第12話
「あのう、突然で失礼なんですけれど、あなた、きむらさんですよね」
麻里は眼をくりくりさせ、まだまだ体にしっくりこない紺のスカートの裾を気にしながら、勇夫の前でしゃがんでみせた。
勇夫は戸惑った。
首をまわし、あたりの人影をさぐってみるが、誰もいない。
少年のように勇夫ははにかみ、麻里を見つめた。
じゅうぶんに日焼けした鼻に、黒っぽくなった右手の人差し指をあてると、麻里はうふふと笑った。
そうそう、と言う代わりに、首を二度ふる。
「ええ?ぼ、ぼくですか。人ちがいされてるんじゃ。確かに木村ですが、社には木村はたくさんいますし、ね」
ぶっきらぼうに答えた。
顔、襟足、手足。麻里のはちきれそうな肌に、勇夫はもはや取り戻しようのないじぶんの青春時代を思い起して、いささか憂鬱な気持ちになった。
しかし、決して表情には出せない。
彼女にどう受け取られるか知れないからだ。
ふいの風が麻里の長い黒髪をなびかせ、彼女の顔をおおった。
風が冷たく感じられるのか、麻里は一瞬、身をすくめた。
(なんてすてきな子だろう。こんな子がおれの妹だったら)
勇夫はそう思ったが、この際、口に出すのは絶対まずい。
「いさおさんでしょ、きむらいさおさん?」
「あっはい。でも、どうしてフルネームを?」
「入社したてですけど、わたし、事務担当ですもの。あなたのお名前くらいすぐにわかりました」
初めて会った女性にもかかわらず、勇夫は彼女を他人と思えない。
どこで会ったろう、の言葉を、いくども頭の中でくり返した。
「あまり時間がないから」
「はい」
弁当を食べている間、麻里は銀杏の木の下で、ぎんなんを拾った。
勇夫にとっては至福の時間だった。
じぶんのことをなぜか気にする若い女性の出現を、つかの間喜んだ。
「さあてと、もう職場にもどらなくちゃ」
勇夫は立ち上がった。
「ぼくみたいなおっさんに、いったい、なんの御用でしょうか」
麻里は勇夫のもとに歩み寄ろうとした。
「うん、人の眼もあるしね」
「じゃあ、ここでお話しますわ」
そうして、と勇夫は靴のひもを直しているふりをした。
いざとなると、麻里は、言葉がのどにつかえたようだった。
「とりたてて、大事なことじゃなさそうだね。もう始業五分前のチャイムが鳴り始める。行かないと」
麻里は子どものようにたたずんだまま、足踏みをしだした。
キンコン、カンコン。
チャイムが鳴った。
「じゃあね。また。今度会ったら、会釈くらいさせてもらうよ。きみは入社してまだ日が浅いんだ。ちょっとくらいうまくいかなくても気にすることはない。無理せずにね。あっ、そうそう、明日は土曜、たしか仕事は半日で、切り上げだったね」
勇夫は言わずもがなのことをつぶやくと、麻里の足踏みがやんだ。
「いさおさん、優しい。あのう、あしたの午後、二時ころに……、港にある第三ふ頭で……」
麻里が小声で言った。
「なんだろ。よく聞けなかったな」
「み、みなとのだいさんふとうに来てください。二時です。待ってます。折り入ってお話があります」
「わかった」
勇夫は即座に応じた。
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