第11話

 勇夫は帰り支度をととのえると、痛む足をかばいながら、砂浜を防波堤にむかってゆっくり歩いて行く。

 運動靴が砂地にめりこむ。


 釣果がなにひとつないのだから、もっと憂鬱な気分でいていいわけだが、なぜかそうなれない。

 やたらと胸がはずんだ。


 勇夫の頭に、さっき会ったばかりの少女の面影がこびりついて離れない。

 (釣り以外のものを期待してポイントに来てしまうなんて、なんて俺はばかやろうになったんだろう)


 「しっかりしなきゃ、しっかりしろ、いさお。お前は一家の大黒柱じゃないか」

 勇夫は小声で、じぶんを𠮟りつけた。


 やっと駐車場につづく階段に到達し、硬いコンクリの上を歩きだしたときには、かろうじて、いつものじぶんに戻っていた。


 (ものは考えようだ。父が亡くなってから、おれはどこかでじぶんを犠牲にしてきたんだ。だから……。海の魔物かもしれない、あんな得体のしれないものに心を動かされてしまうんだ。でも、まあいいか、実害がなければなあ。おれだってひとつくらい楽しみがないと。それにしてもあの子、ずばぬけて泳ぎがうまいな。少々波が荒くても平気そうだし。まるで……)

 勇夫はそこまで考えて、怖くなり、その先を考えるのをやめた。

 家にたどり着いても、勇夫の脳裏から少女の面影が消えることはなかった。


 それから数か月が過ぎた。

 会社の仕事がたてこみ、勇夫は趣味に没頭することができなくなってしまった。


 夏日が徐々に少なめになり、風に冷たさを感じはじめたころ、野道にススキが穂をだしたり、萩が小さな赤い花をつけはじめた。

 ひとりの若い女性が勇夫の会社で契約社員として働きはじめた。


 「おうめまり、十九歳です。高校を卒業してしばらくぶらぶらしてました。世の中のことはよくわかりません。よろしくお願いします」

 小学一年生のように、彼女は大きな口をあけ、はきはきと挨拶した。

 勇夫ははっとして彼女を凝視した。今までに出会った誰かとあまりに似ている気がしたからである。


 勇夫の会社は製紙関係の企業としては、県でもその名が知られていた。

 青梅麻里は初めてにもかかわらず、ベテラン事務員にまじって立ち働いても、決してひけをとらない。


 当然、彼女が社内の若い男たちの目に留まるのにそれほど時間がかからなかった。

 彼女にモウションをかける男はひとりふたりではなかったが、彼らは結局、指一本触れることなく、彼女のもとから立ち去らねばならなかった。


 (あんな若い子がおれとなんて縁があるわけがない)

 勇夫はそう思い、たとえ彼女が近くにいることがあっても、われ関せずとひょうひょうとしていた。


 会社の中庭に、けっこう年老いた銀杏の木がある。

 勇夫は、秋が深まると毎年、社員食堂で弁当をひろげず、その木の下にあるベンチで昼休みを過ごすのをならわしにしていた。


 ある日のこと、彼は地面に落ちている銀杏の実を踏まないよう注意しながらベンチまで行き、よいしょと腰かけると、小さなふろしきをひろげた。

 「あのう……?失礼ですが」

 ふいに、ベンチわきで、女の声がした。

 「あっ、はい」

 勇夫は驚き、あわてて弁当箱を包み始めた。


 若い女だろうか。誰かが鼻先でくすっと笑った。

 笑い声のしたほうに勇夫が視線を向けると、青梅麻里がいた。


 若い女の子がじぶんに言葉をかけてくるなんてことがあるわけない。かたくななまでにそう思っていた勇夫だった。

 勇夫はゆっくり首をまわす。

 だが、辺りに若そうな男はおろか、誰ひとり見あたらない。念には念を入れるべしと、勇夫は黙ったままでいた。


 「きむらいさおさん、でした、よね?」

 突然、青梅麻里の顔が目の前にあらわれたので、勇夫はベンチから腰をうかせた。

 

 

 

  

 

 

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