第10話
顔がほてるやら、胸がどきどきするやら、勇夫は動転してしまい、とても釣りどころではない。
勇夫は黙りこんだ。
少女に会って以来、勇夫は変わった。
家庭では親孝行むすこ、会社ではまじめ人間。父が亡くなってからというもの、勇夫は勝負ごとひとつせず、ひたすら、ひとり二役を演じつづけてきた。
そんなじぶんがかわいそうに思い始めたのだ。
「勇夫よ、おまえもたまには、はめを外してもいいじゃんかよう」
もうひとりのじぶんが、にやけた顔つきで言う。
「そうだよな、まちがっちゃいないよな」
あやうく、勇夫は、もうひとりのじぶんに引きずられそうになる。
人なのか、それとも魔物?少女は得体がしれない。
彼女のまなざしや言葉が、勇夫にとって、いかに魅力的か、言葉で表すのがむすかしい。
勇夫は決して、彼女に触れることはない。ただ彼女のそばにいるだけだ。
それだけのことが、初心で、純粋な勇夫の心をうきうきさせた。
自分なりにずっと、ことの善悪を判断してきた、勇夫のこころのたがが一度ゆるんでしまえば、もはや直しようがなかった。
「ねえ、おにいさんったら、もう……、いやんなっちゃうわ」
少女が顔をしかめて言う。
「えっ、何?あっ、そうか。ついつい、ご、ごめん」
勇夫は少女の足もとを眺めた。夕陽に照らされているせいで、あかっぽい。
小麦色に焼けた肌が彼女が海に馴れ親しんでいることを示していた。
「あんまり見ないで。恥ずかしいわ」
「ごめん」
勇夫は顔を紅潮させて言った。
(やれやれ、これじゃストーカーになりそうだ。相手は年端も行かない子どもだ。どんなふうにしゃべったら、彼女を傷つけることもなく、うまくあしらうことができるだろう)
勇夫はよろけたふりをして、最寄りの岩場に腰をおろした。
その隙に釣竿を岩のはざまに奥深く差し入れた。
「なんと言ったら、いいのやら?こんな荒磯できみと知り合いになるなんて考えもしなかったよ」
これだけではすまず、なおも世辞じみた言葉を吐きだしそうになって、勇夫は唇をかんだ。
「やっぱりね、やっぱりね。いやだな、おにいちゃんって」
さかんに少女がはやしたて、浜辺に寄せる波とたわむれだした。
いつの間にか、彼女の動きがリズムをきざみはじめる。
「何なの、それ?まるでダンスみたいだね。こ
の辺りに伝わる踊りかな」
「ううん、別に。そうでもないわ。からだが勝手に動くだけよ。それより、おにいさん、竿をしっかり見てないと。糸がつんつん引っ張られてるわ」
「ええ?ああ、ほんとだ。どうもありがとう」
勇夫は急いで立ち上がり、両手で竿を持つと、シャッと音立てて、竿をあげた。
魚のおもみが手に伝わってくる。魚の泳ぎが急に勢いをまし、沖に向かった。
竿をつかんでいた勇夫の手があやうく、竿から離れそうになる。
「こりゃ、だめだ。大きすぎる」
勇夫は、少女がいまだに傍らにいるように思っている。
「どうしたらいいんだろうね。困ったよ」
いくら待っても、彼女からの返事がない。勇夫はがっかりしてしまい、その場にしゃがみこんだ。
その隙に、釣竿が勇夫の手から離れ、するすると海中に沈みこんでいく。
夕陽の朱のいろが次第に淡くなり、闇が支配しはじめた。
(魚が食いついたことを知らせてもらったのに、なんてことだ。情けない。それにしてもあの子はどこに行ったのだろう。魔物じゃなければ、人の子だ。事故にでもあって、どうにかなったら、彼女の親たちになんと言ったらいいのだろう)
「ねえ、おじょうちゃん、そこにいるの?いたら返事してくれる?」
ひとつふたつと勇夫は十までかぞえた。
だが、少女からの返答がない。
(まあ、これでよかった。どこかわからないが、家路についたのだろう)
勇夫はほっとした表情になった。
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