第14話
約束の日、勇夫はいつもの時刻に、会社に向かった。
部署が違うので、麻里を見かけることはない。
だが、この日はめずらしく、麻里が勇夫の仕事場に入ってきた。
いったい全体、なにごとかと。勇夫は胸中おだやかでない。
麻里の顔をちらりと見やると、彼女は勇夫のほうに体を向け、あろうことか、ウインクしてみせる。
勇夫はぎょっとして、顔をそむけた。
(先だっての約束の確認にでも来たのだろ
う。それにしてもだいたん過ぎる)
勇夫の気持ちが通じたのか、麻里も、ふんといった表情で、きびすを返した。
そばにいる勇夫の上司に何事か話しだした。
仕事のことだろうと、勇夫が聞き耳を立てていると、そうではない。
「お昼はなににしますか」とか、「食事を終えたら、大塚課長、わたしたちのバレーボールの指導をしていただけませんか。学生時代、国体まで行かれたんですって」といった話題。
大塚課長は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、
「きみねえ、あのねえ。ええっとそうだね。昼飯はいつものでいいし、バレーのほうはオッケーだからね、なんていうかそのう……、とにかく、あはははっ」
笑いながら、右手をおおげさに二三度振った。
早く出て行け、という意味である。
勇夫は、なんども、じぶんのほほをつねった。
(明らかに、麻里は自分に関心を寄せている)
しかし、勇夫はその理由がわからない。
その日は、一日じゅう、浮き足立った思いで、過ごさねばならなかった。
麻里は、「午後二時、第三埠頭で」と言った。だが、勇夫は間違えた。
夕方と、勘違いしてしまっていた。
若い女性に、めったに声をかけられたことがない。浮ついた気持ちがそうさせたのだろう。
仕事場から麻里が立ち去る際、勇夫は、麻里を追いかけたかった。
わざわざじぶんの部署まで押しかけて来た理由を訊きたいと思った。
だが、他人の目がある。勇夫は断念せざるを得なかった。
仕事がはねても、勇夫はすぐには家に帰らなかった。街中をぶらぶら歩いた。
長くのびた髪が気になるから、床屋に足を向けたり、ファッションウインドーをのぞいたりした。
午後三時ごろ、勇夫はようやく、家にたどりついた。
「なんだい、勇夫。ずいぶん遅いじゃねえか。
お昼は?」
「済ませてきた」
もっと問いかけようとする母の芳子を制するようにして、勇夫はざしきにあがる。
「なんだい?また出かけるのかい」
「ああ、きょうはちょっと友だちがね。急なメールで、いいポイントが見つかったからって、行ってくるよ、わるいね」
勇夫は歯切れがわるい。
「へえ、こんな時期にね。釣れる魚って、さあって、いったいどんなつらをしてるんだろねえ?まあいい、食べられそうなら、母ちゃん、なんだって料ってやっから」
「うん」
「ポチのことだって、散歩に連れだすからさ、心配すんな」
勇夫の支度がととのい、玄関の敷居をまたぐ際にも、芳子は口もとにほほえみをたたえたままだった。
あんたがうそをついてるっていうことくらい、ちゃんとお見通しですからね。
芳子の眼は、そう言っていた。
第三埠頭の突堤についた。
秋の日は変わりやすい。昼間は、夏を思わせるような陽射しが照りつけていたが、夕方近くになると、急に空が灰色の雲におおわれた。
しだいに雲が厚みを増す。
絹糸のような雨が降りだすのに、それほど時間がかからなかった。
ひとりふたりと、釣り人が突堤から引き揚げ
ていく。
勇夫は持参した雨がっぱを、頭からかぶった。左手に、三段式の釣竿を持ち、海面に糸を垂らしている。
だが、針には、餌を付けていない。
勇夫のいらいらがつのる。
赤いキャビンの封を切り、紙巻きたばこのはじを、歯でくわえた。ライターで火をつけた。ほほをへこませ、一度、深く吸いこむ。
残った煙草を、一本、二本と、足もとの空き缶の中に投げ込んだ。
「夕方っていったってな、いつまでもここにはいられないよ」
勇夫はそうつぶやくと、港の奥を見るまなざしになった。
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