前は?おうめって言いませんでしたか」
「名のらなかったな」
(第三埠頭って言っただけ。もっとよく訊いておけばよかった)
勇夫は悔やんだ。
発砲スチロール製の大箱。縦より横の方がずっと長い。
ふたを開けると、細かな氷の粒が大量につまっている。
「何が入っているのでしょう」
勇夫は老婆の許可を得ようと顔をあげたとたんに、あっと声をあげた。
老婆が立っているはずの場所に、彼女の姿がなかった。
ほんの一瞬の出来事だった。天に昇ったか地にもぐったか。おかしなこ
とがあるものだと、勇夫はじぶんのほほをつねってみた。
(まっとうな人間にもどったように思えたんだが、やはりだめだったか……)
勇夫はがっかりした。
しかし、勇夫は、あたりの様子が少し変わったように思う。
不自然さが徐々になくなってきている。
霧が晴れるように、眼に映る景色が、現実味をおびてきた。
あちらこちらで漁火がたかれ、船が行き来している。
海風が潮の香りを運んでくる。
「ありゃなんだ、これは?」
さきほど、老婆がふところから取り出した玉が、宙にすうっと飛び上がった。
箱の上をくるくるまわる。もう何が起きても、勇夫は驚くまいと心の中で決めた。
ほたる玉がさっきより明るい。
箱の中身を点検するのにじゅうぶんである。
勇夫は手がかじかむのを承知で、箱の中身をさぐりだした。
固いものに触れた。ゆっくりと、その表面をなでる。
(うん?これってひょっとして魚?これが頭で、これが目玉、それと、こいつはえらの大きさがハンパないな)
左手で、魚の口のあたりをさぐった時、人さし指がちくりと痛んだ。
(釣り針かもな)
さらに、こまかく指を使いだした。
(ルアーか?ひょっとしておれのかもしれん)
そう思うと、胸がどきどきする。
でかい蛍が、箱のま上で、ふわふわしだすと、勇夫が両手でかかえたもののすべてが明らかとなった。チヌである。勇夫の見たことのない大物だった。
(海で生まれ育ったように泳ぎの達者な、あの女の子。彼女ががんばってとってくれた魚に違いない。だが待てよ。いま、問題にしているのは、彼女じゃない、おれの会社に入ったばかりの青梅麻里の話ではないか)
考えれば考えるほど、勇夫の頭が混乱してくる。
ふいに風が強くなり、勇夫がよろけるほどだった。
早く、家路につかなけりゃと思う。
途中で、猫にでも持っていかれでもしたらたまらない。
勇夫は、箱にぎっしりつまっている氷のかけらを海中に捨て、軽くなった箱を黒い革ジャンの肩にかついで意気揚々と歩きだした。
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