第16話
勇夫は上下の歯をぐっとかみ合わせ、
「びっ、びっくり?とんでもないです。ただね、こんなに暗いのに、あなたのようなお年寄りが足もとの危うい埠頭でうろうろしていらっしゃるのはどうかと思いましてね」
思い切って、じぶんの気持ちを打ち明けた。
だが、強気な言いっぷりに反して、彼の体はじりじりと後ずさる。
「けけけっ、やっぱり、逃げ出そうとしてるじゃないか。こんなにか弱いばばあがそんなに怖いのかい、ええっ、おまえさん?でもな、まあいいまあいい」
ふいに老婆が黙りこんだ。
どれくらい経っただろう。
勇夫は、即刻、この場から立ち去ろうとしたが、じぶんの体が意のままにならない。埠頭のコンクリの上にのっているブーツが、まるでボンドでくっつけたように動かない。
(これって、ひょっとして金縛り……、口裂け女が出没するぞって、知らせてくれたイカ釣り船の漁師の話どおりじゃないか)
勇夫は、遠い日に、父がじぶんに話してくれたことの中から、こんな場合、つまり魔物にからまれたりした際の脱出方法を、あれこれと考えてみた。
「ああ、どうしていいかわからん。おれはここで一巻の終わりか、海の魔物に食われてよお。おらは時間を間違えたんだ。きっとそうだ。うら若い麻里がこんな時刻に合わせてやってくるはずがないじゃないか」
そう小さく口を動かしてみた。
「あっ、ええっ、おまえって……、ひぇっ」
目の前の老婆がそう言ったかと思うと、急にへなへなとすわりみ、動かなくなった。
ふいに風がでてきた。冬を告げる風ではない。
沖を流れる暖流のせいで、少しばかり暖かさをともなっている。
老婆の身に着けている厚手の衣服が、バサバサ、音をたてた。
怪物に身を落としたとはいえ、もとは人間であったろう。
勇夫は、老婆の身を気づかいはじめた。
「おまえさんは、ほんにまあ、よか男じゃのう」
老婆の意識が戻ったのだろう。
勇夫はかまえたが、彼女の口からバリ雑言がとびださない。
「お気づきになったんですね。それは良かった。わたし、どうやら人違いをしたらしいので。すみません、これで失礼します」
目が闇になじんだのか、さっきより、あたりの様子が判別できた。
「まあまあ待ちなされ。あんたはなかなかに見込みがある。今までわしを目の前にして、それほど落ち着いていた者はいなかった。おてまえのおんとし、四十いくつとみたが、どうだ?母ごといっしょに暮していなさる」
「ど、どうしてそんなことを?」
「こう見えて、わしは占い師でな、港の人だかりを狙って、商売をしておる」
もはや、先ほどまで老婆から発せられていた妖しげな気配は消え失せている。
(彼女も、一時期、魔物にとりつかれていたのだろうか。まものと口にすることで、金縛りが解けた、老婆もそう……)
「おめでとう。おまえの気持ちがやわらいできて。いつまでもこの埠頭のコンクリートみたいに強情だったら、わしのこの口で、狼ゆずりのこの牙で、おまえの頭をガリガリとを砕いてやろうとな、へへっ」
勇夫はあとずさった。
言うことは恐ろしいが、声がやわらかい。
勇夫のからだのすべてが以前のように、自由自在に動くわけではない。
いまだにしっくりしない箇所が残っている。
「ご冗談でしょう。みながびっくりするから、そんなふうに冗談を飛ばすのは、これきりにしてください」
のつのつしながら、しゃべる。
「なんじゃ、まだこわばったままか?」
「ええ」
「まあいい、おまえさんがそう頼むんならな、言うことを聞き入れてやろう」
「お願いします」
「ああ、そうじゃそうじゃ、大事なことを忘れるところじゃった。これだ、これだ。ある人に頼まれてな。おまえに渡してくれって」
老婆は大げさに体を動かし、ごわごわした上着のふところに手を入れ、何やら光るものを取り出して見せた。それは何やら玉のよう。
しかし、勇夫には、それがとてつもなく大きいホタルで、ぼうぼうとわが身を燃やしながら、連れ合いを求めている姿に見えた。
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