第13話
勇夫はもうすぐ、四十五歳。
街のはずれの古びた一軒家で、母の芳子とふたりで暮らしだ。
山を背にした高台にあり、四畝ほどの畑もある。
そこで芳子が毎日、野良仕事をする。じゃがいもやきゅうり、それにかぼちゃ、ねぎといった野菜作りに日焼けした顔をほころばせる。
近所付き合いがあまりなく、母の芳子が早くぼけてしまわないかと勇夫は心配したが、取り越し苦労だった。
野良仕事が、彼女を、認知症から遠ざける役割をしてくれている。
なんといっても見晴らしが良く、春秋を通じた自然の美しさを味わえる。
それが勇夫の自慢だった。
芳子は彼女の夫が亡くなって以来ずっと、朝早くバイクで港まで行く。
「母ちゃん、もう終わりにしてくれないか。事故にあわないかと心配して、気の休まるひまがない。肉や魚は、おれが早起きして買いに行ってくるしね。たまには釣りに行ってさ。おれみたいなものの針にひっかかってくる魚もいるんだ」
勇夫がそう言って胸をはると、芳子はぷっと吹きだし、
「父ちゃんがそう言うんならまだしも、おまえにゃちょっとな。おまえに釣られるような、のんびりした魚なんてしれたもんだ。それより会社でがんばっておくれ。それなりに稼げるんだし。それに……」
だしぬけに芳子は勇夫の両手をにぎり、彼の瞳をじっと見つめた。
「なんなんだい?急にあらたまって、びっくりするじゃないか」
「それよりも、嫁さまだろ。おめえに用なのは。食い物なんて、なに喰ったって生きていける。金だって、暮らしに困らないくらいあればいい。大事なのは、子や孫。ほら、しろがねもくがねもたまもなにせむに、っていうだろ。若い女の人を、どこかでなんとしても釣りあげてくるこった」
勇夫には、その言葉が一番にこたえる。
「おれなりに考えてるから、ほっといておくれ。これは縁のものだし、あせったってしょうがないだろ。時が来れば、おれにだって……」
「ああ、そうだない」
二十代の初めころ、勇夫にいくつか縁談がまいこんだが、アラサー、アラフォーと年老いるにつれ、話が少なくなり、ついにはゼロになった。
付き合った女性はふたりいたが、どちらも都会人、田舎暮らしになじめず去っていった。
勇夫の性格もあった。肝心な時にいまひとつ押しが足りなかった。
四十を過ぎたころは、世間のことがわかりすぎたあまり、むりして結婚しないでもいい、ひとりのほうが楽だと考えるようになった。
そうはいっても、先のことはわからない。
じぶんに釣り合う人が見つかるかもしれないと、希望の火をともし続けた。
(子が欲しいんなら、里親になればいい。その子に家をつがせりゃいい。かわいそうな子がこの世にはいくらでもいる)
近ごろ、芳子はあまり外出したがらない。道の先々で知り合いに出会い、
「おまえさまのせがれはどうしてる?まあだ、独り身かい」
と、露骨に声をかけられるのがいやだった。
「ちょっと、勇夫。なにぼんやり突っ立ってるんだい、そんなところでいつまでも。日が暮れるぞ」
夕陽がはるか海のかなたに沈んでいくのを、庭で、ぼんやりたたずんで見ていた勇夫を芳子がとがめた。
「ああ、わかってるよ」
だが、勇夫はなかなか動きださない。
(おれが勤める会社は、あの一番のっぽのビル。その向こうの煙突の多い工場群だってみんな会社のものだ。きょう、会ったあの子が住んでいるアパートはもっと海の近くの……)
数十年前、工場の煙突から出る有毒物質が街の空気を汚した。今では技術が進歩し、のどかな日常をとりもどしている。
勇夫の脳裏には、昼間、出会った女性の面影が宿っていた。
先日、青梅麻里は、勇夫が海岸べりで出会った少女に似ていた。
「聞こえないのかい?母ちゃんの声が……、ぼうっとしてさ。ひょっとして、おめえ、誰かいい人でもできたんじゃねえか」
勇夫は顔をぽっと赤くし、
「ばか言うんじゃねえ」
「そうかい、そうかい。いい歳して顔がほてってるぞ。まあ、いいさ。とにかく夕飯ができたぞ。食べないとかたづけるぞ」
「食べるよ、食べりゃいいんだろ」
勇夫はうつむいた。
じぶんのにやけた顔を、母親に見られたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます