第15話

 いっそうのイカ釣り船が近づいてくる。

 いくつもの大きな丸い電球が、ぬめぬめ動く怪物の皮膚のような海面を照らし出す。


 漁師のひとりが、黒いゴム手袋をはめた右手でランタンを持ち上げると、頭に白いタオルを巻いた彼の顔があらわになった。

 しわが多く、浅黒いのが、暗くてもわかる。


 「よお、あんちゃんよう、もうじきとっぷり日が暮れちまうぜ。いいのかい?この辺りじゃときどき、耳まで口の裂けたババアが出没してなあ、埠頭でうろうろしてる奴を、こうがぶりとなあ」

 おおげさな身振り手振りで、彼は勇夫を驚かせた。


 「はあ、かいぶつが出るんですかあ?おっかないなあ。でもまあ、ご忠告感謝しますよ。ちょうどやめようと思ってたところなんです。どうもどうも」

 勇夫は、釣りの道具を片づけ始めた。


 イカ釣り船が、なにごともなかったように沖に向け、すうっと海面をすべっていく。埠頭はまたもとの静けさをとりもどした。


 勇夫は、間もなく、コツコツという靴音を聞き、顔をあげた。

 どれくらい彼から離れているだろう。

 そこだけがひとの形をして、やけに暗い。

 人影はたたずんでいるだけで、ひと言も発さない。


 黙っていられると、かえって、気味わるさがつのってくる。

 恐怖にかられ、勇夫は、大声をだした。

 「まりさん、でしょ?おうめまりさん」

 じぶんの声で、じぶんの不安な気持ちを励ました。

 人影は、口を利かない。

 ますます怖さがつのってきて、勇夫はあやうく叫び出しそうになった。

 

 「けけ、なんだい、おめえは?若いもんじゃあるまいし、いったい、おめえは、このババをどうしようって魂胆なんだい」

 ふいに、人影がしわがれ声で応じた。


 「ええっ?あっ、はい。なんだ。間違えました。すみません。ついつい、知り合いだと思ったものですから」

 応答をもらい、ほっとしたものの、勇夫の心の奥底から新たな恐怖がわいてくる。


 「ふふ、ふふふっ、へえ、そうかえ。知り合いだと思ったんだ」

 太陽がとぷんと海のかなたに沈みこんでしまい、勇夫はじぶんの鼻をだれかにつままれてもわからないくらいになった。


 イカ釣りのあんちゃんが教えてくれた、口裂けババがあらわれ出たに違いない。

 勇夫は、そう覚悟した。


 一瞬、背筋をひんやりしたものが走ったが、相手に気取られてはならない。下腹に、力をこめた。


 「へへっ、そうかい、そうかい。おめえ、びくびくしとるな。だれぞに、わしのうわさ、聞いたな。いっ、ひっひい」

 勇夫は目を閉じた。


 地獄からの使者がそのまがまがしい手で、勇夫自身のたましいをつかみだし、あの世とやらへ持ち去ってしまう気がした。

 

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